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六稜郭防衛戦9

「色覚、遮断」


 ナインの瞳がわずかに揺れた。その瞬間、ナインの知覚する世界から“色”が消えた。


 「温覚、遮断。痛覚、遮断。触覚、遮断。感覚情報、切断……」


 温度も、痛みも、皮膚の感覚も――すべてが剥ぎ取られていく。

 知覚情報を強制的に切り捨て、余った処理能力を、すべて思考に注ぎ込む。


 「――思考加速、開始」


 思考速度の加速に伴い、外界の時が遅れて流れていく。

 音が低く響き、空気が粘性を帯びたように感じられる。炎の揺らめきが緩やかに見え、舞い散る火の粉はいつまでも煌めいている。


 「リンクス、レヒツ起動」


 ナインの両の手の甲が脈打ち、人面瘡が現れた。人の顔を模した肉腫が、蠢くように、呻くように、口を開ける。


 「リンクス、物理防衛シールド五連続詠唱。レヒツ、魔法防御フィールド五連続詠唱。コントロールは宿主に委譲」


 人ならざる詠唱器官――二つの口が、それぞれ別の魔法詠唱を同時に走らせる。

 ルカの周囲に、紫色と緑色のハニカム構造を持った半透明の盾がそれぞれ五個ずつ展開し、ルカを包むように間隙なく空中を浮遊し始める。


「ルカ、エグリゴリは人間の武術を使う。少なくともジ=ゲン流、ガーンズ流、ニテン流奥伝は使用記録がある」


 ルカはナインの声かけに、頷く。


 エグリゴリは黒い外殻の右腕をゆるく掲げ、刃のような指先を動かして挑発の仕草を見せた。

 言葉はなくとも、その意図は明確──「来い」という合図だった。


 ルカは返事をしない。碧色の瞳に戦意を宿し、龍脈の魔力をさらに高める。

 足元の砂が浮き、空気が軋む。

 次の瞬間、彼女の姿が弾かれたように消え、音より早く間合いを詰めていた。


 大気が裂ける音。

 金色の粒子を散らしながら、ルカは無言で大剣を振りかざし、エグリゴリへ打ち掛かった。


 ルカは龍脈の力を全身に巡らせ、金色の粒子を散らしながら一気に踏み込んだ。

 大剣が閃き、連撃が嵐のように繰り出される。剣風が大気を裂き、石片が宙に跳ねた。


 しかしエグリゴリはわずかな体重移動と腕の角度だけで、それらを軽やかに受け流す。

 いつの間にか、右手には片刃の湾曲した剣が握られていた。

 黒い刀身とルカの大剣が火花を散らし、重い衝撃が辺りに響くが、エグリゴリの動きは安定している。


 ルカの剣が再び振り下ろされる瞬間、エグリゴリの姿が霞のようにずれた。

 返す刃──人間の剣術、ガーンズ流の型が組み込まれている。

 対人戦に特化したその動きは、ルカのジ=ゲン流にとって最も相性が悪い。

 狭い間合いに誘い込み、受け流し、角度を変えて反撃を差し込む動きが連続する。


 ルカは一撃ごとに重さを増し、角度を変え、変化を試みるが、エグリゴリはあらゆる軌跡を読み取り、紙一重で刃を外していく。

 剣と剣が擦れ、火花が散り、空気が震えた。

 砂塵が舞い上がり、二人の影が閃光のように交錯する。


 瞬きする暇さえない。

 ルカは次の一手を探し、エグリゴリはそのすべてを見透かしているかのように動いている。


 剣と剣が擦れ、火花が散る。ルカとエグリゴリの影が閃光のように交錯し、砂塵が渦を巻いていた。

 ジ=ゲン流の連撃をエグリゴリはすべていなし、ガーンズ流の鋭い反撃を差し込んでくる。

 息もつかせない拮抗が続く。


 その均衡を破ったのは、ナインだった。


 短く詠唱を紡ぎ、指先をひらく。第五階梯魔法──《熱雲(ヴェイパライズ•ゲヘナ)》。

 鍵音が紡がれた瞬間、エグリゴリの眼前に魔法陣が顕現、その直後エグリゴリの頭部を覆うように、数百度に達する水蒸気が展開された。

 視界が白く塗り潰され、熱せられた蒸気が空気を炙る。

 ただの目眩しではない。触れれば皮膚を焼き、呼吸するだけで喉を焼き付くす灼熱の雲だ。

 目で追えない程の高速の戦闘中でも、敵の動きを解析、座標を補正し、最小範囲で術式を展開──その精度は常軌を逸している。

 伝説に謳われる軍団長級さえ予測していなかったナインの絶技は、数瞬の隙を創り出した。


 その瞬間、ルカの剣がエグリゴリを袈裟斬りに切り裂いた。


 …勝機!

