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解放そして捕獲

 学園の卒業式が終わり、春から夏へと季節が移り始めたある日。

 街路樹は淡い緑の葉を広げ、影も濃くなっていた。

 空は高く、雲はまだ薄い。

 日差しは強すぎず、光は冷たさを帯びている。


 石造りの辺境伯領の庁舎の中は、朝の光を浴びても肌寒かった。


 灰色の壁の奥、細い廊下を抜けた先に、小さな受付がある。

 積み上げられた羊皮紙と封印の印章が、整然と机に並んでいた。


 ルカは書類を差し出す。

 事務官は無言で受け取り、内容を確認する。


「……奴隷契約解除の理由、確認しました。『本人の希望および主の承認』で間違いありませんね?」


 ルカは頷いた。

 指先は書類の端をわずかに押さえたまま離れない。

 インクはまだ乾ききらず、光を受けて微かに滲んでいた。


「はい。ナインは、もう……奴隷でいる理由はありませんから」


 声が少し掠れる。

 事務官は表情を変えずに、魔印盤の封を解く動作を始める。

 盤面の紋章が光り、淡い蒸気のようなものが立ち上り、受付の脇に立つナインを包み込んだ。


 長い年月、右頬に刻まれていた奴隷紋が、ゆっくりと消えていく。


「これで、奴隷契約は解除されました。

 以後、彼は領の自由民として登録されます」


 事務官は封印済みの記録書を差し出す。

 ルカは両手で受け取り、しばらく視線を落とした。


「……ありがとうございます」

「こちらが、戸籍台帳への記載内容です」


 事務官が淡々と告げ、羊皮紙を机に滑らせた。


「誕生日は不明とのことでしたので、本日を登録日といたします。居住地、氏名、身分区分――ご確認ください」


 ナインは紙を両手で丁寧に受け取る。

 目を通す彼の姿を、ルカは黙って見つめている。


 日付の欄には、今日の日が刻まれていた。

 新しい時間が、今ここで始まることを告げているようだった。


「……問題ありません」


 ナインが言葉を返すと、事務官は短く頷いた。


「では、これで全て完了です。以後、貴方は辺境伯領の自由民として扱われます」


 印章が押される音が、静かに響いた。

 長い鎖が断たれる最後の音のようでもあった。


 ルカの胸の奥で、何かがきしむ。


——あの日、自分が強ければ、彼は奴隷にならなかった。


 彼はずっと傍にいてくれた。


 過酷な実験で死にかけた時も。

 危険な冒険で追い詰められた時も。

 絶望的だった魔王軍との戦いの時も。


 弱音を吐くこともなく。

 嘆くこともなく。

 諦めることもなく。


 ナインはずっと傍にいてくれた。


 ルカは椅子を離れ、ナインのもとへ歩み寄る。

 何も言わずに、その胸に顔を寄せた。


「……久しぶり、ナイン」


 声には、押し殺した涙の気配があった。

 震える手が、彼の背を掴む。


 ナインは少し戸惑うが、拒まなかった。

 そっとルカの髪を撫でる。

 長い年月を経て、ようやく人としてルカと向き合えた瞬間だった。


「久しぶり、ルカ」


 庁舎の窓から射し込む光が、二人の影を重ねた。



 * 


 

