Raise Your Flag
ルカとナインに、再び暗部が迫る。
幾つもの影が滑るように動き、湿った刃が淡い光を返す。毒が塗られていた。
「ここから先は通行止めだ」
短く刈られた銀髪、岩を積み上げたような体躯。
首も腕も足も太く、ロープを撚り合わせたような筋肉で盛り上がっている。
肩は岩壁のように広く、戦いに向けてゆっくりと吐かれる息は、辺りに風を起こす程。
まるで、何百年もそこに在り続けた山のようだった。
エグバード・ヴァン•クラウド。
ジ=ゲン流剛剣術剣帝が、立ちはだかった。
琥珀の双眸が暗部を見据えた瞬間、空気が張り詰めた。
「……ここを通りたければ、《不壊の剛腕》を砕いてからいけ」
その一言の直後、暗部がエグバードに走った。
巨大な鉄塊のような両手剣が、低い唸りをあげて振り抜かれた。
刃が空を裂き、風圧が砂塵を巻き上げる。
踏み込んだ足が地を砕き、剣が描く弧が閃光のように走る。
最前列の暗部の胸鎧が、鈍い音を立てて真横に割れた。
最初の一人が倒れるより早く、後方の二人が両断され、最後の一人が悲鳴を上げる間もなく叩き伏せられる。
風が遅れて吹き抜け、血煙が細かい霧となって舞っていた。
血の滴る刃を一度払うと、エグバードは無言のまま両手剣を構え直した。
視線が敵を射抜く。
圧倒的な殺気に、残った暗部の誰かが息を飲んだ音が、異様に大きく響いた。
一歩。
エグバードが地を踏みしめ、前に出た。
その一歩だけで、数名の暗部が後ずさった。
*
初めは、かすかな震えだった。
だが、それは秒ごとに強さを増していく。大地の下で、何か巨大なものが蠢いているようだった。
遠くに砂煙が立ち上る。
目を凝らすと、その向こうで旗がはためいている。
馬の鬣が風を切り、槍の穂先が陽を弾いて閃いた。
騎士団が進軍してくる。
掲げられているのは、アーデルハイト公爵の旗。
アーデルハイト公爵領軍が――国境を越え、辺境伯領へと侵入してきたのだ。
アーデルハイト公爵の暗部達が前に出た。
「殿下、こちらへ。騎士団のもとへ」
そう言ってユリウスの前に立ち、退路を作る。
呆然としていたユリウスの表情に、ようやく生気が戻る。
アーデルハイト騎士団の旗が見える方へ、裾を掴むようにして走り出した。
—その瞬間、風が裂けた。
ユリウスの頬のすぐそばを、光の槍が掠める。
耳の横で爆ぜる音と共に、髪の一部が焼け散った。
振り返る。
そこに、右腕を伸ばしたナインがいた。
瞳の奥に、殺意が滲んでいる。
「動くな」
低く、鋭い声が射抜くように響く。
「次は――耳だ」
ユリウスは息を呑み、その場に凍りつく。
暗部の一団が動いた。
刃が抜かれ、殺気がナインに向けられる。
だが、その瞬間。
エグバードが、一歩前に出ていた。
その巨躯が光を遮り、まるで壁のように彼らの前に立ちはだかる。
無言のまま、両手剣をわずかに傾ける。
ただ、それだけで、暗部達は動けなくなった。
エグバードと暗部、ユリウスの張り詰めた緊張の最中。
唐突に、金属質の――風を裂くような高音が響き渡った。
それは、もはや“声”ではなかった。
張り詰めた鋼線が、千切れ飛ぶ寸前に軋むような音だった。
全身全霊をかけて振り下ろした刃が、空を裂くような音だった。
ひとつの音が重なり、次の音を喰い、さらに別の音が産まれていく。
響きが連なり、律動が脈打つ。
祈りにも似た殺意の発露。
第八階梯魔法――高速詠唱。
通常であれば、十人の魔導師が三十分を費やす術式。
ナインは、それを一人で紡いでいた。
高音が戦場を貫き、魔法陣が幾重にも重なる。
眩い光の中、詠唱の最後の鍵音が、鋭く空気を裂いた。
――「灼獄覇焔」
虚空に、魔法陣が顕現した。
赤熱した光輪が、螺旋を描きながら拡がっていく。
大気が軋む。
熱で空間が歪み、魔力の飽和が音を孕んで波打った。
刹那――
赤熱線が放たれた。
閃光の後。
熱せられた空気が急激に膨張し、爆音が戦場を切り裂く。
必殺の熱線は、突撃してくる騎士団の目前、馬の鼻息が届くほどの距離で――地面を一線に薙いだ。
土が裂け高熱で溶ける。
空気が急激に膨張し、轟音が大地を震わせた。
最前列を疾走していた一団の馬が悲鳴を上げ、立ち上がり、背の兵を投げ捨てた。
騎士たちが吹き飛び、転倒した馬ともつれあい、折り重なり、地面が見えない。
倒れた騎士たちの呻きと馬の嘶きが交錯し、やがて騎兵の奔流は止まり、突撃は潰えた。
その時、戦場に地を割るような怒号が、響き渡った。
「――全員、動くな!」
砂塵の中、エグバード・ヴァン・クラウドが、大剣を地に突き刺し、仁王立ちで声を張る。
「ユリウス・アウグラード・ラズヘルド第二王子!」
その名が響いた瞬間、兵たちの視線が一斉に、立ちすくんでいる少年へと集まる。
「貴殿は――魔王討伐において功を立てた我が娘、勇者ルクレツィアを拐かし、
さらに、その勇者を支えし大魔法使いにして、娘の想い人でもあるナインを、毒にて葬ろうとした!
