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領都ミッドガルズの一番長い日2

 学園の貴族学生用サロンは、外部留学生たちでいっぱいだった。

 後方の安全な都市へ移送される――そう告げられていても、安堵よりも緊張の方が強い。

 声を潜めて言葉を交わす者もいれば、無言で窓を見つめる者もいた。


 エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンと従者ライーシャも、席に着いていた。

 整えられたサロンの空気が、かえって胸を締め付ける。

 ここだけが戦場から遠く、異様に静かだった。


 エルヴィナは手元の資料を開いた。

 レヴィアタン家の情報網からもたらされた最新の状況。

 魔王軍の大襲来――あまりにも巨大で、領都ミッドガルズの戦力では到底抗しきれない。


――その最前線に、ルカとナインが立つ。


 エルヴィナの軍人としての冷静な判断を、心が受け入れようとしない。

 理性で抑えつけても、胸の奥が軋んで痛む。

 視線が僅かに滲み、まぶたの裏が熱を帯びる。


「……っ」


 堪えようとした涙が、ほんの一瞬こぼれた。

 資料を持つ指先がわずかに震えている。


――本当は一緒に居たい。たとえ生きて帰れなくても。


 懐剣を取り出し、エルヴィナは自らの髪を一房切った。

 淡い光沢が指先を滑り落ちる。

 深く息を吸い、震えを押さえ込むようにペンダントへ髪を収めた。


「ライーシャ……お願い」


 掠れるような声だったが、そこには切実な想いがあった。


「この髪を……ナインに届けてほしいの。ご武運をって……」


 ライーシャは静かにうなずき、主の手をそっと包んだ。

 小鳥の使い魔を呼ぶと、かすかな羽音がサロンの空気を震わせる。


 エルヴィナはペンダントを強く握りしめ、瞼を閉じた。

 胸の奥の痛みが、指先まで滲んでくる。

 その痛みと共に祈りが形を取り、わずかにペンダントに光が宿った。


「……どうか、無事でいて……」


 小鳥が羽ばたき、窓から飛び去る。

 視線でその背を追いながら、エルヴィナは深く息を吐いた。


……次は必ず、貴方と共に参ります……。


 涙の痕跡を隠すように表情を整え、彼女の心は痛みに満ちたまま、それでも前を向いていた。



 *



 ユリウス・アウグラード・ラズヘルド第二王子は、退避移送を待つ間、落ち着かずソファに腰を沈め、足先でタンタンと床を叩いている。

 胸がざわざわして、呼吸まで落ち着かない。


「……ひとつ、教えて欲しい」


 声が少し上ずる。


「勇者殿、ルクレツィア嬢は……参戦するのかい?」


 傍らの護衛の剣士が視線を伏せ、淡々と答えた。


「はい。勇者殿は最前線の六稜郭に配属されるそうです」

「な……!」


 ユリウスは思わず声をあげた。

 胸の奥が急に熱くなり、言葉がうまく出てこない。


「最前線って……あんな可憐な人が……!」


 頭の中に、柔らかな微笑みや華奢な四肢がよみがえる。戦場の血煙の中で剣を振るう姿なんて想像できない――いや、想像したくなかった。


 護衛の剣士は表情ひとつ変えず言葉を続ける。


「それが――勇者の宿命です。勇者はその力を王国の為、民のために使う。勇者の性別や年齢は関係ありません」


 ユリウスは何も言えなくなった。

 心がぎゅっと締め付けられて、息が少し苦しくなる。

 胸が痛い。けれど、それが何の感情なのか自分でも、まだ分からなかった。



 *



 重厚な蝋印が押され、契約が締結された。

 辺境伯爵家からの特別緊急依頼――魔王軍大襲来への対応契約が、正式に結ばれた瞬間だった。


「……これで、ギルドとしても動けますな」


 白髪を撫でつけながら、ギルド長の老爺が息を吐く。

 その横で、副ギルド長のロイが手際よく書類を片づけていた。


 契約が終わるや否や、ミレーユは柔らかな声でロイを呼び、自然な流れで彼の前に進み出た。

 だが、その瞳は笑みを保ったまま、鋭い光を帯びていた。


「ロイさん――いえ、これは冒険者ギルドへの依頼ではございません。ミレーユ・ヴァン・シュトルムベルク個人から、白金等級冒険者ロイへの依頼ですわ」


 ロイが動きを止め、眉をわずかにひそめる。


「……内容を伺いましょう」


 ミレーユは一拍置いてから、深く息を吸った。手に持った扇子を開いて口元を隠す。


「ナインを――どのような状況でも、あらゆる手段で、生きて連れ帰っていただきたいのです。報酬は、私個人の責任でお支払いいたします」


 視線は乱れなかったが、扇子を持つ指先がわずかに震えていた。


 ロイは無言のまま、彼女を見つめる。

 やがて短く息を吐き、視線を逸らさずに応じた。


「……ゼロ(ナイン)は勇者ルクレツィア様と共に最前線へ向かいます」

