天搥
地平線の果てまで続く乾いた大地の中央に、《黒巣》はあった。
灰黒色の塔群が、天空を突くように聳え立っていた。
それは一つの山脈にも匹敵する群体構造――最大の塔は高さ一・五キロメートル、基底の直径は四キロメートルに及ぶ。
周囲には大小無数の副塔が連なり、全体でひとつの「都市」を形成しているようだ。
塔は粘土と珪砂を主体とした複合層で構成され、外殻は焼結された陶質の膜で覆われている。
陽光を受けると灰黒色から深紺へと色調を変え、夜には星明かりを反射して、金属のような鈍い輝きを帯びる。
表面は単なる平滑な壁ではない。
無数の孔が規則的に並び、通風と温度調整を担う。
それぞれの孔の直径は数十メートルにもおよび、内部へ吹き込む風が塔全体を低く唸らせる。
その音は地を震わせ、遠方からは、海鳴りにも似た重低音として響く。
塔の下層には、迷路のような空洞が広がっている。
外郭から中心核まで、放射状に伸びる通気孔と、それらを環状に結ぶ層が数百も重なり、内部空間の総延長は、ひとつの塔だけで数百キロを超えるだろう。
外部から見れば、塔の表面は溶岩のように荒れ、風食による筋が無数に走っている。
しかしその亀裂の奥には、規則的な構造骨格が存在している。外縁部には、尖塔から垂れ下がるような支柱がいくつも伸び、まるで大地と塔が有機的に接合しているかのようだ。
塔と塔の影が重なり合い、
昼には風の渦が生じ、夜には砂が光のように舞い上がる。
太陽が沈むと、塔の上部に開いた通気孔から、
内部の熱が白い蒸気となって吹き出し、地平を横切る帯雲を生む。
この塔群全体が《黒巣》であり、もはや「山脈のような構造物」と言える規模だった。
*
《黒巣》まで、残り三十キロ。
行軍三日目、辺境伯爵領軍はその夜、丘陵地帯の緩やかな谷間で夜営に入った。
総勢七千騎。甲冑の金属音と馬の嘶きが重なり、夜風の中でかすかに反響している。
月は高く、雲の切れ間から青白い光を落としていた。
松明が無数に灯され、地上には橙の点が星座のように広がる。
その光の群れの中で、従兵たちが手際よく杭を打ち、幕を張り、焚き火に火を移していく。
馬丁が水袋を運び、騎士たちは鞍を降ろして鎧を点検する。
焚き火と肉の匂いが混じり、遠くで煮込みの湯気が立っていた。
その喧噪の中を、ナインとエルヴィナ、ライーシャは陣中央――指揮所を兼ねた巨大な天幕に向かっていた。
「急な呼び出しですわね」
エルヴィナが歩調を合わせながら、わずかに眉を寄せた。
「明朝の軍議かと思っていましたのに」
「……そうだね」
ナインは短く応じ、夜空を仰ぐ。
丁度、満月が淡い雲に隠れたところだった。
エルヴィナは少し身を寄せ、ナインの耳元で囁く。
「最近、アーデルハイト公爵領の軍が、きな臭い動きをしています。
辺境伯領との国境沿いに兵站の再配置をしているとか。辺境伯爵の魔王討伐に合わせて軍を動かすなんて、嫌な予感がしますわ」
ナインの視線がわずかに細くなる。
「……知ってる。領都を発つ前日に、レヴィアタン商会の報告で確認した。物流の流れが変わっていた」
「まあ、もう掴んでいらしたのですね」
エルヴィナの声に、かすかな笑みが混じる。
「支配人業のほうも抜かりありませんのね。頼りになる旦那様ですこと」
「ただの偶然だよ。相手が相手だからね、少し気にしてたんだ」
*
ラドクリフ・ヴァン・アーデルハイト公爵。
辺境伯爵領と王都の間に広がる、穀倉地帯を治める領主。
第二王子ユリウス・アウグラード・ラズヘルドの実母は、彼の妹にあたる。
辺境伯爵が力を増すのを快く思わぬアーデルハイト公爵は、辺境伯領軍が魔王討伐へと遠征している今、その隙を窺うように、不穏な動きを見せていた。
*
夜営の中心にそびえるそれは、他のどの天幕よりも大きく、旗竿にはシュトルムベルク家の紋章――雪原に立つ白銀の塔――が風に翻っている。
衛兵が二人、入り口の両脇に立っていた。
