旅立ち②
朝の空気は澄んでいた。村を包む森の梢が、微かに風を含んで揺れている。
ナインは細い肩を上下させながら、村の中を駆け抜けていく。小さな背中に、ほどけた包帯が風に翻りながら落ちていった。
村の門が見える。年季の入った木造の門柱。いつもは穏やかな日常の境界に過ぎなかったその場所が、今日はまるで、世界の終わりのように感じられる。
門の外の道に、目を凝らす。
――いた。
ゴトゴトと揺れながら街道を進む馬車。揺れる帆布。鈍い灰色の鎧をまとった騎士たちが取り巻き、馬の蹄が小刻みに地を打っていた。
「ルカぁあっ!!」
かすれたナインの声が、空気を裂いて飛んだ。喉が焼けるほど叫んだその名が、風に乗って馬車に届いたのか――
幌が揺れ、顔が覗く。
「ナインっ……!」
金の髪が朝日にきらめき、夢で幾度も聞いたその声が、確かに応えた。
ルカの姿が、身を乗り出すように現れたのも束の間――
馬車は曲道に差しかかり、丘の向こうへと吸い込まれるように消えていった。
*
息さえ忘れて、ナインはその場に立ち尽くしていた。薄く震える指が、届かぬ空を掴むように伸びる。一瞬の絶望の後、天啓のように閃いた。
……あの丘を越えれば……! 先回りできる。
ナインは踵を返し、村の裏手の小径へと走り出した。
鼓動が耳を打つ。
風が、肌を切るように吹き抜ける。
地面には夜露が残り、踏みしめるたびに草が湿った音を立てた。
斜面はぬかるみ、足元はずるりと滑る。
木の根が邪魔をして、何度もつまずきそうになる。
肺が焼け、視界が霞む。
背中を冷たい汗が伝い落ちる。
喉の奥が熱くなり、息が詰まりそうになる。
それでも、走った。
*
車輪がごとん、と石に乗り上げ、馬車が大きく揺れた。
ルカは小さな体をぎゅっと固くして、口を真一文字に結ぶ。
荷物と一緒に押し込まれたその小さな空間は、薄暗かった。分厚い帆布が四方を覆い、外の光はほとんど届かない。
冷たい木の床には座席らしいものもなく、ルカは荷物を背に、小さく膝を抱えていた。
知らない土地へ。知らない人たちと。
身体の震えは、寒さのせいではなかった。
大人たちは口をそろえて言った。「栄誉だ」「選ばれし子だ」と。
あの日の光の爆発が、ルカを「勇者」に選んだのだと。
――けれど、あまりに突然すぎる運命だった。
つい昨日まで、ナインと並んで草を摘み、虫を追いかけていたのに。
丘の上で、笑い合っていたのに。
父も母も、ついてはこなかった。
「領都には何でもある」「すぐに領主様が世話をしてくれる」
そう言われたけれど、そんな言葉で、不安が消えるわけがなかった。
――こわいよ。
声に出せなかった。言ってしまえば、何もかもが崩れてしまいそうだったから。
「……ナイン」
その名をそっと呼ぶと、胸がきゅっと痛んだ。
最後に一目でも、会えてよかった。無事に、目が覚めたのだ。
「……よかった……」
生まれてからずっと一緒だったナイン。
ぶっきらぼうで、口は悪いけれど、本当は優しいナイン。
いつも難しいことを考えていて、大人びていたナイン。
ナインは、なんだかいい匂いがして、そばにいるだけで安心できた。
魔力測定の日に助けてくれたナイン。
あたたかかった手。ぎゅっと握ってくれた、あのときの力。
倒れそうになりながら、それでも呼んでくれた、「ルカ」という声。
思い出すたびに胸がいっぱいになった。涙が、こぼれそうだった。
「……もう、会えないの?」
ぽつりと落ちた言葉は、闇に沈み、誰にも届かない。誰も、答えてくれない。
馬車の揺れだけが、不規則に響く。
ルカは、両手で顔を覆った。
声にならない嗚咽がこぼれた。涙が頬をつたって、ぽたり、ぽたりと床に染みこんでいった。
*
――見えた。
丘の上から街道がのぞいた。騎士たちの小さな隊列が、ゆっくりと進んでくる。馬車も、その中にあった。
ナインは、丘の斜面を転がるように一行の前へ駆け下りた。草の葉が肌を裂き、土が足にまとわりつく。
そして――
「待ってっ!!」
その声が届いたのか、騎士たちは歩みを止めて顔を向けてきた。その視線の先には、泥まみれの少年が、ぼろぼろの姿で立っていた。
息を切らし、胸を大きく上下させながら、ナインは泥の中に崩れ落ちるように膝をついた。
土の匂いと馬の体温が混ざる空気のなか、騎士たちの鎧が微かに軋む。
「どけ」
先頭に立つ騎士が、忌々しげに吐き捨てた。
漆黒の鞘に収められた剣がわずかに動き、鋭い視線が、地に這いつくばる少年を射抜く。
けれど、ナインは動かなかった。否――動けなかった。
身体はすでに限界を越えていた。三日ぶりに起きて、丘を全力で駆け、斜面を転がり落ちた。その代償に、体はもう、自分のものではないようだった。
「……つれて、って……ください……っ……」
ナインは、かすれる声をどうにか振り絞った。




