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旅立ち①

 ――真っ暗だった。


 空も、地も、どこまでも果てなく黒く、ナインの視界には何ひとつ映らなかった。

 どこからか、かすかな泣き声が聞こえてくる。


「……っ、ひぐ……う、うぅ……」


 その声を、ナインは知っていた。誰よりも。


「ルカ……?」


 呼びかけた声は、まるで綿の壁に押し込められたようにくぐもって、すぐに掻き消えた。


 ナインは走り出した。

 足元は見えなかった。何かを踏みしめている感覚すらない。

 それでも、ただ泣き声のするほうへ――音だけを頼りに、必死に進んだ。


 どれほど走ったか分からない。ただ、すぐそこに感じるのに、決して追いつけなかった。


 声は近いのに、姿は見えない。


 やがて、漆黒の闇の中に、ぽつんと浮かぶ光が見えた。

 震える金の髪。

 うずくまり、顔を両手で覆って、泣きじゃくる小さな影――ルカが居る。


「ナイン……っ、どこ……? こわい、こわいよ……!」

「ここにいる、ルカ! 待って、今行く!」


 ナインは叫んだ。声は届かない。だが、走る足を止めなかった。


「ルカ、大丈夫だ! オレがいるから、泣くな……!」


 追いつく。必ず。

 手を伸ばす。あと少し――ほんの、指先一つ分。


 その時、ルカがふとこちらを向いた。

 涙に濡れた碧の瞳が、ナインの姿をとらえる。

 怯えと安堵が入り混じった、弱々しい笑み。


「ナイン……」


 その瞬間、闇が渦を巻いた。

 ルカの身体が、ふっと空気に溶けるように、光の粒になっていく。


「ダメだ……やめろッ! ルカァッ!!」


 ナインは両手を突き出す。全身の力を込めて。

 届かなくても、手を伸ばし続ける。諦めない。


「ルカァァァァアアア!!」


 叫びが、夢の闇を裂いた。

 その瞬間、暗闇が砕け、ナインの意識が現へと引き戻される。



 * 



 ナインは荒い息を吐きながら、汗にまみれた毛布の中で跳ね起きた。

 痛いほどに鼓動が早まり、肺が酸素を求めて喘いでいる。

 夢の中の暗闇が、まだ瞼の裏に焼き付いていた。目を開けても、しばらくそこがどこなのか分からなかった。


 天井。

 古い木組み。

 窓は開いていて、白んだ空の気配。朝なのか、夕方なのかも定かでない。


 そして、鼻に届くのは、乾いた薬草の匂いと、煙草のような苦い燻し香。

 ――家だ。薬師の家の、いつもの寝床。


「目ぇ、覚ましたかい、ナイン」


 がらがらと戸が開き、聞き慣れた、喉の枯れた声が入ってきた。

 薬師の老婆――エファだった。手には薬湯を持っている。


「……やっと生き返ったかと思えば、叫んで起きるたぁ、心臓に悪いわ。ほれ、これを飲みな」


 ナインはしばらく何も言えなかった。

 喉がひりつき、唇が乾いている。手を動かそうとして、自分の右手が包帯でぐるぐるに巻かれているのに気づく。


「……ここは……オレ……?」

「ああ、私の家だよ。三日も寝腐って、ようやっと目ぇ開いたかと思えば、馬鹿みたいに叫んで飛び起きる。あたしが看病してやった甲斐もねぇってもんだ」


 三日。


 その数字が、現実の重さを持って脳に沈んだ。

 夢では一瞬だった。けれど、現実では――三日。


「……ルカは……ルカは、どうなったの……?」


 声が震えた。身を起こそうとしたが、思うように力が入らない。

 だが、エファはそんなナインの焦りを見ても、どこかほっとしたように息をついた。


「無事さ。何ともなかった。……お前が体を張ったおかげでね。次の日にはいつも通りになったよ。……ただ、正確に言えば「何とかなった」が正しいかね。ゼルダが止めなけりゃ、お前らふたりとも、あっち側だったろうさ。今度会ったら礼を言っときなよ」