ナインが名を告げると、彼らは敬礼し、無言で天幕の幕を開ける。
中は広く、中央に展開された地図台を囲むように、数人の将が並んでいた。
灯火の光が彼らの顔に陰影を落とし、焔の揺れに合わせて淡く動く。
その奥に座すのは、総司令たる辺境伯ヴォルクリン・ヴァン・シュトルムベルク。
五十代を迎えた今も、その体躯は鍛えられており、灰銀の髪は短く整えられている。
青灰の瞳が鋭く光り、幕に入ったナインたちを見据えていた。
「お待たせしました」
ナインが礼を取ると、傍らに立つ副司令カーティスが一歩前に出る。
「急な呼び出し、すまない。夜営の最中だったろう」
「いえ、問題ありません」
短い挨拶を交わしたあと、ヴォルクリンがゆるやかに視線を上げた。
「……領都から急使が届いた。長男ルドルフからの報告だ」
地図台の上に新しい文書が置かれ、封蝋が解かれている。
辺境伯の声は落ち着いていたが、その響きには確かな緊張があった。
「アーデルハイト公爵が兵を集めているという。
数はまだ不明だが、徴発命令が下ったのは確かだ。
さらに、我が領との国境地帯に補給物資を集積しているとのことだ」
将たちの間に、短い沈黙が流れた。
ヴォルクリンはその空気を断つように、地図上の一点――《黒巣》を指で示す。
「明日には、この《黒巣》が視界に入る。
だが、公爵の動きが不透明な以上、我らとしては長期戦を避けたい」
指が地図上を滑り、《黒巣》を囲うように円を描く。
「攻略に時間はかけられん。
場合によっては、戦術目標を“攻略”から“威力偵察”へ切り替える必要がある。
――皆の意見を聞かせてほしい」
会議は紛糾した。
当初の方針どおり、《黒巣》の攻略を最優先とする積極策を主張する者。
一方で、長期戦を避け、戦力と時間の消耗を防ぐべきだとする慎重派。
意見は二つに分かれ、互いの主張が交錯する。
地図台の上で指が動き、声が重なり、やがて議論は行き詰まった。
言葉の波が静まり、幕内に一瞬の間が生まれる。
誰もが次の言葉を探しあぐねている中、ナインは手を挙げた。
短く礼をすると、低めの声で告げる。
「僭越ながら、意見を具申します」
全員の視線が彼に集まる。ナインは諸将の顔を一瞥し、続けた。
「できることなら、短期決戦で《黒巣》を陥落させ、魔王を討つのが理想だと、皆様がお考えであることは承知しております。
つきましては、ひとつ試してみたいことがございます。
今宵、私に《黒巣》へ遠距離攻撃を仕掛ける許可をいただけないでしょうか?」
ヴォルクリンがゆっくりと顔を向け、短く問うた。
「何をする気だ」
ナインは深く一礼して、落ち着いた声で答えた。
「難しい事ではございません。
高所から岩を落とし、《黒巣》にぶつけます」
幕内で小さなざわめきが走る。ナインは言葉を続けた。
「そんなことで、攻撃になるのか?《黒巣》は山のように巨大だぞ」
ヴォルクリンは重ねて──半分面白がっているように尋ねた。
「実戦では初めてですが、小規模な実験では成功を確認しています。
それなりの損害は与えられるかと愚考致します。
本作戦により《黒巣》に与えられた損害をご確認のうえ、本隊の方針を再検討していただけないでしょうか」
ヴォルクリン以下、天幕内の面々が一瞬、狐に摘まれたような顔を浮かべる。
だが、ナインの言葉には、確固たる自信が含まれていた。
荒唐無稽な意見だった。
常であれば、一笑に付されるか、叱責を受けてもおかしくない内容だ。
ナインが発言していなければ。
対魔王戦に参加して以来、勇者と共に最前線に立ち続け、数々の苦戦•劣勢を跳ね除けてきた異形の魔法使いの言葉は、辺境伯領軍にとって絶対の信頼に値するものだった。
「わかった。やってみよ」
ヴォルクリンの、どこか愉快そうな声が天幕に響いた。
*
夜の黒巣は、満月の光を浴びて、まるで銀の波が連なるかのように浮かび上がっていた。
標高千メートルを超える尖塔が幾重にも折り重なり、輪郭は淡く白く縁取られ、闇の海に沈むかのように続いている。
