帰還
城門の内側、凱旋の広場には、帰還した第一陣の兵たちが整列していた。
隊列の先頭では、指揮官カーティスが片膝をつき、辺境伯爵夫人に報告をしていた。
その声を聞きながら、まだ自力では立てないナインは少し離れた木陰で、蜘蛛型ゴーレムの操縦席に身を預けていた。
そこへ、二つの影が近づいてきた。
淡いピンクのドレスをまとい、陽を受けて青銀の髪がやわらかく光る。
左右で色の異なる瞳――右は深い瑠璃、左は澄んだ翡翠。
少女、ミレーユ・ヴァン・シュトルムベルク。カーティスの双子の妹であり、ナインの婚約者(仮)でもある。
普段は陶器の人形のように整った微笑を崩さない彼女が、今日は焦った様子で小走りに駆けてくる。
その隣には、外套の裾を揺らしながら、いつもの飄々とした笑みを浮かべたロイがいた。
「ナイン……!」
ミレーユは駆け寄ると、息を止めるように立ち止まり、震える指先でナインの頬をそっとなぞった。
涙が今にもこぼれそうなのをこらえながら、柔らかく微笑む。
「ご無事で、本当によかった……」
その声を受けて、ナインは操縦席から身を起こし、丁寧に頭を下げた。
「ミレーユ様。まだ自力で立てず、このような姿で申し訳ありません。ロイさんの助けで、なんとか帰ってこられました。
ミレーユ様がロイさんに、私の救出を依頼してくださったと伺いました。本当に、ありがとうございました」
ミレーユは首を横に振り、ナインの手を包み込むように握った。
「謝ることなんてありません。あなたが生きて帰ってきてくれた……それだけで、もう十分です」
春の光がふたりの頬を照らす。
視線が交わり、言葉にならない想いが静かに通い合った。
ナインは照れたように目を逸らし、口元を緩める。
「……そんなこと言われたら、もう立てそうな気がしてくるよ」
「ふふ、それなら立って見せてくださいな」
婚約が内定して以来、ナインはミレーユとエルヴィナに対してだけは、できる限り飾らない言葉で話すようにしていた。
ミレーユが微笑むと、隣のロイが小さく咳払いをして笑う。
「ミレーユ様……申し訳ございませんが、そろそろ」
ミレーユは顔を赤らめ、ロイが肩をすくめる。
その光景に、ナインもつられて笑った。
ミレーユは、名残を惜しむようにナインの手を握っていた。
その瞳には、まだ心配の色が滲んでいる。
「……本当は、もう少し話していたいのですけれど。今は兄の補佐を任されていますの。すぐ戻らなければなりません」
「うん。無理はしないでください。ミレーユ様も、休めていないでしょう?」
ナインの言葉に、ミレーユは一瞬だけ微笑んだ。
その笑みはわずかに寂しさを帯びながらも、どこか安らかだった。
「あなたの無事が確認できただけで、もう十分です。……でも、またすぐ会いに行きますね。療養の間くらいは、ゆっくり休んでください」
「はい。部隊が解散したら、自宅療養のためにクラウド男爵家へ戻るつもりです」
ナインの答えに、ミレーユは小さく頷いた。
名残惜しそうにその手を離し、春風の中で青銀の髪がそっと流れる。
歩き出した彼女は、城門の方へ数歩進んでから振り返り、淡く微笑んだ。
「……おかえりなさい、ナイン」
その声は柔らかく、どこか切なかった。
ナインは動けず、ミレーユの姿が城中に消えるまで、ただその場で見送った。
そのとき――。
「ナイン!」
風を切るように声が届いた。
顔を上げると、陽の光を背に、ルカが駆けてくる。
鎧は脱いでいて、軽装の姿。戦場の影を感じさせない、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「部隊、正式に解散だって。みんな、それぞれの隊舎に戻るみたい」
「そうか……ルカも、お疲れさま」
ナインが言うと、ルカはすぐそばまで来て、両手を腰に当てる。
「ねぇ、ナイン。一緒に帰ろう?」
「うん、そうしよう」
その返事に、ルカはほんの少しだけ頬を膨らませた。
「ミレーユ様と、楽しそうだったね? よかったね、早速会えて」
