愛を取り戻せ-的なお話し-
王子の話が聞こえた瞬間、時間が止まったように感じた。
何が起きたのか分からなかった。
息を吸うことも、声を出すこともできない。
言いたい言葉は喉の奥で絡まり、何も出てこなかった。
どうして、こんなふうになってしまったのか。
自分が悪いのだろうかと、心のどこかで責めてしまう。
目の端で、彼の姿が見えた――
本当に好きな人。
その人の目が、こちらを見ていた。
その瞬間、全身の血が引いた。
どうしてこんなことになっているのか分からなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになった。
何をすればいいのかも、どこを見ればいいのかも、もう分からなかった。
違う、こんな姿を見られたくない。
そう思うのに、動けなかった。
好きな人の前で、自分がどう見えているのかを想像するだけで、
胸の奥が焼けるように熱くなって、息が詰まりそうだった。
喉の奥がきゅっと狭くなって、
涙が、知らないうちに滲んでいた。
止めようとしても、止まらなかった。
声にならない嗚咽が胸を震わせて、
それでも、誰にも悟られたくなくて――ただ、うつむいた。
足もとで、涙の粒が石畳に落ちた。
その音が、
自分の心が閉じる音に聞こえた。
*
夜の帳が深く降りていた。
窓の外では、風が木々の枝をかすかに鳴らしている。
室内には、ひとつだけ灯されたランプの淡い光。
その光の下で、ルカはゆっくりと瞼を開けた。
視界に映るのは、見慣れた天井。
ナインの家の寝室だった。
呼吸を整えるように浅く息を吸うと、胸の奥で、何かがざわついている。
隣から、低く息を呑む気配がした。
「……ルカ」
低く優しい声が耳に届いた。
ベッドの脇に座るナインが、心配そうに身を乗り出していた。
黒い髪が少し乱れ、義眼の奥の光がかすかに揺れている。
「気がついたか」
「……ナイン……ここ……?」
「俺の家だよ。倒れたんだ。医師はもう帰った。命に別状はないって。
エルヴィナとミレーユは、先に休んでもらった」
そう言う彼の頬に、疲れがそのまま残っていた。
その表情を見た瞬間、ルカの心が痛む。
胸の奥に押し込めていた記憶が、瞬く間に溢れ出す。
王子の声。婚約という言葉。
ざわめく会場。
そして、何も言えなかった自分。受け入れそうになった自分。
「……っ!」
身体が震え、喉の奥から息が詰まるような音が漏れた。
ナインの手がそっと肩に触れる。だが、その優しさがかえって痛かった。
胸の奥に押し込めていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「……ごめんなさい」
彼女は震える手を伸ばし、ナインの袖を掴んだ。
声が途切れ、言葉にならない嗚咽が漏れる。
「わたし……あの時……嫌だって言えなかった……!」
「婚約の話、か」
ナインが低く呟く。
その響きに、ルカの肩が震える。
「違うの……ナイン、違うの……!」
ルカは顔を上げ、涙に滲む瞳で彼を見つめる。
言葉にならない想いが喉を焦がし、嗚咽と共に溢れ出た。
「あのとき……何も言えなかったの。嫌だって言いたかったのに、声が出なくて……っ」
「ルカ――」
ナインが言葉をかけようとしたその瞬間、ルカはベッドから身を起こし、彼の胸に縋りついた。
震える指が、彼の服を掴む。
「ごめんなさい、ごめんなさい……違うの、あんなの、わたし……!」
ナインはその肩を抱き寄せ、何も言わずに背を撫でた。
ルカの頬に涙が伝い、ナインの胸元を濡らした。
彼の温もりが、乱れた呼吸をゆっくりと整えていく。
「落ち着いて、ルカ」
ナインの声は静かで、優しかった。
「詳しくは明日、ルクス司祭様に聞いてみようと思ってるけど、ルカが……王子に嫌だと言えなかったのは、理由があると思う」
ナインは少し間を置き、言葉を選ぶように続ける。
「ルカも覚えているでしょ?
三年前――六稜郭防衛戦のちょっと前、ルカは『誓約の儀』を受けて、王家に忠誠を誓わされたよね」
ルカが小さく息を詰める。
「……あの時……」
「そう。あの儀式は、強大な力を持つ勇者が、王家に逆らわないように、神の前で忠誠と従属を誓わせるものだ」
ルカの手が、ナインの腕を強く掴む。
胸が締め付けられるように痛む。
「……こんな、こと……どうして……」
声にならない声を漏らし、ルカは俯く。
目は暗闇に溶けるように虚ろだ。
好意を持っていない異性に逆らえなくなるという状況は、ルカに深刻な衝撃を与えていた。
あの『誓約の儀』――神の前で王家に忠誠を誓わされた瞬間、体の奥から不思議な力がじわりと湧き上がり、意思に反して行動が制御される感覚を覚えた。
「体が……私の言うこと、聞かない……」
思わず小さく震える。心では“いやだ、いやだ”と叫んでいるのに、手も足も、反応すべてが何かに縛られている。
王子を拒絶したくても、体が勝手に従おうとする。
「どうしよう….どうすれば、私……」
涙が頬を伝い、枕に落ちる。
自分の意思があっても、それを身体が裏切る感覚に、恐怖が胸を押し潰す。
「いや……違うの……私、そんなの望んでないのに……」
小さく震える声。手足の先まで、体の奥から迫る力に、絡め取られるような感覚。
自分の意思と身体が分断される恐怖が、ルカの胸をぎゅっと締め付ける。
暗い寝室の中で、ルカは震えながら、どうにもできない無力感を感じていた。
ナインはルカの頬を包むように撫でた。
「ルカ、大丈夫」
低く、あたたかい声が落ちる。
「ルカは誰にも渡さない」
ルカは涙に濡れた瞳でナインを見上げる。
その瞳の奥には、恐怖と安堵とが混じり合っていた。
「俺が、ルカとの約束を破ったこと……一度でもあった?」
「……ない、よ……」
ルカが震える声で答えると、ナインは小さく息を吐き、微笑んだ。
「だったら、信じて。ルカは絶対守る」
穏やかな言葉なのに、ナインの瞳に宿る光は、あの誓約の呪縛よりもずっと強く見えた。
ルカの胸が熱くなり、涙がまた溢れた。
「ナイン……ぎゅーって、ぎゅーってしてぇ…..」
ナインは黙って腕を伸ばし、ルカを抱きしめた。
お互いの胸の鼓動が、耳の奥で規則的に響いた。
体温が伝わる。匂いが混ざる。震えていた心が、少しずつ柔らかくなり溶けていく。
「大丈夫。俺がそばにいる」
その言葉に、ルカは泣きながら笑った。
「……うん。ずっと一緒にいてね….」
ナインはルカの髪を撫で、彼女の頬に唇を寄せた。
涙の味が、かすかに残る。
ルカはそのままナインの胸に顔を埋め、そっと目を閉じた。
二人は言葉を交わさず、ただ寄り添い、抱き合って夜を過ごした。
互いのぬくもりだけが、静かに夜を包んでいた。




