決戦前夜②
白大理石の柱が並ぶ神殿の奥。柔らかな陽光が差し込む執務室は、祈りの気配に包まれていた。
壁際の聖像の前で、クラリス・ヴァン・ルクス司祭が手元の書類を整え、穏やかに顔を上げる。
雪のように透きとおる肌に、滑らかな銀髪。
長く整えられた髪は首筋で緩やかにまとめられ、両耳には夫のシリル・フェンロックの髪色と同じ、アクアマリンのピアスが光を受けて淡く輝いている。
かつては、氷の剣と言われた灰青の瞳には冷静さが宿っているが、その奥には母となった者が持つ、やわらかな光もあった。
「……なるほど。ユリウス殿下の婚約の申し出に、拒絶の言葉が出なかったのですね」
その声音には責める色はなかった。ただ事実を確かめるような響きだけがあった。
だが、ルカは椅子の端で両手を握りしめ、視線を落としたまま小さく頷いた。
「嫌だったのに……言葉が出なくて……体が勝手に動かなくなって……」
震える声がこぼれ、ナインはそっとその手を包む。
クラリスは二人の様子を見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「ナインの推測どおり、それは“誓約”の影響でしょう」
その一言に、ルカの瞳がかすかに揺れた。
記憶の底で、光に包まれたあの日の儀式が浮かび上がる。
「……じゃあ、やっぱり、あのときの……」
「ええ。王家の意に背くことを、あなたの心と身体が拒絶してしまうのです」
クラリスの言葉に、ルカの肩がわずかに震えた。
ナインは彼女の背へ手を添え、落ち着くように優しく撫でる。
「……大丈夫。原因がわかったなら、どうにかできるはずだ。司祭様、お知恵をお借りできますか」
クラリスは小さく頷き、卓上の聖印に触れながら語り始めた。
「三年前――あなたが受けた“王家への誓約”。
あの儀式で、あなたは神に二つのことを誓いましたね。
一つは、“王国に敵対しない”こと。
もう一つは、“王国のために戦う”こと。
それは、あなたの魂に刻まれた、神との契約です」
クラリスは、卓上の聖印を指でなぞりながら続けた。
「ユリウス殿下の申し出を受けた時――あなたは“拒みたい”という強い感情を抱いた。
ですがその感情は、王家に対する“敵意”として誓約に認識されてしまったのです。
その結果、誓約が発動し、あなたの意識と身体に干渉したのでしょう」
ルカの瞳がわずかに震え、膝の上の手がかすかに動いた。
ナインがその手に自分の掌を重ねると、クラリスは視線を二人へ戻した。
「もう一つ、重要な点があります。
三年前、あなた方が婚約を交わした際――互いに心を捧げるという“誓約”を神の前で立てましたね」
ルカが息を呑み、ナインも眉を寄せた。
「ええ……あの時、誓いました。互いの心を偽らず、支え合うと」
「その誓約も、今回の出来事に関わっていると考えられます」
クラリスは小さく頷き、言葉を選びながら続けた。
「つまり、“王家への誓約”と“お二人の婚約の誓い”――
この二つの誓約が同時に発動し、互いに相反する力が働いたのです。
王家に敵対できない誓約と、婚約の時に交わした心を捧げる誓約。
結果として、それぞれの誓約が衝突し、ルクレツィア様の意識が一時的に停止した……そう推察できます」
説明を終えたクラリスは、両手を組み合わせ、小さく息をついた。
部屋の中に、しんとした沈黙が落ちる。
ルカは唇を噛み、か細い声で問いかけた。
「……じゃあ、私の中で……神様が喧嘩したってこと……?」
クラリスはわずかに微笑み、頷いた。
「言い方としては、そうなるかもしれませんね。
ですがそれは、“あなたが誰を想っているか”が、はっきりしている結果でもあります」
彼女は机上の聖典を閉じ、ゆるやかに息を整えた。
「……方法が、ないわけではありません」
その言葉に、ルカがはっと顔を上げ、ナインも目を向けた。
「誓約とは、あくまで神と交わした“内容”にのみ効力を持ちます。
神があなたの行動を縛るのは、あなたの意志が“王国への敵意”と判断された時だけ。
つまり――“拒む”ことと“敵対する”ことは、本来まったく別の行為なのです」
クラリスは両手を重ね、指先をそっと組み合わせながら言葉を続ける。
「ユリウス殿下に対して“敵意”を抱かず、“拒絶”として伝えられれば――
誓約の干渉は発動しない可能性が高いでしょう」
だが、ルカは不安そうに視線を落とした。
「……でも、あの人が優しく話を聞いてくれるとは思えません」
ナインが腕を組み、低く答えた。
「もしユリウスが力ずくで迫ってきたら? その時、ルカが“敵意を持たずに拒む”なんて……難しいと思う」
クラリスは小さく頷いた。