「い、いや……今回は最後、ロイさんに助けてもらっただろ? 依頼主はミレーユ様だったし、お礼をしないと……。
そ、それに一応、婚約者になるし、あまり冷たくするのも悪いから」
言い訳のように慌てるナインを見て、ルカは思わず吹き出した。
肩を揺らしながら笑って、頬をほんのり赤く染める。
「ふふっ……そんなに焦らなくてもいいのに」
左手の薬指に光る指輪を撫でながら、ルカはわざとらしく小さくため息をついた。
「でも、ちょっとだけヤキモチは焼いたよ。ミレーユ様、すごく綺麗だもんね」
その言葉にナインが言葉を詰まらせ、ますます慌てる。
「い、いや、だから! あれはそういうんじゃなくて……!」
ルカはそんな彼の様子に、ますます笑いをこらえきれず、舌をぺろって出した。
「ごめん、冗談」
そう言って、ほんの少し顔を近づける。
春の光が金色の髪を照らし、ルカの瞳が柔らかく輝いた。
「でもね――今回、ナインと一緒に戦って、分かったの。
私たち、ちゃんと繋がってるんだなって。あれがあったから、怖くなかったんだ….誓約の儀で婚約してくれてありがとう。嬉しかった」
ナインはその瞳を見つめ返し、頬をかくようにして微笑む。
「……そう言われると、ちょっと照れるな」
「ふふ。好き」
ルカは照れ隠しのように笑って、軽く腕を絡める。
「私、正妻なんだから、しっかりするね」
「頼りにしてるよ」
軽口を交わしながら、ふたりは顔を見合わせて笑った。
春風の中、ゴーレムがゆっくりと動き出す。
*
午後の陽が、やわらかな金色を地面に落とす頃だった。
クラウド男爵家の門が見えはじめ、ナインはゆるやかにゴーレムの速度を落とした。
屋敷の前には、二つの小さな影が立っている。
一人は、褐色の肌に白い髪、金色の瞳をした女性。
二十歳前後に見えるその姿は、戦闘奴隷――ライーシャ。
隣に立つ少女よりも頭ひとつ分ほど背が高く、控えるように一歩後ろへ下がっていた。
そして、その隣に立つ少女。
白金の髪が春の風を受け、光の粒を散らす。
長く整えられた縦ロールがほどけかけ、陽を反射して柔らかく輝く。
緋色の瞳がナインを見つめ、長い睫毛の奥でかすかに光を滲ませていた。
エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタン――名誉男爵令嬢にして、ナインの婚約者(仮)。
勝利の報を聞いて、急ぎ戻ってきたばかりなのだろう。
旅装のまま、息を整えることも忘れて、ただ彼を待っていた。
「ナイン……!」
声を上げた瞬間、抑えていた感情があふれ出したようだった。
エルヴィナはためらいもなく駆け出し、ゴーレムの操縦席へと近づいていく。
いつもは完璧に着飾った貴族の令嬢そのものの彼女だが、今は旅装のままだ。
淡いベージュのマントの裾には土埃がつき、ブーツには長旅の跡が残っている。
整えられた縦ロールの髪もほどけかけて肩に流れ、頬には疲れの影が見えた。
それでも、その姿からは気品が失われていなかった。むしろ、必死に駆けつけたその想いが、彼女をいっそう美しく見せていた。
唇を噛み、涙をこらえるように目を伏せる。けれどすぐに、笑みがこぼれた。
「ご無事で……本当によかったです……!」
そのまま勢いのまま、ナインの座席の縁まで駆け寄り、両手をそっと握る。
その手は少し冷たく、震えていた。
ナインは驚きながらも、やわらかく微笑んだ。
「エルヴィナ様……? 疎開先から戻られたんですか?」
彼女は小さく頷き、潤んだ瞳でナインを見つめた。
「はい……勝利の報せを聞いて、もういても立ってもいられなくて……。夜通し馬を走らせて……どうしても会いたかったんです」
声がかすかに震え、息が詰まる。
それでも懸命に笑おうとするその仕草が、胸を締めつけた。
エルヴィナの揺れる緋色の瞳に映るナインは、照れたように胸元からペンダントを取り出した。
ナインは胸元に手を添えた。