「勇者の進退は総指揮官が決めるもの。そして――ゼロ(ナイン)は、ルクレツィア様の傍を離れないでしょう」


 淡々とした言葉の奥に、無言の警告があった。

 ――ルカと共に戦う限り、ナインだけを救い出すのは不可能だ。


 ミレーユは、その言葉を聞き終えるとふわりと微笑んだ。


「えぇ、承知しておりますわ」


 柔らかな声音のまま、扇子をぱちんと閉じる。


「私は先程、“あらゆる手段を使って”と申し上げました」


 左右異なる色の瞳に宿る光は、普段の穏やかな貴族令嬢のものではなかった。


「依頼遂行に必要であれば――ルクレツィア様も、ご一緒にお連れ帰りくださいませ」


 ロイは言葉を失い、息を呑む。


「承知していますわ。勇者様がどのような戦場に送られるかも、その危険さも」


 ミレーユは扇子を畳み、柔らかな笑みを浮かべた。

 まるで世間話でもしているかのような声色。しかし、その目は氷のように冷ややかだった。


「勇者は逃げられない――いいえ、逃がさなかった、ですわね」


 勇者は常に特記戦力として扱われ、最も過酷な戦場に投入されてきた。

 激戦の最前線。

 全滅必至の撤退戦での殿。

 敵の大軍を引きつける危険な囮。


 その務めに「危なくなれば退く」という選択肢はなかった。

 その結果、歴代の勇者は例外なく戦死している。

 遺骸すら戻らない者もいた。


 勇者とは――人の限界を超えた力を持つがゆえに、人としての権利を奪われた存在。

 その名には、常に死の影が寄り添っていた。


 ミレーユは淡々と、その事実を口にした。


「だからこそ、わたくしは貴方に頼んでいるのです……逃がして差し上げて」


 一見すると穏やかな微笑。だがその奥の視線は鋭く、刃のようだった。


「ナインだけではありません。ルクレツィア様も……生きて戻して」


 一瞬、空気が張り詰める。

 ミレーユの微笑は崩れず、視線だけが相手を射抜いた。


「全ての責は、私が負います」


 覚悟のこもった瞳に、ロイは返す言葉を失う。

 老爺のギルド長が二人を見守り、目を細めていた。


 ロイは短く息を吐き、肩をわずかにすくめる。


「承知しました。ただし、約束できるのは――可能な限り、というところまでです」

「……それで結構ですわ」


 ミレーユは即座に応じたが、その声にはかすかな震えがあった。

 胸元で扇子を握る指が白くなるほど力がこもる。


「私……どうしても……あの二人を、ナインを失いたくないのです……」


 普段の柔らかな笑みは消えかけ、今にも涙がこぼれそうな瞳がロイを見つめた。

 言葉を吐き出すたびに、呼吸が震える。


 ロイは一瞬だけ目を伏せ、重く頷いた。

 その様子を、ギルド長は終始無言で見守り続けていた。

 


 *



 領都の中央通りを、第一騎士団が足早に進んでいく。

 鎧の軋む音と蹄の響きが、石畳に重く反射している。


 列の先頭、白銀の鎧をまとったルクレツィアは端然と馬上にあった。

 その隣を進むのは騎馬ではなく、黒鉄の肢を持つ蜘蛛型のゴーレム。

 頭部に設けられた座席に、ナインが腰掛けている。


 やがて列は城門を抜け、領都の外へと歩を進める。

 振り返れば、城門の上に並ぶ守備兵たちの姿が見えた。

 槍を掲げ、声を張り上げ、必死に手を振っている。


 ルカは一瞬だけ手綱を緩め、振り返る。

 その表情には、決意と共に哀惜が滲む。

 唇がかすかに動いた。


「――行ってきます」


 風に溶けるような声。


 ナインは静かにその幼さを残す顔立ちに、決死の覚悟を宿した横顔を見つめ、小さく息を吸う。


「……必ず、帰ってこよう」


 二人の誓いを乗せ、騎士団の列は前へ進む。

 背後には、領都の鐘の音が遠く響いていた。


 誰かが口火を切り歌いだした。


「騎士よ、刃を掲げよ、

 我らの誓いはここにある。

 城門を越え、野を駆け、

 敵を打ち砕くその時まで」


 次第に声は広がり、皆が合唱を始めた。


「我らの盾は決して揺るがず、

 我らの剣は正義を貫く。

 仲間のため、家族のため、

 心を燃やせ、勇気を抱け」


 騎士団長エグバードも声を合わせる。


「暗き森も、深き谷も、

 我らの足跡で道となる。

 声を合わせ、蹄を鳴らせ、

 今日の戦は我らのもの」


 ルカとナインも歌い出した。


「進め、進め、騎士たちよ、

 敵の影を切り裂け。

 旗を掲げ、誓いを胸に、

 我らは一丸、決して屈せぬ」


 軍列全体が、大声で歌う。


「勇者の名に誓い、

 この血と命を、仲間のために。

 戦う心、燃え上がれ、

 我らは進む、勝利をこの手に」


 この日、魔王ヴォルム・マグナとの永い戦いの分水嶺となる、六稜郭防衛戦が幕を開けようとしていた。

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