六稜郭防衛戦1
六稜郭の外縁には、外に向かって鋭く突き出す六つの稜堡があった。上空から俯瞰すると、六芒星を形作っている。魔王の領域に突き出した三つの稜堡が、一番から三番、人類側へ突き出した三つの稜堡が四番から六番とされていた。
幅はおよそ六百メートル。外周を幅三十メートル、深さ四、五メートルの堀に囲われている。土塁の高さは十メートルほど。厚さは二十メートル。石垣でつくられている。
城は無く、中央に指揮所、周囲に兵舎や倉庫が配置されている。
魔王の領域と人の生存圏を隔てる巨大な断層の裂け目、峡谷の底の道を塞ぐように建造されていた。
長年、人類の最終防衛線の要として、多くの戦いを経て来た要塞だった。
*
その日、六稜郭で最初に聞こえたのは、遠くで雷が鳴るような低い唸りだった。
地の底から滲み出してくる。足の裏で感じるような振動。
机の上のコップがわずかに揺れ、カタ…と乾いた音を立てた。
振動は、急速に強くなった。
床板が震え、壁が微かに軋む。
耳鳴りのような低音が部屋全体に広がり、空気そのものが震えている。
薄暮に霞む地平線の向こうで、地面が不自然に盛り上がっているのが見えた。
それは壁だった。
黒く、分厚い塊。
遠くに見えたはずなのに、次の瞬間にはもう近づいている。
ゴウッ、と空気が押し潰される音が響いた。
風ではない。壁が、空気を押しのけている音だ。
壁が迫ってきた。
真っ黒な壁が一直線に迫る。
近づいてよく見ると、それは黒い濁流だった。
魔王軍の群れ――数を数える意味はない。ひとつの生命体のように蠢く塊。
沸騰する黒い溶岩のような激流が、進路上の岩を踏み潰し、木々を薙ぎ倒して突進してきた。
六稜郭防衛戦が始まった。
*
開戦から数時間が経過していた。
指揮所の通信用水晶から、六稜郭の最前面、一番稜の指揮官の悲鳴のような報告が流れる。
よほど切迫しているのか、指揮官の故郷の訛りが出ている。
「……団長っ!団長、もうアカン!……すんません、先に逝きます!後は頼んます――ッ!!」
金属が軋むような耳障りな甲高い摩擦音と共に、怒号が混線する。金属のぶつかり合う音、何かが裂けるような音と悲鳴、魔王軍の獣じみた咆哮――声の主が何かを言いかけた瞬間、音が飽和して通信は途絶えた。
指揮所の空気が張り詰め、誰もが息を呑む。
数瞬後――
一番稜の闇が閃光で裂け、宵闇を紅蓮が飲み込んだ。
轟音が大地を揺らし、炎に包まれた魔王軍の兵が吹き飛ぶ様が指揮所からも見える。
爆風が指揮所の石壁を震わせた。
「……あのバカ」
第三騎士団団長の低い声が響く。
こめかみに青筋が走り、声音は淡々としたまま冷えきっている。
第三騎士団団長ガルド・ヴァン・レッドベイル。
山賊じみた厳つい顔に無数の傷跡を持つ、明るい赤髪の巨漢。
普段は鬱陶しいほど喜怒哀楽が激しい男だが、今は能面のようだ。
全身から魔力が溢れ出し、空気が軋む。
無言で身体強化を限界まで引き上げ、視線だけで人を黙らせる殺気が広がった。
「――一番稜を奪還するぞ」
騎士たちがざわめく。
「予備隊は半分付いてこい。残りは指揮所を死守しろ」
ガルドは背後の武器架から大剣を掴み、鞘ごと肩に担ぐ。
次いで棚から自爆用の魔法具をいくつも引き抜き、腰と胸に無造作に巻き付ける。
留め具の魔法陣が不気味な赤光を放った。
「さよなら、団長。死ぬには良い夜ですね」
アクアマリンのような薄い青色の髪をかき上げ、シリル・フェンロックが細い目をさらに細める。
狐めいた顔に浮かぶ笑みは挑発とも冷笑ともつかない。副長の揶揄う声がガルドの動きを止めた。
「指揮放棄で特攻とか……いいご身分で羨ましいことです」
ガルドは何も言わず歩み寄る。
足取りは重く、視界いっぱいに厳つい顔が迫る。
至近距離で射抜くような瞳に、兵たちが息を呑んだ。
シリルは口角をわずかに吊り上げる。
「この状況で戦力の分散、逐次投入とか……頭沸いてるんですか?」
涼しい声のまま、挑発は止まらない。
「死ぬなら一人で死んでくださいよ。……どれだけ寂しがりなんです?」
次の瞬間、シリルの胸倉が掴み上げられた。
骨が軋む音がしたが、彼は眉ひとつ動かさない。
薄ら笑いを崩さず、声が続く。
「行くんなら全員連れてけボケ。きっちり落とし前つけて奪還してこい、アホんだら」
