表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
74/77

そばにいるね

 ナインは抗っていた。


 本来なら、あの一撃で心臓は止まっていた。

 針に塗られていたのは、即効性の猛毒――ベラド。

 呼吸と鼓動を奪う致死の毒。


 だが、ナインの脳内に構築された仮想人格ダブルイプシロンは、その瞬間、すべての機能を宿主の生命維持に転用した。

 全身の電気信号を解析し、心拍と呼吸の停止を検知。

 わずかな魔力を変換し、電気刺激を発生させて、自発呼吸と心拍の維持を試みた。


 心臓が止まるたび、再点火。

 呼吸が途切れるたび、再駆動。

 仮想人格に与えられたメモリ限界を超える演算が続く。


 次第に、電気刺激の制御に誤差が生じた。

 その度に、宿主の肉体は痙攣し、細胞は少しずつ損耗していく。


 限界が近づいている。



 * 

 


 翌朝。

 太陽が高く昇っても、第一騎士団本陣は沈黙を保っていた。

 歩哨の一人が異変に気づいたのは、昼が近づく頃だった。

 誰一人、天幕から出てこない。

 近づいて呼びかけても、返事はなかった。

 報告を受けた第二騎士団の団員が、急ぎ本陣に向かう。

 中では、皆が深い眠りに落ちていた。

 焚き火の灰だけが、時間の経過を語っていた。 



* 



「――エルヴィナ様、エルヴィナ様!」


 ライーシャの声が、エルヴィナを呼び覚ました。


 身体が重い。

 泥の中から足を引き上げるように、エルヴィナは目を開けた。

 額には汗が滲み、喉が焼けつくように渇いていた。


「…何?どうしたの?」


 掠れた声で問うと、ライーシャは蒼ざめた顔で答えた。


「本陣の者が……みんな眠っていました。天幕ごとです。

 それに――ナインが……倒れているんです。意識がありません」


 言葉の意味を理解するまでに、数秒かかった。

 エルヴィナは反射的に身を起こし、揺れる視界のまま外へ出た。

 眩しい光の中で、兵たちが慌ただしく動いている。

 誰もが困惑し、状況を掴めていなかった。


「ナインはどこ?」


 駆け寄ったライーシャが、エルヴィナに外套を着せながら案内する。


 少し離れた天幕の周辺に、ヴォルクリン以下、カーティスとエグバード第一騎士団長が、忙しなく指示を出している。


 天幕の中に入ると、ナインが寝台の上で横たわっていた。

 呼吸は浅く、皮膚は青白い。

 複数の神官が治療を施していたが、芳しくないのは一目で分かった。


 エルヴィナの喉が詰まり、言葉が出なかった。

 周囲のざわめきが遠のき、胸の鼓動だけが痛いほど耳に響く。


「…何があったのですか?」


 かすれた声で問いかける。


 天幕の入口から、カーティスが入ってきた。

 鎧の留め具が軋む音が、重く響く。

 彼の顔には疲労と困惑が滲んでいた。


「詳細は、まだ分からない」


 短く息を整えながら、カーティスは言った。


「推測だけど、何者かが本陣全体に睡眠を誘発したと考えられる。

 歩哨も、全員眠っていた。

 薬物か、魔法の類か……手口は分からないが….」


 彼は一瞬、ナインを見つめた。

 目に宿る光は冷静だったが、その奥に焦りが隠し切れない。


「…ナインの仮想人格は、状態異常に耐性があるから、自動で迎撃したんだと思う。

 戦闘の形跡もある。

 しかし……返り討ちに遭った可能性が高い」


 エルヴィナの唇が震えた。

 信じたくなかった。


 「そんな……ナインが……」


 彼女の声は途切れ、天幕の中に沈んでいった。

 治療を続ける神官の詠唱が、かすかな祈りのように響いていた。


 治療の詠唱が続く中、エルヴィナはふと周囲を見渡した。

 天幕の入口に立つ兵たち、治療にあたる神官たち。

 しかし、そこにあるはずの姿が見えないことに気づく。


「……ルカは?」


 小さくつぶやいた声に、カーティスが振り向いた。


「勇者殿なら……女性用天幕におられるのでは?」


 エルヴィナは首を振る。


「昨夜、彼女はすぐに休んだはずです。けれど……今朝私は、姿を見ていません」


 嫌な予感が胸を締めつけた。

 エルヴィナは傍らのライーシャに目を向ける。


「ライーシャ。確認してきて。…….ルカを探して」


 ライーシャは頷き、駆け出していった。

 天幕の外に冷たい風が吹き抜け、布を叩く音が響く。

 時間が、異様に長く感じられた。


 やがて、息を切らせたライーシャが戻ってくる。

 頬が青ざめ、目は焦りに灼かれていた。


「ルクレツィア様が……いません!」


 その声が響いた瞬間、天幕の中の空気が一変した。

 誰もが動きを止め、風音すら遠のいた。


 報告を受けたヴォルクリンの顔が、わずかに強張った。

 天幕の中の空気が重く沈む。


「ルクレツィア嬢が……いない?」


 確認の言葉というより、意味を噛み締めるような声だった。

 ライーシャは息を切らし、深く頷く。


 ヴォルクリンは短く息を吐き、思考を巡らせた。

 討伐軍本陣が眠らされた。

 ナインは毒を受け、ルカだけが攫われた。

 ——これは意図的な襲撃だ。


 ヴォルクリンが低く息を吐き、思考を言葉に変えた。


