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奴隷契約

 声にならない声だった。喉が焼けつき、肺がひゅうと鳴る。舌は乾いて回らない。それでも必死に絞り出した懇願は、確かに一行の耳に届いていた。

 列の奥、ひときわ目を引く黒衣の存在。


 ――ゼルダだった。

 白磁のような頬に浮かぶその笑みは、壊れた人形のように無機質で、そして冷たい。


「おや……これは、これは……」


 ゼルダは楽しげに小さく手を打ち、ゆるりと前に出てきた。黒衣が風を孕み、影のように揺れる。


「エファのところにいた坊やじゃないか。一緒に行きたいのかい?」


 ナインは荒い息を整えながら、ゆっくりと頷いた。

 ゼルダは唇の端を緩やかに吊り上げ、まるで気に入った玩具を見つけたかのように目を細める。


「連れて行ってやってもいいけど、タダじゃあ無理だねぇ……。どうだい? あんたが実験奴隷になるなら、連れて行ってあげるよ?」


 それは、想定していた提案だった。ナインも、それしかないだろうと、覚悟していた。


「……奴隷契約書を、見せてください」


 その言葉に、ゼルダは愉快そうに笑った。おかしくてたまらないといった風に。

 魔女の笑い声は鈴のように転がり、どこか哀しげでもあった。


「いい目じゃないか。三分間待ってやる。読んで、決めな」


 妖艶な指先が懐に伸びる。次の瞬間、数枚の羊皮紙の束が宙を舞い、ナインの膝元に落ちた。表紙には古代文様の縁取りと共に、赤黒いインクでこう記されていた。


 ---


『魔導強化改造実験参加奴隷契約書』


 ---


 ナインは四つ這いのまま、素早く羊皮紙の束をめくる。ざらついた指先が走るたび、乾いた匂いとインクの刺激が鼻腔をくすぐった。


 契約書の内容は、簡潔にして――残酷だった。

 要約には、こう記されていた。


 ・本契約は、被験体零號(以下、当人)を魔導強化改造実験に参加させることを定める。


 ・実験内容は以下を含む:


  一)身体能力・魔力向上を目的とした薬物投与等

  二)魔法生物の寄生処置等

  三)魔物由来臓器の移植等

  四)魔導機器の肉体への直接埋め込み等


 ・当人はこれらの実験により、死亡または不可逆的な心身の障害を負う可能性がある。

 ・本実験の成果は、研究代表者ゼルダ・マスターソードに帰属し、兵士強化等の国防目的に活用される。

 ・契約期間は十年間とし、満了時に所有者と当人の協議により、契約の更新・解除を決定する。


 ---


 読み終えるころには、ナインの額に微かな汗が滲んでいた。

 ――拒否はない。でも、交渉はする。

 顔は変わらない。感情を殺した無表情のまま、ゼルダに問いかけた。


「この実験、国益のためなんですね?」


 ナインは顔を上げ、黒い瞳でまっすぐにゼルダを見据えた。


「被験体零號っていうのは、俺のことだ。身を張って王国に献身するなら、それ相応の――「報酬」が欲しいです」


 ゼルダの眉が、わずかに跳ねた。


「報酬?」

「そう。……俺の希望は、一つ」


 ナインは口元をわずかに引き締め、言葉の一つひとつを鋼のように固めながら続けた。


「――ルカが望む限り、俺があいつの傍にいることを、保証してほしい」

「ルカは……勇者になるんですよね? だったら俺、強化改造人間として、あいつの傍で戦います。生きてる限り、ずっと。……その方が、ゼルダさんにとっても都合がいいんじゃないですか?」


 その瞳の底には、灰のように冷たい理性と、炎のように燃える覚悟が共存していた。


 ゼルダはしばし沈黙し、その瞳を見つめていたが、やがて肩を竦め、ひとつ息を吐いた。

 ナインの言葉は、いささか楽観的で、こじつけがましいところもあったが——それでも、まったくの的外れではなかった。研究成果物である〈強化改造人間〉が、勇者の傍らで戦果を挙げることは、王国上層部にとっても分かりやすい実績となるだろう。