指先が銀の鎖をたどり、衣の奥から小さなペンダントをそっと取り出す。
淡い陽の光を受けて、それは優しくきらめいた。
その瞬間、エルヴィナの瞳が大きく見開かれる。
「……それ、まだ……持っていてくださったのですね」
かすかに震える声。
ペンダントの中には、彼女が自ら切り取った白金の髪が一房、丁寧に収められている。
――“少しでも、一緒にいられるように”。
出撃の朝、エルヴィナはその願いを込めて、ナインに託したのだった。
ナインはそれを掌に包み、穏やかに言葉を紡ぐ。
「……この髪が、ずっと傍にありました。
一緒にいてくださって、ありがとうございます」
エルヴィナの唇が小さく震え、瞳に光が差す。
それでも、彼女は微笑みを保とうとした。
「わたくし……本当は、一緒に行きたかったんです。
ナインの隣で、支えになりたかった……。
でも、見送ることしかできなかったから……せめて、心だけでも、と」
言葉の終わりに、頬を伝う涙が一粒。
それでも、彼女は涙を拭わず、まっすぐにナインを見つめる。
「ナイン……私はルクレツィア様のように、あなたの隣で剣を振るうことはできません。
けれど、次は必ず――私にできることで、あなたと共に参ります。
今は、こうしてまた……お会いできて、本当に……嬉しいです」
淡い風が二人の間を通り抜ける。
エルヴィナの白金の髪が揺れ、ナインの胸元で小さなペンダントがきらりと光った。
エルヴィナはルカを振り返り、裾をつまんで一礼した。
「ルクレツィア様。この度は無事のご帰還、おめでとうございます」
「ありがとう。エルヴィナ様も、無事で本当によかった」
ルカの穏やかな声に、エルヴィナの表情がやわらぐ。
けれど次の瞬間、彼女ははっとして、ナインと繋いだままの手を見つめた。
頬に淡い紅がさす。
「す、すみません……ルクレツィア様の前で、このような……!」
慌てて手を離そうとするエルヴィナの肩に、ルカがそっと触れる。
その仕草は柔らかく、責めるでも慰めるでもなく、ただ受け入れるようだった。
「大丈夫。前に、ミレーユ様とエルヴィナ様と話したでしょ?
“私たちは、同じ人を好きになった仲間”って」
ルカの言葉に、エルヴィナは小さく息を呑み、目を伏せて頷いた。
そして、頬を染めたまま顔を上げ、ほころぶような笑みを浮かべる。
「……はい。わたくし、ルクレツィア様のご厚意に、心より感謝しております」
「うん、ありがと。ナインも、これからは三人まとめてお願いね」
ルカがそう言いながら、ナインの袖を軽く引く。
その動きに、ナインは少し困ったように目を逸らした。
「……なんか、ルカ、強くなった気がする」
「ナインが、安心させてくれたからね」
ルカがさらりと言葉を返すと、エルヴィナが思わず微笑んだ。
「ルクレツィア様には、到底かないませんわ。ですが……今日はお二人のお顔を拝見できただけで十分です。
また今度、少しだけ――ナインと二人でお話しさせてくださいね?」
「もちろんです、エルヴィナ様。またお声かけください」
ルカの優しい返事に、エルヴィナはほっとしたように微笑み、一礼してその場を離れた。
春の風が白金の縦ロールを揺らし、マントの裾が小さく翻る。
エルヴィナの姿が遠ざかり、門前に春の風が通り抜けた。
ルカはナインの隣に立ち、ふっと息を吐く。
「……やっと、帰ってこれたね」
「ああ。本当に、帰ってきたんだな」
二人の視線が合う。
そこには言葉よりも深いものがあった。
長い戦いを越え、いつもの日々を取り戻す――その重みが、互いの笑みに滲んでいた。
ルカが小さく頷く。
「ねぇ、ナイン」
「ん?」
「……ただいま」
ナインは少し照れたように笑い、答えた。
「おかえり。そして……俺も、ただいま」
「おかえりなさい、ナイン」
そのまま、二人は並んでクラウド男爵家の門をくぐる。
春の陽射しが、石畳の上に淡い影を落とした。
遠くで、鐘が一度だけ鳴る。
――穏やかな音が、ようやく訪れた安らぎを告げていた。




