六稜郭防衛戦2
少し時間は遡る…
「全軍、大休止!」
エグバードの号令で、六稜郭援軍先鋒、二千の騎士と馬が動きを止めた。
砂埃が淡く舞い、鎧や旗印がわずかに揺れる。馬たちは蹄を砂に沈め、重い息を吐きながら首を振った。
騎士たちは下馬し、こわばった肩や腰をほぐす。数名が簡易の食事を広げ、乾いたパンや干し肉、水筒の水を口に運ぶ。火は小さな焚火だけで、煙がかすかに立ち上る。短い休息ながら、兵たちは腹を満たしていった。
指揮官たちは小さな円陣を作り、情報を照合しながら状況を確認している。
鎧の留め具をゆるめ、砂の上にしゃがみ込んで体を休める者。順番を待ちながら仲間と軽口を交わし、短い用足しを済ませる者。戦場の緊張に、ほんの一瞬だけ日常が差し込む。
馬にも水が与えられ、背を撫でられると安らいだ表情を見せた。兵士が手綱を持ち直し、砂地に再び足を据える。
二時間――戦場の喧噪を忘れ、疲労を癒すためのひととき。
騎士も馬も、次に訪れる戦いを胸に刻みながら、呼吸を整えていた。
*
深い闇の中で、月が銀の光を降らせている。
雲間を抜けた月明かりが、黒い大地に細い光の筋を描いていた。
二キロ先の断崖は輪郭だけが淡く浮かび、昼間の赤や茶の色はすべて灰と墨色に溶けている。
影は鋭く、冷えた空気は澄みきり、星明かりと月光が混じり合って谷の縁が淡い霧のように光って見えた。
遠く、二キロ先の要塞から、ドロドロと不吉な旋律が響いてくる。
岩肌に反響する銅鑼のような低い響きと、太鼓のような鼓動が夜を震わせていた。音ははっきり届くが、距離のせいで旋律がわずかに歪んでいる。
まるで見えない場所で、巨大な心臓が脈を打っているかのようだ。
時折、火球が上げる煙と塵が月光に照らされ、要塞の輪郭を銀色に包み込む。
爆発の直後、数瞬の間は無音だが、振動がゆっくりと地面と空気を伝い、距離の遠さと爆発の規模を同時に実感させる。
地面に置かれた簡易モニターには、六稜郭の戦場が映し出されていた。
顕微鏡の視野で蠢く微生物のように、赤い点と青い点が入り乱れて動く。赤は魔王軍、青は友軍。赤に包まれた青の点が次々と消えていく。
展開した監視ドローンの情報を投影し、ナインが淡々と説明した。
「状況は……よくありません。一番稜が強い圧迫を受けています。このままでは、いずれ失陥すると思います」
騎士団指揮官達に混じり、状況を聞いていたクラリスが一歩進み出て、落ち着いた声で言った。
銀糸のような髪が、一瞬月光を浴びて光った。
「神官戦士団を、先遣隊として先行させてください。我々は全員神聖魔法が使えます。癒し手は早く行った方が良いと考えます」
ロイも続けて口を開く。いつもの軽い雰囲気は鳴りを潜めている。
「俺たち冒険者パーティ達も先行しよう。機動力がある分柔軟に動けるし、全員金級だ。戦力として期待してください」
その隣で、ルカが拳を握りしめて前に出た。
「わたしも行きます。一番稜が危ないなら……私が、勇者が少しでも力にならなきゃ」
ためらいの色はなかった。碧色の瞳には強い光が宿っている。
エグバードはしばし沈黙した。
視線を落とし、深く息を吐く。モニターに目をやりながら、考えを巡らせている。
やがて顔を上げ、低い声で言った。
「……わかった。ルクス司祭、ロイ、ルクレツィア、先発してくれ」
そして視線をナインへ向ける。
「ゼロ(ナイン)もルクレツィアと一緒に行くだろう? すまんが、我々への戦況の中継は頼めるか?」
ナインは短く答えた。
「承知しました」
*
蹄鉄が荒野を打ち、砂煙が舞い上がる。
先遣隊――ルカとナイン、クラリスとロイが疾駆していた。後方には神官戦士団と冒険者パーティが続く。
ナインの左義眼が淡く光り、遠隔の偵察ドローンからの情報が流れていく。
血の気が引くような声が漏れた。
「……まずい。一番稜が堕とされました」
馬上のルカが手綱を引き、わずかに身体を捻る。碧色の瞳が鋭く光を帯びた。
彼女はナインを見据え、ためらいなく言い放つ。
「ねぇ、私を――一番稜に向けて打ち出せる?」
無謀ともいえる言葉に、ナインの喉が詰まる。
視線が刹那に揺れ、眉間の皺が深まった。
「……わかった。だけど、すぐに俺も追いかける」
声がかすかに震えていた。
いつもは無表情な顔に、隠しきれない不安が滲む。
その表情に、ルカの唇がふっとほどける。
戦場には似合わないほど柔らかで、儚げな笑みだった。
「うん。……待ってる」
少し甘えたような澄んだ声が、緊迫した風を切り裂いて届く。