「……ユリウス・アウグラード・ラズヘルド」


 その名を口にした瞬間、周囲の空気が微かに震えた。

 勇者に執着していた第二王子。

 そして、その母は――ラドクリフ・ヴァン・アーデルハイト公爵の妹。


 ヴォルクリンの脳裏に、これまでの報告が連鎖する。

 王都から派遣されていた王子の”護衛団”。

 名目はユリウスの安全確保という理由で、アーデルハイト公爵の暗部が、辺境伯領に駐在していた。


 幾つもの推論が、ひとつの名に収束する。


 「……ラドクリフ・ヴァン・アーデルハイト」


 カーティスが顔を上げ、息を呑む。


「――ルクレツィア嬢を攫ったのは、王家とアーデルハイト公の手勢、ということですね」


 ヴォルクリンは頷く。

 その瞳に宿るのは怒りではなく、冷たい確信だった。


「そうだ。 

 アーデルハイトは、我々討伐軍の動きを把握していた。奴は、この遠征を“隙”と見たのだろう。

 そして――力の均衡を保つ為、勇者を王家の手に渡そうとしている」


 ヴォルクリンは視線を天幕の外へ向けた。

 遠く、風が吹き抜ける。

 その風の先には、アーデルハイト領があった。


「……カーティス、出撃準備を急げ。

 事によっては、王家と一戦交えることになるぞ」



* 



 ナインの胸の奥で、最後の電気刺激が走った。

 わずかな拍動。

 そして、静寂が訪れた。



* 



「……もう、いけません」


 治療をしていた神官が、顔を上げぬまま、天幕の外に告げた。

 その声を聞いたエルヴィナは、反射的に駆け込む。


「ナイン!」


 寝台の上、ナインの唇がかすかに開閉していた。

 息を吸い込もうとして、うまくできず、喉の奥で音が漏れる。

 死戦期呼吸――断続的な、生命の最後の抵抗だった。


「待って、ダメ…!」


 エルヴィナはナインの身体に縋りつき、肩を揺さぶった。

 腕の中で、ナインの肌が冷たくなっていく。


 神官が祈りの言葉を重ねる中、胸の動きが、完全に止まった。

 次の呼吸は――もう、訪れなかった。



 * 



 暗い。

 どこまでも、闇が続いていた。


 湿った木の匂い。

 馬車の車輪が、ぬかるんだ道を軋ませる音だけが、遠くで響いている。


 ——あの時の夢だ…勇者になって、独りで連れ出された時の。


 五歳のルカは膝を抱えていた。

 小さな体を覆う毛布は、重く、冷たかった。

 誰もいない。

 独りだった。


 外の風が幌を叩くたび、幼い心臓はびくりと跳ねた。

 怖かった。

 寂しくて、息をするたび胸が痛かった。


「……ナイン、いないの?….」


 掠れた声が、闇に溶けて消える。

 涙が頬を伝い、膝の上に落ちた。

 その瞬間――。


 眩い光が、闇を裂いた。

 幌がめくれ、外の光が差し込む。

 その光の中に、一人の少年がいた。


 黒髪を風に揺らし、まだあどけなさを残した顔。

 それでも、その瞳はまっすぐルカを見つめ、温かかった。


「……ルカ」


 優しく呼ばれた。

 その声に、張りつめていたものが一気に崩れる。


「ナイン……!」


 堰を切ったように、涙が溢れた。

 ルカは立ち上がり、転がるように飛び出した。

 ナインの胸に飛び込み、腕の中で泣きじゃくる。


「あいたかった……ひとりじゃ、やだよぅ……!」


 ナインは何も言わず、ただ小さな背を抱きしめた。

 その体温が、柔らかい匂いが、闇の寒さを押し返していく。


「――一緒に行くよ。そばにいるね」


 その言葉が、幼い心に灯をともした。

 馬車の中の暗闇が、少しずつ薄れていく。

 そして、光の中で、二人の影がひとつになった。


 その時だった。

 ナインの体が、ふっとかき消えた。


「――え?」


 ルカが瞬きをする間に、ナインは数歩離れた場所に立っていた。

 光の粒が舞い、まるで幻のように。


「ナイン……? どうして……?」


 ルカは震える手を伸ばした。

 だが、その指先は届かない。

 空気を掴むだけで、ナインの姿はわずかに遠のく。


 ナインは悔しそうに、悲しそうに首を振った。

 その表情は、言葉よりも多くを語っていた。

 泣いている。

 唇が動く――声は出ない。

 けれど、意味は判った。


 さよなら。


 ぞっとした。

 ルカの心臓が、きゅっと縮む。


「いや……やだよ……行かないで……!」


 足を踏み出す。

 けれど、ナインはまた少し遠ざかる。

 追っても、追っても、距離は開いていく。

 まるで世界そのものが二人を引き離していくようだった。


「ナインっ……! 待ってっ!」


 息が詰まる。

 視界が滲む。

 涙が頬を伝い、足元が見えない。


 それでも走る。


 ナインも振り返る。

 その顔には、痛みに似た微笑が浮かんでいた。

 何度も、何度も振り返りながら、それでも――遠ざかっていく。


「ナインっ!」


 転んだ。

 手のひらが地面を打つ音。

 土の冷たさが、現実のように肌を刺す。

 それでもルカは、涙に濡れた顔を上げて、叫んだ。


「ナイン――!!!」


 その叫びは、深すぎる闇に吸い込まれて、消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