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六稜郭防衛戦10

 湾刀を振り抜いたエグリゴリの軸足が、そのまま地面へ沈んだ。

 膝から腰、胸、そして頭までが吸い込まれるように土中へ消えていく。

 黒い巨体はひと呼吸の間もなく、ずるりと飲み込まれ、ついさきほどまで戦場の中心にあったその姿は、あっという間に地表から消えた。


 エグリゴリが地面に沈んだあと、戦場に短い静寂が落ちた。

 砂煙が薄れ、周囲と色の異なる地面だけがその痕跡を残す。

 誰もが息を呑んだその刹那、空気を切り裂くような悲鳴が響き渡った。

 掠れた声が割れ、血を吐くような調子で絞り出され、鋭い金属音のように耳を刺す。

 人の声でありながら獣の叫びにも似たその音は、戦場の隅々まで届いた。


 その時、地に伏していたナインの身体に、ざらついた光のノイズが走った。

 輪郭が歪み、色と形が崩れていく。

 次の瞬間、地面に残っていたその姿は掻き消え、砂塵だけがそこに残った。


 少し離れた空間に同じノイズが走り、空気がひび割れるように震える。

 歪んだ光の中から、ナインの身体が姿を現した。


 第八階梯魔法《灼獄覇焔》──彼はその詠唱をすでに進めていた。

 先ほどから流れていた悲鳴は、ナインの高速詠唱だった。


 ナインが姿を現した瞬間、その足元へ砂煙を蹴り散らしながら影が駆け寄った。

 ルカだ。肩で荒く息を吐き、目は真っ赤に充血し、顔色は蒼白。

 指先は小刻みに震え、噛み締めた唇が白くなっている。


「……よかった……《幻影》だったんだね……」


 声は途切れ、かすれていた。

 今にも崩れそうな膝を押さえ、ルカはナインの裾をそっとつまんだ。


 ナインは《幻影》の魔法で自らの分身を生み、囮として罠の上に立たせていた。

 その幻影を斬り裂こうと、エグリゴリは自らキルゾーンへ足を踏み入れていたのだ。


 罠は、魔力で構築された底なし沼。

 しかもエグリゴリが踏み込んだ瞬間、体表を微細な空気の泡が覆っていた。

 摩擦を極限まで減らしたその泡により、巨体は自重に抗えず、あっという間に地面へ沈んでいった。


 ナインは、エグリゴリが沈んだ地面から視線を外さず、途切れなく詠唱を続けていた。

 唇から魔法の詞が流れ出し、その合間に器用にルカへ声を投げる。

 移植された魔獣の二枚舌が、詠唱と会話を同時に可能にしていた。


「ルカ、心配させてごめん。でも、まだ終わってないよ」


 低く落ち着いた声が、戦場の熱気に沈んで響く。


 その言葉に、ルカは一瞬で顔を上げ、荒い呼吸を整えた。

 膝に力を込め、深く一度息を吸い込む。

 次の瞬間には、蒼白だった表情を引き締めていた。


 戦場の空気が再び張り詰めていく。


 ナインは視線を地面に固定したまま、詠唱を続けながらさらに声を重ねる。


「エグリゴリが飛び出してきたら、《灼獄覇焔》を打ち込む。仕留め損ねたら……ごめん、数分時間を稼いで」


 淡々とした声音の奥に、張り詰めた緊張が潜んでいる。

 沈み込んだ大地の奥から、微かな動きの気配が伝わってきた。


 ルカは短く息を吐き、足の位置を整え、大剣を構える。

 目は一点を射抜くように地面を見据え、両手に伝わる柄の重みを確かめる。


 地面が低く震えたかと思うと、次の瞬間、衝撃音が戦場を貫いた。

 砂煙を巻き上げ、亀裂が走った大地の奥から、爆破と共に黒い巨体が飛び出す。

 エグリゴリが全身の外殻に亀裂を刻み、複眼をぎらりと光らせながら空へ躍り出た。


 その瞬間、ナインが鍵音を叫ぶ。


「《灼獄覇焔(ヘルファイア・ドミニオン)》!」


 詠唱が終わると同時に、空間が軋むような音と共に魔法陣が展開された。

 そこから迸るのは、灼熱の熱線。

 赤い光の奔流が一直線に伸び、空気を焼き切りながらエグリゴリを捉える。