 ただし、〈強化改造人間〉が実験の途中で命を落とさなければ。

 そして、その性能が、理論通りに発揮されるのであれば——だが。

 一瞬の計算の後、ゼルダは回答を出した。


「……よし。特例として、条項を一つ追加してやるよ。こんなもんでどうだい?」


---


【報酬に関する記載】


 ・当人は、以下の条件を満たすことを報酬として受け取る権利を有する。

  一)「勇者(候補の時も含む)ルカ」が希望する場合に限り、当人は勇者の傍に侍ることができる。

  二)本件について、第三者はこれを妨げず、可能な限り支援する義務を負う。

  三)当人がやむを得ない事情により勇者の傍に侍れない場合、当人および勇者を含む関係者間で、誠実な協議のうえ代替措置を検討する。


---


 ゼルダは懐から羽根ペンを取り出し、契約書にさらさらと文字を走らせた。そして一歩前へ出て、ナインの前にしゃがみ込む。妖艶な顔が、まっすぐに覗き込んできた。


「ねえ、ナイン。……オマエ、本当に五歳かい?」


 ナインは瞬きもせず、その視線を受け止めた。


「孤児なんで、本当のところはわかりませんよ」


 その答えに、ゼルダはもう一度笑った。今度は、ほんの少しだけ驚きの混じった笑みだった。


「さあ、坊や。返事を聞かせな。奴隷になって一緒にくるかい? それとも独りでおうちに帰るかい?」


 ナインは頷いた。


「奴隷として、一緒に行きます」


 それは五歳児には似つかわしくない、奴隷としての未来を覚悟した、静かな頷きだった。


「いい返事だ」


 ゼルダは片手を挙げ、指先で空をなぞるように鍵音をつぶやいた。瞬間、空気がひんやりと変わる。魔力の渦が集まり、契約書に魔法陣が浮かび上がる。青白い光が静かに咲いた。

 魔法陣の中央から放たれた一筋の光は、刃のように鋭く、熱を帯びてナインの右頬に触れた。


 ――じゅ、と。


 焦げた匂いとともに、肌に異形の印が刻まれる。ナインの身体がびくりと跳ねる。だが悲鳴は上げなかった。むしろその瞳には、どこか安堵に似た光が宿っていた。


 ――たとえ奴隷であっても、ルカの隣に居られるのなら、それでいい。


 ゼルダは、右頬に赤く残る奴隷の刻印を見下ろし、にこりと笑った。その瞳は濁りのない銀色。氷を閉じ込めたように静かで、何ひとつ、揺らがない。


「これで、お前は私のものだ。五歳の覚悟が、どれほどのもんか……見せてもらおうじゃないか。……ねぇ、ナイン?」


 声には揶揄も軽蔑もなかった。ただ、事実を告げる響きだけがあった。

 ナインは小さく頷いた。頬の痛みに意識が遠のきそうになりながら、それでもしっかり踏ん張っていた。呼吸は荒く、視界の端はかすれている。けれど、その目だけは、確かに前を見据えていた。


 ゼルダが指先で合図を送ると、控えていた騎士が馬車を顎で示した。――ルカが乗っている馬車だった。

 ナインは取っ手に手をかけ、幌をあげる。湿った空気とともに、微かな嗚咽が流れてきた。


「ルカ……」


 逆光の中、細い少年の影が、静かにルカの視界に映った。


「ルカ。一緒に行くよ」


 その声に、ルカは目を大きく見開く。信じられないものを見るように、口をぱくぱくと動かす。涙に濡れた頬が、ますますくしゃくしゃに崩れていった。


「ナイン……ナインっ!」


 ルカは叫び、駆け寄ってナインの胸にしがみついた。

 震える子猫のように小さな体。涙がナインの肩を濡らし、細い指が彼の服を必死に掴む。

 ナインは静かに、その背を抱きしめた。頬にまだ痛みが残っていたが、それが心を曇らせることはなかった。


 ――やっと、会えた。


 その想いだけが、胸の奥に、蠟燭の火のようにぽうっと温かく灯っていた。


 外では、控えていた騎士がゼルダに小声で問う。


「……よろしいのですか? あの小僧を、あのまま」

「私が言うのもお門違いだけどね……五歳の勇者と奴隷の恋なんて、叶うと思うかい?」

「……思いませんな」


 騎士は、憮然として答えた。


「そうだろう? ……だから、今くらいは、いいと思わないかい?」


 ゼルダはゆっくりと目を閉じた。長い睫毛が影を落とす。

 陰影のせいか、ゼルダの美貌はひどく疲れて、実年齢相応に老いて見えた。



 やがて、号令の声とともに、騎士の一行が再び動き始める。


 街道の上を、蹄の音が遠くへ響いていく。青空の下、馬車の帆が風にたなびき、土煙がゆっくりとその後を追って昇る。


 領都――ミッドガルズへ――列は静かに進んでいった。


 風が一度、道端の野花を揺らした。

 それは、何かの終わりと、始まりの合図のように見えた。

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