一体、いかなる道理があっての所業か!」
声は雷鳴のように戦場を貫き、誰も息を飲むことしかできなかった。
「そして――アーデルハイト公爵騎士団にも、申し述べる!
貴殿ら、シュトルムベルク辺境伯領軍が未だ魔王討伐の戦中にあるこの折、
王命もなく、無断に国境を越え、我が領土へと侵攻した!
これは、一体いかなる理あっての所業か!」
エグバードの声が戦場に響き渡り、空気が震えた。
誰も言葉を発せず、砂塵の舞う中で、彼の怒気だけが場を支配していた。
「返答、いかんによっては――」
エグバードの声が一段と低く、重く響く。
「たとえ王家であろうとも……!」
「たとえ無双を誇るアーデルハイト公爵騎士団であろうとも……!」
彼は両の手で大剣を構え、琥珀の瞳に烈火を宿す。
「ジ=ゲン流浪人エグバード、理なき暴に、我が命、我が剣を賭して――
己れの意地を押し通すっ!」
風が唸り、砂が舞う。
エグバードの背に、二つの影が寄り添った。
ナインとルカだった。互いに支え合うように立ち、彼の隣に並ぶ。
「お供します。エグバード様」
まだ体調は万全ではなく、ナインの肩は苦しげに上下していたが、視線は揺らがずエグバードに向けられている。
「御父様だけ行かせません」
ルカも言葉を重ねる。まだ力が入らず、震える指先とは裏腹に、その声音は揺るぎなかった。
二人は顔を見合わせ、小さく頷く。
そして、同じ言葉を口にした。
「「これは、自分達のことです。だから――私たちも戦います」」
一瞬、エグバードは目を細めた。
その険しかった表情に、ふと穏やかな笑みが浮かぶ。
「……そうか。わかった」
彼はゆっくりとナインの方を向いた。
「水臭いぞ、ナイン。もう、父と呼んでくれ」
一瞬、ナインの表情が緩み、唇が笑みを形づくった。
「……わかりました、義父上」
三人対二千人。
でも、退くつもりはなかった。
先に怯んだのは、アーデルハイト公爵騎士団二千人だった。
*
ナインたち三人の背後で、地を踏み鳴らす音が広がった。
振り返ると砂煙の奥から、いくつもの旗が掲げられていた。
シュトルムベルク辺境伯領――その家臣団が率いる騎士団が、隊列を整えて迫ってくる。
先頭に立つ辺境伯家の長男、ルドルフ・ヴァン・シュトルムベルクが、隻腕で器用に騎乗している。
そのすぐ脇を、別の影が駆け抜ける。
長い青銀の髪を纏め上げ、ナインの婚約者の一人――ミレーユ・ヴァン・シュトルムベルクが馬を走らせていた。
片手に槍を携え、その速度は騎士団の誰よりも速い。
翻る旗の森の中に、さらにひときわ大きな旗が見える。
レヴィアタン家紋章。
その旗の下――堂々と馬を進める男がいた。
エルヴィナの父、ザミュエル・ヴァン・レヴィアタンが、痩身を鎧で包み共に馬を駆っている。
家々の旗がひとつ、またひとつと連なり、
そのすべてが三人の背中へと集結する。
駆けつけた騎士団の先頭で、ルドルフ・ヴァン・シュトルムベルクが馬を止めた。
視線が戦場を走り抜け、そして――エグバード、ナイン、ルカへと注がれる。
「エグバード」
馬上から放たれた声はよく響いたが、その奥に穏やかな気遣いがあった。
「父上からの伝言だ。――貴様の出奔は認めん、とな」
淡々と告げながら、口元に苦笑を浮かべる。
「大いに怒っておられる。いまこちらに向かっている最中だ。……あとで思いきり叱られるといい」
そう言うと、ルドルフは馬上から深く頭を下げた。
「この状況ゆえ、無礼を承知で馬上からご挨拶いたします。
勇者殿、大魔法使い殿。魔王討伐は――三百年ものあいだ、我らシュトルムベルクの民の悲願でした。
その成就に力を尽くしてくださった恩を、我々は決して忘れません。
ここに集った者すべてが、お二人と共に歩む覚悟で参りました」
顔を上げたルドルフは、三人に向けて穏やかな笑みを浮かべる。