 ナインの力が抜けた。視界が滲んだのは、安心したからか。


「……ルカは、泣いてなかった?」


 ぽつりと落としたその一言に、エファの皺の深い顔がわずかに動いた。


「泣いてたよ。バカみたいに。昨日まで、お前の名前呼びながら、ずっとお前の傍から離れなかったからね。誰があの子に「しっかり者」なんて言ったんだかね」


 ナインは、しばらく黙ったまま、喉の奥に小さな塊を感じていた。


「……そう」

「そうだよ。だから、さっさと薬湯を飲みな。ちっとはマシになるだろうさ」


 促されて、ナインは薬湯をゆっくり口に含む。

 染み渡る水分が体の浮遊感をなくし、複雑に練られた薬が頭をすっきりさせていく。


 寝台の端に腰かけた老婆が、膝に置いた手をぎゅっと握る。

 エファは、ひとつ長いため息をついてから口を開いた。


「ルカの身に起きたことは、偶然でも奇跡でもないよ」


 ナインは黙って、声の主を見つめる。

 瞼の奥に残る、夢の中のルカの泣き顔が、しつこく焼きついていた。


「あの娘は、龍脈とつながったのさ」


 かすれた声が、室内の静寂をひとつ揺らした。


「……龍脈?」


 エファは頷いた。白く乱れた髪が揺れ、皺だらけの顔に陰が落ちる。


「龍脈ってのは、世界に巡る、魔力の大河だよ。大地の奥深く、空の裂け目の先にまで通じてる。星の血管とも言われている。あれとつながった者は、ただの人間じゃなくなる。超えるんだよ。人を、時には、理さえも」


 それはまるで神話のようだった。けれど、それはルカの身に起こった現実だった。


「今のルカは……天変地異をも起こせる。それだけの力を手にしたのさ。勿論、今はまだ制御はできていないがね」


 ナインの手が、布団の端をぎゅっと掴んだ。

 細い指が白くなる。


「……ルカは……どうなるの?」


 絞るように出た声は、ほとんど音にならなかった。


「今代の勇者として、今日のうちに領都に移される。もう、村には戻らない」


 静かな部屋に、ナインの体が跳ねる音が響いた。

 ばさりと毛布が落ち、足が床を蹴る。けれど、その足は支えを失い、もつれて倒れ込んだ。


 激しい音に、エファが慌てて駆け寄り、ふらつく体を抱き起こす。

 老いた手のひらが、骨ばった肩を支える。


「お前じゃ……もう、ルカに届かない。あの子は、勇者になる。特別な器に選ばれちまったんだよ」


 その言葉はやわらかく語られていた。まるで哀しみを包むように。

 けれど、ナインには、冷たい雨のように感じられた。


「……それでも……追いかける」


 ぽつりと落ちた言葉に、エファの目がわずかに見開かれた。


「……は?」

「俺は……ルカを……」


 息が切れる。声が途切れそうになる。けれど、ナインは顔を上げた。

 瞳には、焦燥と決意が、火のように揺らめいている。


「薬湯を……あるだけ。持ってきて」


 それは乞いでも、頼みでもなく、意志の発露だった。

 五歳の体に宿った大人びた精神が、今、一つの決意をした。


 エファはしばらく沈黙し、そのまま目を細めた。

 やがて、言葉もなく立ち上がり、台所へと向かった。


 そして戻ってくると、小さな木の盆に、数杯の薬湯を並べていた。


「全部飲んだら、しばらくは動ける。でも、追いかけたところで…後で必ず、後悔することになるよ」


 その忠告に、ナインは首を横に振った。


「……今追いかけなかったら、俺は一生後悔するよ」


 一言だけ言い残すと、彼は震える手で薬湯を手に取り、喉に流し込んでいく。

 苦い。えぐみと熱が、胃に燃えるように落ちていく。

 だが、それが確かに、体を動かす炎となった。


 すべてを飲み終えたナインは、カップを握ったままエファの胸に飛び込んだ。


「今まで育ててくれて……ありがとう。恩も返さず、ごめんなさい。」


 その声は、くぐもっていた。だが、胸の奥に真っ直ぐ突き刺さってくるような真摯さを持っていた。


 エファの腕が、そっとナインの背中に回る。


「気まぐれで拾っただけさ。おかげでずいぶんと人らしくさせてもらったよ……やるだけやっておいで。頑張ってきな」

「行ってきます。元気で……」


 小さな背が、彼女の腕の中からするりと抜ける。

 そして、風のように扉を開け、朝の光の中へと飛び出していった。

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