六稜郭防衛戦8
急造された防衛陣地。
土嚢と崩れかけの柵の向こうは、黒煙と火花が入り混じり、視界は霞んでいた。
陣地の内側には魔法使い部隊が並び、第三階梯の攻撃魔法を次々に詠唱し、青白い光と轟音が連続して走る。
その光の幕が辛うじて前線を押し止めているように見えたが、現場にいる誰もが限界が近い事を知っていた。
「詠唱、急げ! 次の列、すぐに展開しろ!」
指揮官の割れた声が耳に刺さる。
だが、その声に反応できる者の方が少なくなってきていた。
魔力切れで膝をついた魔法使いが次々に後方へ引きずられ、空いた陣列に必死で補充が走る。
詠唱の声は次第に小さく、途切れ途切れになっていく。
前方では、魔王軍の兵士級が血のような赤い光を漏らしながら、次々と膨張し、破裂していく。
爆炎が柱となり、黒煙と土砂を巻き上げながら、じわじわとこちらに迫ってきた。
それは爆発で作られた壁が押し寄せてくるような感覚だった。
熱風が土嚢を越えて陣内に入り込み始めた。息が焼け詠唱がしにくい。
爆発の揺れが大きくなってきた。土嚢が崩れる音が耳に残る。
「これ以上は持たない……!」
誰かの声が悲鳴に変わる。
魔法の光が途切れるごとに、爆炎の壁が一歩近づく。
陣地と爆炎の距離はもう数十メートルもない。
空気は焼け焦げ、鼓膜を打つ耳鳴りが消えない。
指揮官が再び叫ぶ声も、爆音に飲み込まれて消えた。
そんな中。
歌が流れてきた。
愛する者を失い、引き裂かれるように泣き叫ぶ悲鳴のような。
終わらない戦場で、倒れた仲間を抱きしめ、こらえきれず吐き出す慟哭のような。
自分の死を悟った母が、残された子を思いながら漏れ出る最期の嗚咽のような。
悲歌慷慨の旋律だった。
「死告妖……? こんな時に――」
指揮官は歯を噛み、戦場を見渡した。
爆風と煙に視界は霞み、誰が声を放っているのかさえ判然としない。
耳を裂くような悲鳴が、絶望の底から滲み出るかのように戦場に響き渡っていた。
やがて、その歌は唐突に途絶えた。
「灼獄覇焔」
虚空に魔法陣が刻まれ、赤熱した光輪が螺旋を描きながら広がっていく。
大気が軋み、熱に空間が歪み、魔力の飽和が音を帯びて波立った。
一瞬、空気が凍り付いたように止まり、次の刹那、赤い光が爆ぜた。
赤い熱線は戦場を貫き、押し寄せる魔王軍の兵士級を根こそぎ薙ぎ払い吹き飛ばした。砕け散った装甲と飛び散る残骸の間を、烈火の奔流が突き抜ける。
万を超える兵士級の爆発光が、すべてを呑み込む。
明けぬ空が白銀の閃光に塗り潰され、目も開けられぬほどの輝きが地平を覆う。
閃光の直後、耳を裂く轟音が大気を震わせ、岩や瓦礫が宙に舞い上がった。
烈風はすべてを攫い、熱風は肌を焼き、空気そのものが燃え立つように震える。
防衛陣地の内側で、騎士たちは声を失ったまま身を伏せ、指揮官は目を見開き拳を握りしめる。
驚愕と安堵が混じる思いを、呆然と呟いた。
「……なんだ、今のは……第八階梯魔法か?」
あたりには煙と塵が立ち昇り、熱で遠景の影は揺らめき、地面は熱線に融解していた。
すべてが瞬時に変わり果て、風と炎の音だけが残る歪な静寂の中、金色の魔力を纏った勇者と、その傍らに影のように寄り添う黒衣の魔法使いが歩み出てきた。
夜明けの気配が差し始めた東の空を、ルカとナインは睨むように見つめていた。
空に潜む“それ”から放たれる鋭い気配が、肌を刺すように迫ってくる。
「……ルカ、ごめん。第八階梯は、あと一発は約束する。二発目は……厳しい」
ナインは肩で息をしながら、荒くなった呼吸を抑え込もうとしていた。
不意に、ナインが指先をかざす。虚空に淡い光が走り、緑色の魔法陣が瞬時に展開する。
短く紡がれた詠唱とともに、カウンターマジックの波が放たれ、ソイツの光学迷彩の魔法が強制的に剥がれ落ちた。
朝の光が強まる中、その輪郭があらわになる。