「ええ……その懸念は理解しています。
ですので、もう一つの方法を考えました」
クラリスは二人の左手に嵌められている指輪を見つめる。
「あなた方は三年前、神に“互いの心を捧げる”と誓いましたね。
もし、そこに“互いの身体も捧げる”という新たな誓約を付け加えれば、神はあなた方を“対の存在”として認識し、王子からの干渉を避けられると思います」
ルカは一瞬、意味を理解できず、瞬きを繰り返す。
「……からだを……?」
クラリスは頷き、聖印を胸の前に掲げた。
「神学において、“心”と“身体”は対を成します。
すでに心の誓約があるのなら、さらに身体にも誓約を結ぶことで、より自然で安定した状態になると、私は考えます」
「……か、からだを…..そ、それってその……!」
ルカは顔を真っ赤にして、クラリスの言葉を復唱した。
両手をわたわたと振り、耳まで染め上げている。
クラリスは軽くため息をつき、静かに指を立てた。
「誤解です」
きっぱりと告げられ、ルカは動きを止める。
「わたくしが言っている“身体を捧げ合う”とは、俗的な意味ではありません。
神学的には――お互いの生命力を共有することに近いものです」
「せ、生命力……?」
「ええ。男女の営みというのは、本来“命を分かち合い、子を為す”という聖なる行為。
ですから、その本質的な部分を誓約という形で神に示すのです。
そうすれば、誓約した相手以外――つまり、外からの介入や誘惑に対して、神があなた方を保護するように働く可能性があります」
クラリスの声はあくまで穏やかで、理知的だった。
ナインは視線を落とし、少し息を吐いた。
「つまり……神の前で、正式に婚姻してルカと対になりなさい、ということですね?」
「そうです。形式的な婚姻の前に、“誓約の均衡”を整える。
神学的には前例は少ないですが、似たような事例があります。
病を患った子のために、母親が自らの命を分け与えたのです。
子は助かりましたが、母はその翌日、静かに息を引き取りました。
身体を捧げるという事は、そういうことなのです」
ルカの瞳がわずかに震え、唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……でも……命を分かち合う、って……なんか、すごく……重い、ですね」
クラリスはしばし沈黙し、聖印を指先で撫でるようにして言葉を続けた。
「――ええ。実際、重い誓約です。
身体を捧げ合うということは、命をひとつにすることでもあります。
もしどちらかの命が尽きた時……もう一方も、斃れる可能性があります」
ルカは息を呑んだ。
ナインが眉をひそめ、クラリスを見据える。
「代償もある…ということですね」
クラリスの言葉が終わると、部屋にはわずかな沈黙が落ちた。
ルカは頬を染めながらナインを見上げる。
「……私は、構いません」
その声音は、驚くほど穏やかだった。
「ナインがいなかったら、私はもう何度も戦場で死んでいたと思うんです」
ナインは言葉を失い、ただルカの言葉を聞いていた。
「……ナインは、奴隷の身分にまで落ちて……自分の身体も人生も投げ出して、それでも私の傍に居てくれた。私を支えてくれました」
ルカの碧の瞳が、まっすぐナインを見つめていた。
「だから、今度は私の番です。
ナインと一緒に居るために、私の全部を――捧げます」
言葉を紡ぐたび、胸の奥が熱くなる。
碧色の瞳が揺れている。
「……重いかもしれないけど、それでも――私を貰ってくれますか?」
ナインは息を詰め、彼女を見つめ返した。
クラリスはそっと視線を逸らし、祈りの印を切る。
神殿の外から、遠く鐘の音が響いた。
長い沈黙ののち、ナインはゆっくりと息を吸った。
ルカの瞳を見つめ返す。
戦場では揺るがないその眼差しが、今はただ、彼のために震えていた。
「……俺の方こそ、ルカが居なかったら、とっくに道を踏み外してたよ。ずっと――助けられてばかりだった」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「俺を選んでくれてありがとう….貰うよ、ルカ。お前の全部を。俺の全部で守るよ」
ルカの肩がわずかに震え、瞳が潤む。
唇が開き、笑みと涙が同時にこぼれた。
「……ありがとう。これからも、よろしくお願いします」
ナインは微笑み、彼女の手を取る。
掌と掌が重なり、体温が溶け合う。
クラリスは席を立ち、二人の前に進み出た。
「まずは、お二人の決断に祝福を。
それでは――誓約の儀について相談しましょうか。
私の大切な親友達のために、全力を尽くします」
その声は、祈りのように静かで、あたたかかった。