そしてほんの少し、いつもの調子に戻る。
「実は我らがこうして間に合ったのは、妹のミレーユのおかげでな。
妹が“追うべきだ”と言ってくれなければ、我らはまだ城門の内側だっただろう」
その隣で、ミレーユがすぐに声を重ねた。
「だって、怪しいじゃありませんか。
真夜中に、何かを馬車へ積み込んで、検問を押し切って走り去るんです。
あれを追わない方がおかしいですよ」
彼女の正論に、周囲の騎士たちは苦笑し、ルドルフも「まったく、妹には敵わぬ」と肩をすくめた。
次に、黒い軍馬を操り、ザミュエル・ヴァン・レヴィアタンが前へ出た。
その鋭い眼差しが、ナインをしっかりと捉える。
「――間に合って良かった、ナイン。
レヴィアタン家も、あの時の約束を果たそう。我々は如何なる時も、君達二人の味方だ。それに――」
と、口元をわずかに吊り上げる。
「レヴィアタンは、狙った獲物は逃がさない。
私の娘も我々も、ナインのような有能な婚約者を逃がさないよ。
エルヴィナは置いていかれて、大層怒っていてね。全力でここに向かっているから、後はよろしく頼むよ」
言い終えると、ザミュエルはルドルフを振り返る。
「シュトルムベルクの御曹司、それでは始めましょうか」
「わかりました、レヴィアタン名誉男爵」
二人の騎馬が、ナイン達三人の脇に並ぶ。
先ず、ルドルフが声を上げた。
よく通る声が、戦場のざわめきを断ち切った。
「我は――ルドルフ・ヴァン・シュトルムベルク。
シュトルムベルク辺境伯、ヴォルクリンの嫡男である!」
名乗りと同時に、戦場の中心が彼に移動する。
「ユリウス・アウグラード・ラズヘルド!」
その名を呼び捨てた声は、刃のように鋭く響いた。
「魔王討伐の大功ある勇者殿を拐かし、勇者の半身たる大魔法殿を亡き者にしようとした、貴様の行い――加えて彼の大魔法使いは、我が妹ミレーユの婚約者であること、知っての所業か!
重ね重ねの蛮行、シュトルムベルクは貴様を断じて許さぬ!」
容赦のない断罪だった。
「そして、アーデルハイト公爵騎士団!」
視線が騎士団の列を射抜く。
「一連の騒動の下手人は、そこらに転がっているアーデルハイト公爵の暗部の者達である。
加えて、無断で我らが領を踏みにじった貴公らの行動。
アーデルハイトの者どもの、我が領内での数々の狼藉、到底看過できん!
我等シュトルムベルク一同、このままアーデルハイト公爵に直談判させていただく所存。止められる物なら止めてみせよ!」
馬上のルドルフは、戦線に並ぶすべてへ宣告する。
ルドルフの声が収まった刹那――
その場の空気を一段も二段も冷やすような、低い声が戦場に落ちた。
「――ザミュエル・レヴィアタンである」
名乗りは短く、乾いた響きだけが広がる。
感情はない。だが、その無機質さこそが宣告の重さを形づくっていた。
「ここに宣する。レヴィアタンは、勇者殿と大魔法使い殿に恩がある。
ゆえに――レヴィアタンは如何なる時も、二人の側に立つ」
淡々と告げられる言葉は、判決文を読んでいるようだ。
ザミュエルの視線が、ユリウスへ移る。
目の奥に温度はなく、ただ判決の主文が告げられる。
「ユリウス・アウグラード・ラズヘルド。
大魔法使いナインは、我が娘エルヴィナの婚約者だ。
レヴィアタンは、身内を害した者を決して赦さぬ」
短い沈黙の後、
「本日限り、レヴィアタンはラズヘルド王国の貴族位を返上する。
——我等は、ただのレヴィアタンに戻る。
そして宣言する。
今、この時から、ラズヘルド王国はレヴィアタンの獲物だ。覚悟しておけ」
言葉が響き渡った後、場の全員が固まった。
誰一人として動けず、沈黙だけが広がっていった。
シュトルムベルク辺境伯爵家とレヴィアタン名誉男爵家が、王国に戦いを挑んだのだ。




