そばにいるね
ナインは抗っていた。
本来なら、あの一撃で心臓は止まっていた。
針に塗られていたのは、即効性の猛毒――ベラド。
呼吸と鼓動を奪う致死の毒。
だが、ナインの脳内に構築された仮想人格は、その瞬間、すべての機能を宿主の生命維持に転用した。
全身の電気信号を解析し、心拍と呼吸の停止を検知。
わずかな魔力を変換し、電気刺激を発生させて、自発呼吸と心拍の維持を試みた。
心臓が止まるたび、再点火。
呼吸が途切れるたび、再駆動。
仮想人格に与えられたメモリ限界を超える演算が続く。
次第に、電気刺激の制御に誤差が生じた。
その度に、宿主の肉体は痙攣し、細胞は少しずつ損耗していく。
限界が近づいている。
*
翌朝。
太陽が高く昇っても、第一騎士団本陣は沈黙を保っていた。
歩哨の一人が異変に気づいたのは、昼が近づく頃だった。
誰一人、天幕から出てこない。
近づいて呼びかけても、返事はなかった。
報告を受けた第二騎士団の団員が、急ぎ本陣に向かう。
中では、皆が深い眠りに落ちていた。
焚き火の灰だけが、時間の経過を語っていた。
*
「――エルヴィナ様、エルヴィナ様!」
ライーシャの声が、エルヴィナを呼び覚ました。
身体が重い。
泥の中から足を引き上げるように、エルヴィナは目を開けた。
額には汗が滲み、喉が焼けつくように渇いていた。
「…何?どうしたの?」
掠れた声で問うと、ライーシャは蒼ざめた顔で答えた。
「本陣の者が……みんな眠っていました。天幕ごとです。
それに――ナインが……倒れているんです。意識がありません」
言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。
エルヴィナは反射的に身を起こし、揺れる視界のまま外へ出た。
眩しい光の中で、兵たちが慌ただしく動いている。
誰もが困惑し、状況を掴めていなかった。
「ナインはどこ?」
駆け寄ったライーシャが、エルヴィナに外套を着せながら案内する。
少し離れた天幕の周辺に、ヴォルクリン以下、カーティスとエグバード第一騎士団長が、忙しなく指示を出している。
天幕の中に入ると、ナインが寝台の上で横たわっていた。
呼吸は浅く、皮膚は青白い。
複数の神官が治療を施していたが、芳しくないのは一目で分かった。
エルヴィナの喉が詰まり、言葉が出なかった。
周囲のざわめきが遠のき、胸の鼓動だけが痛いほど耳に響く。
「…何があったのですか?」
かすれた声で問いかける。
天幕の入口から、カーティスが入ってきた。
鎧の留め具が軋む音が、重く響く。
彼の顔には疲労と困惑が滲んでいた。
「詳細は、まだ分からない」
短く息を整えながら、カーティスは言った。
「推測だけど、何者かが本陣全体に睡眠を誘発したと考えられる。
歩哨も、全員眠っていた。
薬物か、魔法の類か……手口は分からないが….」
彼は一瞬、ナインを見つめた。
目に宿る光は冷静だったが、その奥に焦りが隠し切れない。
「…ナインの仮想人格は、状態異常に耐性があるから、自動で迎撃したんだと思う。
戦闘の形跡もある。
しかし……返り討ちに遭った可能性が高い」
エルヴィナの唇が震えた。
信じたくなかった。
「そんな……ナインが……」
彼女の声は途切れ、天幕の中に沈んでいった。
治療を続ける神官の詠唱が、かすかな祈りのように響いていた。
治療の詠唱が続く中、エルヴィナはふと周囲を見渡した。
天幕の入口に立つ兵たち、治療にあたる神官たち。
しかし、そこにあるはずの姿が見えないことに気づく。
「……ルカは?」
小さくつぶやいた声に、カーティスが振り向いた。
「勇者殿なら……女性用天幕におられるのでは?」
エルヴィナは首を振る。
「昨夜、彼女はすぐに休んだはずです。けれど……今朝私は、姿を見ていません」
嫌な予感が胸を締めつけた。
エルヴィナは傍らのライーシャに目を向ける。
「ライーシャ。確認してきて。…….ルカを探して」
ライーシャは頷き、駆け出していった。
天幕の外に冷たい風が吹き抜け、布を叩く音が響く。
時間が、異様に長く感じられた。
やがて、息を切らせたライーシャが戻ってくる。
頬が青ざめ、目は焦りに灼かれていた。
「ルクレツィア様が……いません!」
その声が響いた瞬間、天幕の中の空気が一変した。
誰もが動きを止め、風音すら遠のいた。
報告を受けたヴォルクリンの顔が、わずかに強張った。
天幕の中の空気が重く沈む。
「ルクレツィア嬢が……いない?」
確認の言葉というより、意味を噛み締めるような声だった。
ライーシャは息を切らし、深く頷く。
ヴォルクリンは短く息を吐き、思考を巡らせた。
討伐軍本陣が眠らされた。
ナインは毒を受け、ルカだけが攫われた。
——これは意図的な襲撃だ。