 ルカが踏み込みと同時に大剣を構えた。

 袈裟斬りの勢いのまま、止めを刺すために振り下ろす。


 その瞬間、エグリゴリの外殻が脈動し、複眼が強く光を放った。

 全身に膨大な魔力が流れ込み、黒い外殻が紫色に光る。


 次の刹那、エグリゴリの巨体が爆発的な速度で動いた。

 龍脈に匹敵する魔力の奔流──身体強化が発動している。

 黒い軌跡を残しながら、体当たりを仕掛ける。ルカはその巨体に押し潰されるように弾かれた。


 鈍い衝撃が空気を裂き、地面が陥没する。

 ルカの身体が吹き飛び、砂煙の向こうへ転がった。


 その体当たり──シンエイ流の捨て身技「水月返し」。

 本来なら人間の剣士の一撃を、エグリゴリが放ったのだ。


 外殻がさらに光を帯び、全身に膨大な魔力が流れ込む。

 発動した身体強化は、ルカのそれと遜色ないほどだ。


 しかし条件はあまりに違った。

 ルカの身長は一六〇センチ、体重五十キロ。

 対するエグリゴリは二三〇センチ、体重一一〇キロ。

 同じ強化を施しても、純粋な質量と筋力の差は埋められない。


 さらに、ルカが扱うのはジ=ゲン流ただ一つ。

 対するエグリゴリは三百年の戦歴を持ち、人間の流派を複数修め、組み合わせて己の型として完成させている。

 十五歳の少女が積み上げた年月とは、比較にならないほどの経験がそこにある。


 エグリゴリが身体強化を発動した結果、技量、膂力、経験。

 すべての要素がルカに勝っていた。

 今までルカに傾いていた戦場の天秤は、身体強化を解放したエグリゴリへ傾いていた。


 ルカがカウンターを受けて吹き飛んだ、その瞬間。

 エグリゴリの足元から白いもやが立ち上がり、一息でその全身を包み込む。

 輪郭は曖昧に崩れ、顔や腕の動きさえ見分けにくくなる。


 ナインの詠唱による第3階梯魔法《濃霧》が、瞬時に展開され、エグリゴリの視界を奪った。追撃の流れが一拍だけ止まる。


「《雷球(ボルトオーブ)》」


 霧の中に蒼い光球が現れた。人の頭ほどの大きさの球体から白い火花が連続して走り、周囲に放電が始まる。


 放たれた電撃は四方へ跳ね、光は紫に揺らめき、先端は青白く光る。一本だった線が二本、三本と増え、あっという間に蜘蛛の巣のように拡散していく。


 第5階梯魔法《雷球(ボルトオーブ)》は、魔力を注ぎ続ける限り放電を止めない。

 球体の中心が輝く核となり、そこから絶え間なく電撃が生み出される。表面は光の糸で覆われ、脈打つように膨張と収縮を繰り返す。


 広がった紫電の束が、最寄りの高く尖り濡れた存在──エグリゴリに収束していく。応じるようにエグリゴリの外殻からストリーマが立ち上がり、回路がつながった。

 次の瞬間、球体から複数の落雷がほとばしり、エグリゴリを直撃する。


 閃光と轟音が霧を裂き、黒い外殻に稲妻が走った。火花が弾け、衝撃が空気を震わせる。


 エグリゴリは高速で離脱し、霧を破って飛び出す。

 だが雷球は追尾を続け、次々と落雷を浴びせかけていった。


 エグリゴリの黒い外殻が低い唸りをあげるように脈動し、複眼の光がさらに強く増した。


 身体強化の発動により、外殻の魔法耐性は一段と上昇している。走っていた雷光は表面を焦がすだけで散り、紫電は弾かれるように空へ逃げた。

 第五階梯の雷撃ですら深くは届かない。

 無数の落雷を浴びても、その巨体は大きく崩れることなは無かった。


 複眼が標的を切り替え、雷球を無視してナインに照準を合わせる。

 地面をえぐる踏み込みと同時に、巨体が前へ突進した。遅れて空気を裂く轟音が響く。

 黒い質量が白煙を纏いながら一気に加速し、視界の奥から迫る。足元の大地が砕け、破片と砂煙が飛び散った。


 ナインは詠唱の途中で顔を上げ、その気配に息を詰めた。

 気がついた時には、殺気を帯びた風圧が頬を打ち、複眼の光が目前まで迫っていた。


 間合いに入った瞬間、エグリゴリの右手の湾刀が弧を描く。


 ナインの瞳に、その刃が映る。

 逃げることも、詠唱を完了することも、もう間に合わない。

 湾刀が胸元へ吸い込まれるように迫ってくる。


 次の瞬間、鈍い衝撃と共に視界が白くはじけた。

 湾刀はナインの身体を真二つに断ち切る。

 血の飛沫が朝日に光り、地面に紅が広がっていく。

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