ぶっ生き返す
王家の紋章を掲げた濃瑠璃の馬車が、街道をアーデルハイト公爵領へ向かって進んでいた。
王家の馬車は絶対的な権威の象徴であり、いかなる検閲も受けることはない。
それゆえ、この上なく都合がよい――たとえば、誰にも知られたくない移動に。
たとえば、誘拐のような行為にも。
中には二人――眠り続けるルカと、その対面にユリウス・アウグラード・ラズヘルド第二王子が乗っていた。
ルカは浅い眠りの中で、時折、苦しげに呻いている。
額に薄く汗が滲み、閉じた瞼が細かく震える。
うなされている。
夢の中で、何かを必死に呼び止めようとしているようだった。
「……ナイン……」
唇がかすかに開き、声とも息ともつかない響きが漏れる。
喉が詰まり、浅い呼吸が胸の奥で途切れそうになる。
指先が宙を掻く。誰かの手を求めるように。
涙が頬を伝い、首筋まで流れ落ちる。
押し殺したような嗚咽が漏れる。
ユリウスは、その痛々しい様子を見つめていた。
罪悪の意識と、抑えきれぬ欲望が胸の奥でせめぎ合う。
この計画が、叔父――アーデルハイト公爵の手引きで成されたことを、彼は理解していた。それでも、止めようとは思わなかった。
馬車が揺れるたび、ルカの髪が肩にかかる。
その柔らかな光景に、ユリウスの喉が鳴った。
思わず、そっと手を伸ばす。
――触れたい。
指先が、ルカの手に触れようとしたその瞬間。
車内の空気が一変した。
見えない圧力が満ち、馬車の内壁が軋む。
次の瞬間、ルカの身体から白い光が弾けた。
爆発のような魔力の奔流が、王家の紋章を刻んだ馬車を包み込む。
ユリウスは光の衝撃に反対側に押し倒された。
バウンドして、ルカに抱きつく形になる。
車体が大きく揺れ、御者台から悲鳴が上がる。
馬車は街道から逸れて急停止した。
*
意識の底で、何かが遠のいていく。
あの温もり。あの声。
指の間から零れ落ちた、大事なもの。
胸の奥が空っぽになり、息ができない。
――ナイン……。
誰かが手を握っている。
その感触に、ルカはほとんど反射的に微笑んだ。
まるで、またあの手が戻ってきたかのようで。
「……ナイン?」
掠れた声が漏れる。
だが返ってきたのは、聞き慣れぬ声だった。
「ナイン? あぁ、あの奴隷上がりの薄気味悪い化け物のことか」
その瞬間、ルカの指先が震えた。
頭の中が一瞬で冷える。視界が鮮明になる。
自分を抱きしめ手を握っていたのは、金髪の少年――ユリウスだった。
胸の奥にあった喪失感が、別の感情に変わる。
熱い怒りと激しい嫌悪が、喉の奥からこみ上げてきた。
「……ッ!」
ルカの体が反射的に動いた。
鈍い衝撃音とともに、額がユリウスの鼻先を打ち抜く。
ユリウスの頭が跳ね、馬車の壁にぶつかった。
「何も知らないくせにっ!ナインを――悪く言うな!」
涙と怒りが混じった声が、狭い馬車の空間を震わせた。
*
ナインの胸がわずかに上下した後、完全に静止する。
「ナイン……ナイン!」
エルヴィナが彼の体に縋りつき、嗚咽を漏らした。
震える指が彼の頬を撫で、冷えゆく肌に触れる。
「お願い……お願い、目を開けてぇ….」
普段は凛としていた彼女の瞳が、焦点を失っている。
頬を伝う涙は止まらず、嗚咽が言葉を断ち切る。
その姿は、誰よりも誇り高かった彼女とは思えなかった。
*
天幕の外では、第一騎士団団長エグバードが、ヴォルクリンを諌めていた。