 衝突した瞬間、耳を劈く轟音と共に光が爆ぜ、周囲の砂礫が吹き飛んだ。

 至近距離の着弾に、焦げた大地から熱風が吹き上がり、ルカの頬を焼く。


「……かわされたっ!?」


 霞受け──エグリゴリが選んだのは、シンエイ流の受け技だった。

 身体強化と魔法防御を最大出力にし、魔物の身体能力と人間の技術を融合させた魔王の眷属は、必殺の熱線の軌道を刃で捻じ曲げたのだ。


 ナインの切迫した声が響いた瞬間、ルカはエグリゴリへ突貫した。


 第八階梯魔法の猛悪な輻射熱の前に、エグリゴリも無傷ではなかった。

 右手の刀身は融解、右手は部分的に炭化し、受け流した右側上半身の甲殻は沸騰するかのように泡立っていた。


 しかし、それでも、エグリゴリはルカを圧倒する。


 ルカが大剣を振りかぶる。だが、エグリゴリは躊躇なく間合いに踏み込み、片手で剛剣の軌道を変え、受け流す。

 人間の武術、ガーンズ流──対人戦を極めた流派を体得した魔王の眷属は、ルカのジ=ゲン流の連撃を瞬時にいなし、的確に反撃を差し込む。


 肘がルカの胸を捕らえ、のけ反ったところを蹴りで吹き飛ばす。

 立ち上がろうとしたルカの顔面に、左拳が叩きつけられる。

 肩を掴まれ、引き寄せられた腹に、膝蹴りが深くめり込む。


 それでも、ルカの瞳は屈さない。

 泥と血で汚れた手で大剣を握り直し、荒い呼吸の中、膝をつきながらも立ち上がる。


 剛剣を受け流され、蹴撃、殴打、肘打ち、体当たり──考えられるあらゆる打撃がルカの身体を打つ。

 それでもルカは、血と汗にまみれながら再び剣を構え直す。


 ――ごめん、数分だけ時間を稼いで――


 その目には、決して退かない覚悟が宿っていた。



* 



 六番稜に整列する神官戦士団四十七名。

 その最前に立つのは、純白の祭服を纏うクラリス・ヴァン・ルクス司祭だった。


 全員が膝を折り、頭を垂れ、祈りを紡ぐ。

 十数分に及ぶ読経と祈念の後、クラリスが立ち上がる。


 その唇が鍵音を刻んだ。


「《聖戦士ディバイン・クルセイダー》」


 言葉が解き放たれた瞬間、天蓋を突き破るように光が降り注ぐ。

 祈りを捧げていた者たち全員の身体を、聖なる輝きが包み込んだ。


 第七階梯神聖魔法──《聖戦士ディバイン・クルセイダー》。


 この神聖魔法は、術者が自らの魔力と体力を削り取り、対象へと移譲することで、その戦闘力を飛躍的に高める秘儀である。

 本来は複数の司祭や神官が祈りを合わせ、力を一つへ注ぐことで最大の効果を発揮する。


 対象となった者は、己の限界を超え、複数人分の力を同時に扱う。

 その恩恵は絶大で、時に一人をして百人の軍勢に匹敵させるほどの力を与える。


 だが、この魔法には危険が潜む。

 過剰な力の移譲は肉体に甚大な負荷をもたらし、筋肉を裂き、血管を破壊し、最悪の場合は内から崩壊させる。

 強大さと背中合わせに存在するその危うさゆえ、この術は神聖にして禁忌の側面を併せ持っていた。


 


 

 ナインの魔力は枯渇していた。

 頭が重く、目眩に襲われ、吐き気が胸を締めつける。思考は鈍り、世界が遠ざかっていく。


 視界の片隅で、防戦一方のルカが踏ん張る姿が映った瞬間、怒りが弾けた。

 身体は限界にあり、魔力は底を突いている。しかし、激烈な怒りはナインの意識をつなぎ止めた。


 その時、天から光がナインに降り注ぐ。

 荒れ狂う感情と焦燥の中、不意に力が漲った。

 干からびた血管に新たな命が流れ込むように、失われていた力が一気に蘇っていく。


 重く霞んでいた視界が晴れ、胸の奥から熱が湧き上がる。

 ――来た。


 ナインは再出撃の時、軍団長級の存在を予想し、クラリスに《聖戦士》の奇跡を依頼していたのだ。

 ナインは歯を食いしばり、まだ震える指先を見つめた。


 そして、詠唱を開始した。

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