ヴォルクリンが低く息を吐き、思考を言葉に変えた。
「……ユリウス・アウグラード・ラズヘルド」
その名を口にした瞬間、周囲の空気が微かに震えた。
勇者に執着していた第二王子。
そして、その母は――ラドクリフ・ヴァン・アーデルハイト公爵の妹。
ヴォルクリンの脳裏に、これまでの報告が連鎖する。
王都から派遣されていた王子の”護衛団”。
名目はユリウスの安全確保という理由で、アーデルハイト公爵の暗部が、辺境伯領に駐在していた。
幾つもの推論が、ひとつの名に収束する。
「……ラドクリフ・ヴァン・アーデルハイト」
カーティスが顔を上げ、息を呑む。
「――ルクレツィア嬢を攫ったのは、王家とアーデルハイト公の手勢、ということですね」
ヴォルクリンは頷く。
その瞳に宿るのは怒りではなく、冷たい確信だった。
「そうだ。
アーデルハイトは、我々討伐軍の動きを把握していた。奴は、この遠征を“隙”と見たのだろう。
そして――力の均衡を保つ為、勇者を王家の手に渡そうとしている」
ヴォルクリンは視線を天幕の外へ向けた。
遠く、風が吹き抜ける。
その風の先には、アーデルハイト領があった。
「……カーティス、出撃準備を急げ。
事によっては、王家と一戦交えることになるぞ」
*
ナインの胸の奥で、最後の電気刺激が走った。
わずかな拍動。
そして、静寂が訪れた。
*
「……もう、いけません」
治療をしていた神官が、顔を上げぬまま、天幕の外に告げた。
その声を聞いたエルヴィナは、反射的に駆け込む。
「ナイン!」
寝台の上、ナインの唇がかすかに開閉していた。
息を吸い込もうとして、うまくできず、喉の奥で音が漏れる。
死戦期呼吸――断続的な、生命の最後の抵抗だった。
「待って、ダメ…!」
エルヴィナはナインの身体に縋りつき、肩を揺さぶった。
腕の中で、ナインの肌が冷たくなっていく。
神官が祈りの言葉を重ねる中、胸の動きが、完全に止まった。
次の呼吸は――もう、訪れなかった。
*
暗い。
どこまでも、闇が続いていた。
湿った木の匂い。
馬車の車輪が、ぬかるんだ道を軋ませる音だけが、遠くで響いている。
——あの時の夢だ…勇者になって、独りで連れ出された時の。
五歳のルカは膝を抱えていた。
小さな体を覆う毛布は、重く、冷たかった。
誰もいない。
独りだった。
外の風が幌を叩くたび、幼い心臓はびくりと跳ねた。
怖かった。
寂しくて、息をするたび胸が痛かった。
「……ナイン、いないの?….」
掠れた声が、闇に溶けて消える。
涙が頬を伝い、膝の上に落ちた。
その瞬間――。
眩い光が、闇を裂いた。
幌がめくれ、外の光が差し込む。
その光の中に、一人の少年がいた。
黒髪を風に揺らし、まだあどけなさを残した顔。
それでも、その瞳はまっすぐルカを見つめ、温かかった。
「……ルカ」
優しく呼ばれた。
その声に、張りつめていたものが一気に崩れる。
「ナイン……!」
堰を切ったように、涙が溢れた。
ルカは立ち上がり、転がるように飛び出した。
ナインの胸に飛び込み、腕の中で泣きじゃくる。
「あいたかった……ひとりじゃ、やだよぅ……!」
ナインは何も言わず、ただ小さな背を抱きしめた。
その体温が、柔らかい匂いが、闇の寒さを押し返していく。
「――一緒に行くよ。そばにいるね」
その言葉が、幼い心に灯をともした。
馬車の中の暗闇が、少しずつ薄れていく。
そして、光の中で、二人の影がひとつになった。
その時だった。
ナインの体が、ふっとかき消えた。
「――え?」
ルカが瞬きをする間に、ナインは数歩離れた場所に立っていた。
光の粒が舞い、まるで幻のように。
「ナイン……? どうして……?」
ルカは震える手を伸ばした。
だが、その指先は届かない。
空気を掴むだけで、ナインの姿はわずかに遠のく。
ナインは悔しそうに、悲しそうに首を振った。
その表情は、言葉よりも多くを語っていた。
泣いている。
唇が動く――声は出ない。
けれど、意味は判った。
さよなら。
ぞっとした。
ルカの心臓が、きゅっと縮む。
「いや……やだよ……行かないで……!」
足を踏み出す。
けれど、ナインはまた少し遠ざかる。
追っても、追っても、距離は開いていく。
まるで世界そのものが二人を引き離していくようだった。
「ナインっ……! 待ってっ!」
息が詰まる。
視界が滲む。
涙が頬を伝い、足元が見えない。
それでも走る。
ナインも振り返る。
その顔には、痛みに似た微笑が浮かんでいた。
何度も、何度も振り返りながら、それでも――遠ざかっていく。
「ナインっ!」
転んだ。
手のひらが地面を打つ音。
土の冷たさが、現実のように肌を刺す。
それでもルカは、涙に濡れた顔を上げて、叫んだ。
「ナイン――!!!」
その叫びは、深すぎる闇に吸い込まれて、消えた。