「閣下、どうか落ち着かれてください。
辺境伯領軍と王軍が衝突すれば、内乱になります。
せっかく魔王を討ったというのに、それではシュトルムベルクの民が泣くことになります」
ヴォルクリンが荒れた声で、吐き捨てる。
「お前、正気か?! お前の娘が攫われ、義理の息子が殺されたのだぞ!」
「――正気ではございません」
その声が、空気を震わせた。
低く、重く、押し殺した怒気が天幕の布を振るわせる。
ヴォルクリンは無意識に一歩退いた。
エグバードの双眸は、気の弱い人間なら卒倒するほどの怒りに溢れていた。
普段の穏やかな笑みの欠片もない。顔の筋肉が硬く引き締まり、拳が震えている。
鬼の顔だった。
全身の血が、怒りの熱で沸騰しているかのようだった。
「――相手が誰であろうと、ルクレツィアは、娘は必ず取り返します。
そして、息子の仇も討ちます。
相手が、誰で、あってもです」
一言一言、歯軋りしながら、エグバードは静かに宣言した。
「閣下、今までお仕えできたこと、誇りに思っております。生涯の誉れにございました。
ですが、私は――出奔いたします」
ヴォルクリンが息を呑む間に、エグバードは腰の剣を抜き、柄を逆手にして差し出した。
「これより先、何があろうと、この身の行いは、すべて私個人のもの。
シュトルムベルクは関係ございません….どうか、領と民をお護りください、閣下」
ヴォルクリンは言葉を失い、ただ差し出された剣を受け取ることしかできなかった。
エグバードが踵を返そうとした、その瞬間だった。
――眩い閃光が、ナインの横たわっている天幕の裂け目から溢れ出した。
視界を奪うほどの輝きが、周囲一帯を包み込む。
兵たちが驚き、反射的に身を伏せる中、ヴォルクリンとエグバードは、ほとんど同時に天幕へ駆け出した。
幕の内からは、風が巻き起こったように魔力の奔流が溢れ、砂埃を舞い上げていた。
光は、まるで命を燃やすように数十秒続き、そして――唐突に、途切れた。
ヴォルクリンとエグバードが天幕を覗き込む。
そこには、息を吹き返したナインが、かすかに胸を上下させて横たわっていた。
青ざめていた肌に血の色が戻り、閉じていた瞳が、ゆっくりと開かれる。
「ナイン……!」
エルヴィナの涙に濡れた頬に、震えるような笑みが浮かぶ。
声にならない歓喜が、溢れ出した。
ナインは薄く微笑み、かすれた息を継いだ。
「……ルカが……助けてくれました」
掠れて途切れそうな声だった。
「ルカの魔力と命が、俺を呼び戻したんです……」
その言葉に、ヴォルクリンが息を呑み、エルヴィナの頬を新たな涙が伝う。
誓約の儀で、ナインに身を捧げたルカが起こした――奇跡だった。
ナインは力を振り絞り、重い身体を押し上げるようにして上体を起こした。
枕元にいたエグバードへ手を伸ばし、その瞳を見つめる。
「……エグバード様。俺を連れて行ってください。ルカを取り戻します。今なら、ルカの居場所がわかります」
エグバードは一瞬、言葉を失った。
だがやがて、深く息を吸い、重く頷いた。
*
視界の端が赤く染まる。
息が荒くなり、拳が震えた。
…こいつは今、何と言った?
ナインがどうして奴隷になったのか。
ナインがどうして改造されたのか。
どれだけナインが苦しんだか。
どれだけナインが頑張ってるのか。
…何も知らないくせに。
お前は…今……
何て言ったんだっ!