五キロ離れた地点から望むその姿は、静謐でありながらも圧倒的な存在感を放っていた。時折、風が吹き抜け、尖塔の間を流れる霧が薄く形を変えながら、月の光を受けてゆらめく。
「――異常なし。」
若い兵士が小声で告げる。
双眼鏡の奥に映る《黒巣》は、魔王軍の本拠地とは思えない程、静かだった。
隣にいるのは、今年から従軍したばかりの新米騎士だった。軍服の肩が少し余っていて、あどけなさが隠せない。
握りしめた双眼鏡の手が、月光の中でわずかに震えている。
偵察分隊チャーリーはツーマンセルだった。
「……あそこに、魔王がいるんだね」
「そうだ。三年かかったが、やっとここまで来た」
兵士は息をひとつ吐いた。
その声に、長い歳月の重みが滲む。
「ねぇ、三年前のあの日の話しを聞かせてよ」
「大襲来の時の話か?お前も好きだねぇ…」
言葉が途切れ、夜の風が二人の間を抜けていく。
兵士は再び《黒巣》を見つめた。
あの日のことを思い出す。
一度も忘れたことはなかった。
「あの人の息子が、こうして隣にいるのは、不思議な気分だな」
「……俺、父上みたいになれますか?」
「まずは生き残れ。父上も、きっとそう言うさ」
若い兵士が《黒巣》に再び目を向ける。
その瞬間、雲をぶち抜いて何かが飛来した。切れ間から満月が見えた。
闇に沈んだ尖塔の先で、白い閃光が弾け、目の前が、一瞬白く染まった。
塔の輪郭が、異様なほど細部まで浮かび上がる。
満月よりも強い白光は、闇の中に残像を焼きつけ、消えかけた光の余韻がわずかに残る頃、地面が微かに震えた。
遠くで響く鼓動のような低い唸りが、やがて大地を伝って近づいてくる。
それは空気の奥底を這うように、徐々に音の厚みを増していった。
遅れてやってきた音は、地鳴りに似た深い響きだった。
遠い場所で巨大な太鼓が打たれるような重み。次第に高音が混じり、破裂音が耳の奥に鋭く突き刺さる。
若い兵士が息を呑む。
「……見たか?」
「え、ええ……今、光が――」
「報告だ。急げ」
新米の騎士は慌てて、通信魔導具を起動した。
その間にも、夜空を裂くように数度、白光が走る。
時間差で振動と轟音が押し寄せ、丘が震えた。
「何が起こってるんだ……」
その言葉を遮るように雲が消し飛び、
空が――裂けた。
塔の上空で巨大な白球が弾ける。
地上に太陽が出現したようだった。
満月をかき消すほどの白光が、瞬く間に青白へ、橙へ、そして真紅へと変わっていった。《黒巣》全体が、内側から光を放っているようだ。
「やばい、伏せろ!」
「えっ――!」
若い兵士が騎士に飛びかかり、地面へと押し倒す。
次の瞬間、大地が浮いた。
地面が波のようにうねり、二人の体を弾き上げる。
空気が壁のように押し寄せ、見えない力で全身を叩きつけた。
砂が舞い、地面が細かく跳ね、地鳴りが連続する咆哮へと変わる。
そして数秒後、空と地、両方が叫んでいるような二重の轟音が夜を突き抜ける。
物理的な衝撃となった音が皮膚を叩き、肺を圧迫する。爆発音は長い尾を引いて夜空に木霊した。
閃光と衝撃は一度きりでは終わらなかった。
地が軋み、風が荒ぶ――その咆哮は三度重なり、周囲のすべてを打ち砕いていった。
*
砂と灰が降り注ぐ中、偵察分隊のふたりは身を伏せていた。
先に声を上げたのは年長の兵だった。
「……おい、新米。無事か?」
「な、何とか……っ! 耳が、まだ鳴ってますけど……!」
「ならいい。立つな、もう一発くるかもしれん」
「い、今の……何ですか? 魔王軍の攻撃でしょうか……」
「俺が知るか。見ろ、《黒巣》の方角を」
灰に覆われた視界の先――そこにあるはずの《黒巣》が見えなかった。
あの巨峰のような影は跡形もなく、地表のあちこちが赤く焼け、熱気とともに焦げた匂いが風に乗って流れてくる。
新米騎士は息を呑み、言葉を失う。
その夜、三百年以上にわたり人類を脅かしてきた魔王の居城は、崩れ落ちた。