次の瞬間には、その余韻を断ち切るように馬の速度が上がった。
「……ごめんね」
ルカは愛馬の首筋をそっと撫で、小さく呟く。
そして馬上に立ち上がった。
疾走する馬の背で、碧色の瞳が前方を鋭く射抜く。
ナインへ視線で合図し、跳躍――
「っ!」
ナインが詠唱もなく風魔法を解き放ち、爆ぜる気流がルカを押し上げた。
身体強化が解放され、龍脈の魔力が白金の奔流となって全身を包む。
その軌跡は墨色の空を切り裂く鋭い閃光となる。
夜空を裂く流星のように、ルカは光の尾を引きながら六稜郭へ飛翔した。
ナインの左義眼がその姿を追い、唇が震える。
細やかな魔法調整で着地点を修正していく。
ルカを打ち出した瞬間、ナインは息を継ぐ間もなくクラリスに声を飛ばした。
「クラリス様、六稜郭司令部に通信を繋ぎます。ルカが出撃しました、連絡を――」
言い終える前に蜘蛛型ゴーレムが急加速する。
操縦席のナインが短く言い捨てた。
「俺も先に行きます!」
「ちょっと……!」
クラリスは呆れた息を吐きながらも、すぐに魔道具通信を起動した。
「こちら辺境伯領軍先鋒、第一騎士団先遣隊、第七神官戦士団クラリス・ヴァン・ルクス司祭です。六稜郭司令部、応答願います」
戦場の喧騒にかき消されそうな中、司令部との通信が繋がる音が響いた。
*
がらんとした指揮所に、通信水晶の澄んだ音が響いた。
「副長! 援軍先遣隊から通信です!」
担当官の声に、シリルは足早に駆け寄る。
視線は指揮所の外、一番稜戦域の燃える稜線へ向けられていた。
「繋げ」
水晶が光を帯び、すぐに女性の声が流れ込む。
『こちら辺境伯領軍先鋒、第一騎士団先遣隊、第七神官戦士団クラリス・ヴァン・ルクス司祭です。六稜郭司令部、応答願います』
「こちら第三騎士団副長、シリル・フェンロックです」
声には乾いた笑みが混じり、ひどく場違いな軽さを帯びていた。
「戦況は悪いです。一番稜が堕ちました。先ほどウチの団長が特攻しましたが、あまり長くはもちません。第三騎士団は戦力の五割を喪失。いやぁ、見事に潰れましたよ」
一拍置いて、吐き捨てるように続ける。
「司祭様、すいませんが、急いでいただけますか?ボクも責任とって、今から特攻したいんで」
その声音には、偽悪的な笑みで覆い隠そうとしても、完全には消せない悔恨があった。
『指揮官が何を言うのですか!』
クラリスの声が水晶越しに鋭く響いた。叩きつけるような高音域の叱咤に、シリルが一瞬顔を顰める。
『最後まで、自分の責務を果たしなさい! 今、勇者様が出撃しました。すぐにそちらへ向かいます――踏みとどまってください!』
彼女は畳みかけるように続ける。
『神官戦師団百五十名、全員が神聖魔法を使えます。さらに金級冒険者パーティ《紅蓮の炎》《エターナルウィンド》《夜明けの鐘》も同行中。あと十数分で到着します。』
一呼吸置き、声が少しだけ和らいだ。
『今から私たちは貴方の指揮下に入ります。私達は《性悪狐の悪魔の算盤》を信頼しています。指揮をお願いします、シリル副長』
通信官がシリルの不名誉な渾名を聞くや、思わず吹き出す。シリルの拳骨が通信官の頭に落ちた。
その直後、一番稜で白金の輝きが爆発的に走る。
遠くから騎士団の歓声が届いた。勇者が到着したのだ、と判断したシリルは、軽く息を吐きながらぼやく。
「はぁ、まためんどくさ」
声を通信水晶に向け直す。
「司祭様、勇者の到着を確認。神官戦師団、冒険者の皆様の助力に感謝します。
六番稜の門を開けます。そちらから入場ください。神官戦士団の皆様はそこで治療を開始してください。冒険者パーティは、指揮所まで来てください。
方々、性悪狐は人使いが荒いよってケツの毛まで毟られんように、きぃつけや」
クラリスはシリルの下品な皮肉に、思わず激昂し、一瞬言葉を失った。
その隙を逃さず、シリルは通信をオープンにする。
六稜郭全域に声が響き渡った。
「野郎ども、勇者様の降臨だ! 追加で神様の御使も来てくれたぜ! 援軍だ! もうちっと気張れや!」
次々と指示を飛ばしていく。
「二番、三番稜隊、六番稜に負傷者を後送する準備を始めろ。六番稜隊は門を開けたら、全員で二番三番稜の支援に回れ。第四、第五番稜隊は、六番稜のフォローだ」
「はぁ……やっと一息つける思たのになぁ。出世なんてするモンやあらへんわ」
シリルは溜息を吐きつつ、指揮所の戦況モニターを見渡した。
その目は冷たく細まり、頭の中では悪魔の算盤が静かに弾かれ始める。