 奴隷契約が解除された翌日、ナインは辺境伯領の庁舎に再び姿を見せていた。

 今度は、自由民として。


 最初に行われたのは、身分証の発行だった。

 鉄製の小さな札に、自分の名と登録番号が刻まれる。

 それは、この領で「ひとりの人」として認められるための証だった。


 次に、居住地と税籍の登録が行われる。

 住所欄には、ルカの屋敷の名が記された。


 手続きはまだ続く。

 公証局での印章登録、領外への通行証の再認可。

 すべての書類に、自分の手で署名を重ねていった。


 最後の窓口で、職員が淡く微笑を浮かべる。


「登録完了です。これで正式に、辺境伯領の自由民として、すべての権利と義務が発生します」


 その言葉に、ナインは静かに頭を下げた。


 庁舎を出たあと、彼は冒険者ギルドへ向かった。

 受付嬢は、書類を見て小さく息を呑む。


「……ゼロ──いえ、今はナインさんですね。冒険者登録をご希望で?」

「はい。以前は身分上、記録されていませんでしたが、活動歴はあります」


 差し出された書類の束には、ルカの署名とともに、討伐記録、調査報告、救援証明が整然と綴じられていた。


「……今さら登録って感じですけど、ギルマスに確認してきますね」


 受付嬢が奥へと姿を消し、まもなく戻ってきた。


「実績がとんでもないんで、特例で金級冒険者として登録していいそうです。こちらが冒険者票になります」


 手際よく進められる処理。

 押印の音が響いた瞬間、ナインの名が冒険者名簿に刻まれた。

 それは、奴隷として過ごした年月を超え、自らの力と実績で得た初めての肩書きだった。


 その日の午後、もう一つの知らせが届いた。

 辺境伯領公立魔導学園──ルカと共に学んでいた場所からの封書だった。


 封を切ると、丁寧な筆致の文が目に入る。


 『長年の研究協力と成果を認め、特任研究員として登録を行う。また、辺境伯領公立魔導学園卒業証を授与する。』


 手の中にあるのは、彼自身の名で記された卒業証。

 それは、誰かの所有物としてではなく、ナインという一人の人間が初めて手にした、自分の名による証だった。


 風の匂いも、街のざわめきもも、何かが変わったわけではない。

 ただ、あれほど長い時間を過ごした「奴隷=所有物」としての日々が、名前を呼ばれ、書類に記され、署名を求められるたびに、少しずつ遠ざかっていくのが不思議だった。


 ルカの待つ屋敷の方へ向かいながら、ナインは一度だけ空を見上げた。

 高く、透きとおった空に、ひとつだけ小さな雲が流れていた。


 「「お待ちしておりましたわ」」


 見事に重なった二人の少女の声に、ナインは振り返った。



* 



 ナインがミレーユとエルヴィナに捕獲された日から、怒涛の勢いで婚約誓約式の準備が進められた。


 そして、わずか一か月で――王国史上初と噂されるほど異例の――婚約誓約式が行われることになった。

 

 ナインはまだ自分が何に巻き込まれているのか理解できずにいる。

 

「え、これ……本当に自分のことなのか?」

「「そうよ、ナイン!ルクレツィア様にもお許しいただいてますから、ご安心くださいな」」


 ミレーユとエルヴィナは、終始笑顔だった。



 * 



 辺境伯爵の城内礼拝堂には、初夏の朝の光が差し込んでいた。

 彩色ガラスを透かして落ちる光は、赤と青の紋章を床に映し、冷たい石の空間をかすかに染めている。


 鐘の音が三度、響いた。

 参列した貴族たちが起立し、ルクス司祭が祭壇へ進む。

 その後ろには王の使者、両家の家長――シュトルムベルク辺境伯爵とレヴィアタン名誉男爵――が続いた。

 堂内の空気は、緊張で満ちていた。


「神と王国の御名において――」


 ルクス司祭の声が響く。

 羊皮紙に封蝋された誓約書が広げられ、ゆっくりと文面を読み上げた。


「本日ここに、シュトルムベルク辺境伯爵家の令嬢ミレーユ、並びにレヴィアタン名誉男爵の令嬢エルヴィナと、大魔法使いナインとの婚約を誓約す。

 双方は神の証人のもと、これを正当なる盟約と認む。」


 文言は古式ゆかしい教会神聖語で朗読された。

 内容は、持参金の約定、家名継承の許可、婿入りの誓約、王印の認可。

 読み上げが終わると、両家の家長は黙してそれぞれの文書に署名し、家紋の印章を封蝋に押した。


 次いでナインが立ち上がり、手の中に淡い青の光を生み出す。

 彼は自らの印――蒼き魔法陣の紋を羊皮紙に刻んだ。

 貴族の血に代わる、彼の唯一の“証”だった。


 司祭は頷く。


「この印、確かに誓約の証として記す」


 羊皮紙が巻かれ、王の印章で封じられる。

これで文書上、この婚約は“王国法”にも“教会法”にも認められた。

 だが、儀式はまだ続く。


 ルクス司祭が一歩前に出る。


「ナイン殿、汝はシュトルムベルク家に婿入りし、忠を尽くすことを誓うか。」


 ナインはゆっくりと膝をつき、右手を胸に当てる。


「この身とこの力をシュトルムベルク家に捧げます。主を敬い、家を護り、令嬢ミレーユを、いずれ我が妻として迎える日まで。」


 声は低く堂の石壁に反響した。

 司祭は繰り返す。


「ナイン殿、汝はレヴィアタン家に婿入りし、忠を尽くすことを誓うか。」


 ナインは膝をつき、右手を胸に当てたまま答える。


「この身とこの力をレヴィアタン家に捧げます。主を敬い、家を護り、令嬢エルヴィナを、いずれ我が妻として迎える日まで。」


 声は再び堂の石壁に響いた。


 ミレーユとエルヴィナが揃って壇上へ進む。

二人は両手に小さな金の鍵を捧げ持っていた。

 鍵は家の宝物庫を暗示しており、家の象徴として扱われていた。


「「この鍵を授けます。

 あなたがこの家の者として、共に在られる日を、私は望みます。」」


 二人の声は重なり、鍵も同時にナインに差し出された。

 ナインは跪いたまま鍵を受け取る。

 ルクス司祭が祈りの言葉を唱える。


「神よ、この誓いを御身の御手に封じたまえ。」


 聖水が羊皮紙と鍵に振りかけられる。


 これで、誓いは成立した。

 ナインは正式にシュトルムベルク家とレヴィアタン家の保護下に入り、ミレーユとエルヴィナの未来の夫として王国に認められた。


 鐘が再び鳴る。

 参列者たちが起立し、楽士がハープを奏で始める。


 ナインを中心に、ミレーユは右手を、エルヴィナは左手を組み、三人は並んで壇を降りる。

 今この瞬間、初めて公の場で“並んで歩く”ことが許された。


 ミレーユは小声でナインに囁く。


「ようやく、あなたの隣に立てた。」


 エルヴィナは涙をこらえるように微笑む。


「同じ名を名乗る、その日をお待ちしています」


 ナインは二人に微笑む。


「不束者ですが、どうかよろしくお願いします」


 堂の扉が開き、光が差し込んだ。

 初夏の風が流れ込み、三人を撫でていった。

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