ガルドの唸る声が飛ぶ。
「指揮所に予備兵力が無ければ……お前が困るだろうがッ!」
殺気に空気が震える。だが、シリルは笑みを崩さない。
返す声だけが低くなった。
「そこを何とかするのが、私の仕事です」
一瞬、ガルドの眼光が揺れた。
一番稜の守備隊には、最も戦力を集中していた。
だが開戦から数時間で、その戦力は擦り潰された。
守備隊全軍で挑んでも奪還は困難――それでも、ここで出撃しなければ二番、三番稜までもが危うい。
シリルもまた、決死の覚悟だと悟らされる。
「……わかった。すまねぇ。後は頼む」
巨漢の声が一瞬だけ震える。
シリルは薄く鼻で笑った。
「わかったなら、とっとと行け。そんで、あいつらしばき倒して戻ってこい」
ガルドは無言で胸倉を放し、大剣を肩に担ぐ。
一番稜の方角へ向かう背は、身体強化全開で赤く揺らめいた。
「お前らぁ!行くぞ!」
*
指揮所を飛び出した第三騎士団予備隊は、一番稜へ突撃した。
だが――押し寄せる魔王軍の数はあまりに多い。
「らぁッ!」
ガルドの大上段からの一撃が、兵士級の魔王軍を唐竹割りにした。
黒い体液が地面に飛び散り、錆びた臭気が鼻を刺す。
だが、その隙間を埋めるように新手が雪崩れ込んでくる。
「ぐああああッ!」
横の騎士が悲鳴を上げ、鉤爪に引き裂かれる。
盾を構えていた別の兵士も牙に噛み砕かれ、地面に叩きつけられた。
陣形がじわじわと崩れ、血に濡れた土がぬかるみになっていく。
「押し返せ!怯むなッ!」
誰かの叫びが響いたが、その声も他の怒号に掻き消された。
「こいつら、次から次へとキリがねぇ……!」
ガルドの大剣がもう一体を叩き割った、その瞬間だった。
横合いから、影のように別の兵士級が滑り込む。
「チィッ!」
振り返るのが一瞬遅れた。
鉤爪がガルドの脇腹を薙ぎ、火花と血飛沫が同時に散る。
身体強化がなければ即死の一撃――それでも衝撃に巨体が傾いだ。
「団長ッ!」
近くの兵士が叫ぶ。だが、その声も別の兵士級に押し潰され途切れる。
ガルドは膝をつきかけ、大剣を盾のように振り上げた。
正面には別の兵士級が跳躍して迫る――避けきれない距離だ。
「……クソがッ!」
怒号とともに剣を振り抜く。
だが迫る鉤爪は止まらない――
その瞬間――
金色の流星がガルドの目前に墜ちた。
轟音と衝撃が走り、数体の魔王軍兵が吹き飛ぶ。
「勇者ルクレツィア・ヴァン・クラウド、参上しました!」
砂煙と破片が舞う中、透き通ったソプラノの声が戦場を貫き、全員が息を止めた。
白く光る鎧をまとい、金のソバージュが風に揺れる。
龍脈の魔力が奔流のように身体を包み、空気が震える。
白金の光が周囲を照らし、一瞬にして昼の明るさが広がった。
神話の戦乙女を思わせるその姿に、騎士たちの視線が吸い寄せられる。
場違いな美しさと神々しさが周囲に放たれ、戦場の空気が変わった。
「龍脈発勁!」
ルクレツィアが龍脈から魔力を引き上げ、体内で圧縮する。
腰を深く落とし、身体が背後を向くほど大きく捻る。
大剣の切先は地をかすめる位置まで下げられた。
「ジ=ゲン流秘剣――流星逆流れ!」
限界まで溜め込んだ力が、一気に爆発する。
全身強化を極限まで高めたフルスイング。
振り抜かれた大剣の切先は音速を超え、
同時に膨大な魔力が刃を伝って解き放たれる。
魔力は十数メートルの巨大な斬撃となり、衝撃波と共に前方を横一線に薙ぎ払った。
斬撃が過ぎ去った後――
周囲は半径数十メートルにわたって扇状の空白地帯と化していた。
地面は抉れ、瓦礫と血煙が吹き飛ばされ、魔王軍の姿はそこにない。
だが、範囲の外側から次々と魔王軍が流れ込んでくる。
黒い影が押し寄せる波のように迫る。
ルカは大剣を構えたまま、迫り来る軍勢を睨みつけて叫んだ。
「団長殿! 一番稜奪還のため、このまま突貫します! 行けますか!」
一瞬、ガルドの動きが止まる。
だが、すぐに激しく頭を振り、正気を取り戻した。
その目には猛獣のような光が宿っている。
「もちろんでさぁ、勇者様!」
ガルドは団員たちに向かって怒鳴った。
「野郎ども! 戦乙女様の降臨だ! 極楽にイカせてくれるぞ、続けぇ!」
叫ぶや否や、ガルド自身が先頭に立って魔王軍へ駆け出す。
団員たちも雄叫びを上げ、一斉に突撃を開始した。