頭の中で何かが切れる音がした。
王家とか。
王子とか。
もう、関係なかった。
ただ、目の前のこいつが許せなかった。
この瞬間、ルカの王家への誓約は、効力を失った。
ルカの右拳が走った。
渾身の一撃がユリウスの頬を捉える。
鈍い衝撃音とともに、ユリウスの体が大きくのけ反り、馬車の扉を突き破って外へ吹き飛んだ。
外の砂地に叩きつけられ、数度転がる。
「….んぐっ!」
ユリウスが鼻血を出し、頬を抑えて起きあがろうとした刹那、ユリウスの周囲に、護衛の黒装束たち――アーデルハイト公爵の暗部が一斉に現れた。
刃が抜かれ、殺気が張り詰める。
ルカは馬車から飛び降りた。
その足元に龍脈の魔力が走る。
長時間、薬で眠らされていたせいで、呼吸は乱れている。
けれど止まらない。
黒衣の影が一斉に飛びかかってきた。
ルカは振り返りざま、足を軸に回し蹴りを放つ。黒衣の一人が吹き飛ぶ。
次の一人が踏み込むより早く、ルカの蹴りが顎を砕いた。
背後から伸びた腕を掴み、捻り上げ、肘で鳩尾を撃ち抜く。
「邪魔……しないで……!」
魔力が駆け巡り、髪がふわりと逆立つ。
だが、身体の奥で限界の警鐘が鳴っていた。
ナインを蘇生させた代償――魔力と生命力の消耗。
先程の光の爆発はナインを救ったが、ルカの体力を削り切っていた。
一瞬、膝が沈む。
その隙を、暗部の一人が見逃さなかった。
刃が頬をかすめ、体勢を崩す。
複数の手が一斉に伸び、ルカの両腕を押さえ込んだ。
地に押し倒され、荒い息が漏れる。
それでも、その瞳にはまだ、燃えるような怒りが宿っていた。
「離してっ……!離せっ!」
必死に抗うが、もう力が入らない。
ユリウスは殴り飛ばされた衝撃に、ただ呆然としていた。頬に焼けつくような痛みが残り、何が起きたのか理解できない。
そこに黒衣の男の一人が近づき、声をかけた
「殿下。対象が制御不能です。眠り薬を追加投与してよろしいですか」
ユリウスは、まだ眩暈の残る頭を押さえながら、猫科の猛獣のように抵抗しているルカを眺め、諦めたようなかすれた声で答えた。
「……わかった」
「はっ」
ルカを組み伏せている、暗部の一人が音もなく動く。
袖の内から細身の針を引き抜いた。
暗部の男が、針をルカの腕に突き立てようとしたその瞬間――
閃光が走った。
「……ッ!?」
光弾が横合いから飛び込み、男の身体を弾き飛ばす。
ヂヂヂ……と空気が焼けるような音が続き、周囲の空間に無数の魔法陣が展開された。
蒼白い紋が幾重にも重なり、眩い光が爆ぜる。
次の瞬間、無数のマジックミサイルが雨のように放たれた。
反応する間もなく、暗部の者たちが次々と吹き飛ばされ、薙ぎ倒されていく。
光弾が乱舞する中、砂塵を踏みしめる足音が響いた。
「ルカから離れろ」
低く、掠れた鋭い声が響く。
振り向いた暗部たちの視線の先――エグバードに支えられ、そこに立っていたのは――ナインだった。
その身体からは、膨大な魔力が立ち上り、陽炎のように景色を歪めていく。
背後では、空間転移に使われた《黒扉》が音もなく閉じた。
解放されたルカは、涙に濡れた瞳でナインを見つめた。
「ナイン……!」
その名を呼ぶ声が震えていた。
駆け寄ろうと足を踏み出した瞬間、力が抜けた脚がもつれ、ルカは前のめりに倒れかける。
同じようにナインも駆け出すが、蘇生したばかりの身体はまだ思うように動かず、ふらついた。
次の瞬間、二人は中ほどでよろめきながらも、お互いの身体を支え合った。
互いに手を伸ばし、触れ合った瞬間、二人は崩れるように抱き合った。
泣いているのか、笑っているのか、自分でもわからない。
お互いの腕の中の温もりが、あまりに脆く、夢のように儚かった。
この体温が、二度と離れてしまわないように
ルカはナインの胸に顔を埋め、抱きしめる指先に力を込めた。
ナインは手をルカの背に回し、確かめるように包んだ。
「「会いたかった」」
互いの声が重なり、同じ想いが零れ落ちた。