空に浮かび上がったのは、軍団長級──将軍級の上位個体。これまで魔王軍に三体の存在が確認されていた。
一見すれば、頭部から背中にかけて大きな翼を備えた天使の姿に近い。だが、その本性はまるで異なるものだった。
全身は漆黒の外殻に覆われ、硬質な光沢が朝の光を鈍く反射している。
胸郭や腹部は節くれだった装甲板で構成され、肩口からは刃のように鋭い突起が伸びている。
頭部は人形のように整った輪郭を持ちながら、顎の両脇からはクワガタの大顎を思わせる巨大な角が湾曲して突き出していた。
眼窩にあたる部分には宝石めいた複眼が無数に光り、淡い輝きを帯びている。
羽は天使の羽根のような輪郭を保ちながらも、細部は透き通る甲虫の翅膜に酷似し、ゆるやかに震えて不気味な音を立てていた。
人間に近い腕脚は、筋肉ではなく節を重ねた外骨格で構成され、指先の代わりに尖った鉤爪が並んでいる。
ルカは軍団長級の姿を視認した瞬間、息を吸い込み、視線を鋭く細めた。
全身の神経が戦闘用に切り替わり、足先から指先まで研ぎ澄まされていく。
大地がわずかに脈打つように震え、風が渦を巻いて彼女の髪を撫でる。
空気の密度が増し、皮膚がひりつくようにまとわりついてくる。
「……アイツが親玉だね」
低く呟く声と、剣呑な光を放つ碧色の瞳が戦意を示す。
ルカの足元に淡い紋様が浮かび、龍脈の鼓動が地面から伝わってくる。
それを受け止めるようにして彼女は両手を広げ、魔力を全身に巡らせた。
大地から引き上げられた魔力が血管を駆け抜け、光の粒子が肩や腕、胸元に重なり、鎧のように全身を包み込む。
金色の粒子は風に舞い、髪や瞳にその輝きを映し込む。
龍脈の脈動と心臓の鼓動がひとつに重なり、足元の大地すら微かに鳴動する。
彼女の周囲の風は渦を描き、砂塵と光の欠片を巻き上げて円を形づくった。
*
「……エグリゴリ」
防御陣地で指揮を執っていたエグバード第一騎士団長が、光学迷彩が解かれた魔王の眷属を見て、低くその名を吐き出した。
その名は、三百年に及ぶ魔王軍との戦史の中でも、数えるほどしか現れていない。
エグリゴリ──魔王軍にわずか三体しか確認されていない軍団長級の一体。
過去にその姿を目撃した者の多くは帰還できず、存在自体が疑問視されるほどだった。
黒翼の屠殺者。
血濡れの大顎。
複眼の破壊神。
幾つもの二つ名を冠したその眷属は、単独でひとつの国を滅ぼすとまで言われ、畏怖の対象となっていた。
今、その存在が現実となり、空に顕現している。
「副長」
「はい、団長」
「すまんが、指揮を頼む」
「承知しました。ご武運を」
長年の付き合いで、この寡黙な騎士団長の思いは言葉にせずとも伝わる。
呆れと諦めが入り混じり、かすかな笑みに変わった。
「ジ=ゲン流──剣帝エグバード・ヴァン・クラウド、推して参る」
エグバードは愛用の大剣を担ぎ、愛娘と義理の息子のもとへ駆け出した。
*
エグリゴリの両脇には、将軍級が二体、無言のまま控えていた。
エグリゴリが右手をわずかに振る。その合図と同時に、将軍級二体が一斉にルカとナインへ襲いかかる。
ルカは即座に剣を構え、迎撃の体勢へと移った。
だが刹那、将軍級二体の巨体が横から弾き飛ばされ、轟音とともに地面へ叩きつけられる。
ルカ達の背後から現れたのは、第三騎士団団長ガルド・ヴァン・レッドベイル、第一騎士団団長エグバード・ヴァン・クラウド、そして金級冒険者パーティ《紅蓮の炎》《エターナルウィンド》《夜明けの鐘》の面々だった。
彼等の放った一撃が、将軍級を迎撃したのだ。
「将軍級は我々が倒す。ルクレツィア、ナイン、お前たちは軍団長級…エグリゴリに集中しろ」
エグバードの声が響いた。
ルカは一瞬微笑み返し、再びエグリゴリに対峙した。
六稜郭防衛戦の最終局面が始まった。




