勝算
辺境伯爵の居城――重厚な石造りの廊下を抜けると、地下実験室が現れた。
無駄な装飾は一切なく、冷たい空気と沈黙が支配している。
長い作業台の前には、ゼルダ・マスターソード博士が立っていた。
淡い光を帯びる《記憶の水晶》が、彼女の傍らに並んでいる。
すでに全員が集まっていた。
ヴォルクリン・ヴァン・シュトルムベルク辺境伯、その長男ルドルフ、次男カーティス、ミレーユ、ナイン、そしてルカ。
視線は自然とゼルダへ向けられた。彼女は軽く一礼し、淡々と声を発した。
「早朝よりお集まりいただき、感謝いたします」
抑えられた声だが、よく通る響きが室内に落ちる。
誰も言葉を返さず、次の言葉を待った。
「魔王ヴォルム・マグナが眷属を統制する仕組みを解明しました。
さらに、その原理を利用し、魔王軍の指揮を乱す手段を考案しました」
室内にわずかな緊張が漂う。
淡く光る水晶が、皆の呼吸と同じリズムで瞬いているかのようだった。
ゼルダの説明は淡々としていた。
魔王ヴォルム・マグナは軍隊蟻型の魔獣を基礎として造られており、その支配は女王蟻が分泌するフェロモンによって行われる。
ゼルダは記憶の水晶の協力を得て、そのフェロモンを合成することに成功した。
理論上、これを眷属に暴露すれば、統制は崩れ混乱に陥るはずだと。
説明を終えたゼルダは、表情を変えずに告げる。
「これより、捕獲した眷属を用いて合成フェロモンの効果を検証します」
一呼吸置き、事前に伝えていた内容を確認するように言葉を重ねた。
「辺境伯爵様にもお伝えしましたが、眷属同士は情報を共有している可能性があります。この実験により、魔王軍に反応が生じるかもしれません」
ゼルダは視線をヴォルクリンへ向ける。
「ヴォルクリン様、監視状況は?」
短く息を吸ったヴォルクリンが応じる。
「監視は強化済みだ。迎撃の準備も整えてある」
その返答に、部屋の空気がさらに引き締まった。
ゼルダは小さくうなずき、「結構です」とだけ告げて操作卓に指を走らせる。
研究室中央の投影装置が起動し、別室の映像が鮮明に浮かび上がった。
鎖に繋がれた魔王の眷属が、薄暗い拘束室の中央に座り込んでいる。
「実験を開始します」
ゼルダの声は変わらず静かだ。
映像の中で、白い煙がゆっくりと眷属を包む。それが合成された魔王のフェロモンだった。
しばしの沈黙の後、眷属の体が小刻みに震え始める。挙動は急速に乱れ、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ出す。壁に何度も体当たりし、やがて自らの爪で体を裂き、地面に身を打ちつけ続けた。
狂乱は激しさを増し、やがて力尽きたように動きを止め、崩れ落ちる。
研究室には言葉がなかった。
映像が完全に消えるのを見届け、ゼルダはわずかに口元を緩める。
「……成功です」
淡々とした声に、研究者としての抑えきれない昂ぶりがわずかに滲んでいた。
彼女は周囲を見渡し、皆の反応を確かめる。
ヴォルクリンが息を吐き、低くうなずいた。
「見事だ。……これで魔王軍との戦いに道が開ける」
静かな緊張が、確かな期待へと変わっていく。
三百年に及ぶ魔王軍との戦争。多大な犠牲の末にようやく拮抗を保ってきた戦局に、初めて射す光。
ルドルフもヴォルクリンも、その昂ぶりを隠せなかった。
「合成フェロモンの生産量は?」
「散布はどうする? 戦場で即座に使えるのか?」
「効果時間は?」
次々と質問が飛び、ゼルダは一つずつ正確に答えていく。
その姿勢は冷静そのものだが、声の奥には研究者としての誇りと喜びが滲んでいた。
気がつけば討議は二時間を超えていた。ひと段落したそのとき、実験室の外から微かな騒ぎが聞こえてきた。
ざわめきは次第に大きくなり、やがて声となって響く。
「ただちに辺境伯爵様にお伝えしたい件です!」
「待て、今は重要な実験報告の最中だ!」
警護の騎士が制止するが、慌てた様子の辺境伯軍の将校は一歩も退かない。押し問答が続き、室内の空気が再び張り詰めた。
討議をしていた者たちの視線が、一斉に入口へ向かう。
押し問答が続く中、ナインが一歩前に出た。
冷静な声音でヴォルクリンに視線を送り、短く問う。
「閣下、入室を許可されますか?」
ヴォルクリンはわずかに眉を寄せ、考える間もなく頷いた。
「よい。通せ」
ナインが扉を開けると、慌ただしくしていた将校が駆け込んでくる。
重い空気の中で、彼は居住まいを正し、かかとを揃えて敬礼した。
「報告を」
ヴォルクリンの声は低く抑えられているが、その響きは部屋の隅まで届く。
将校は息を整え、姿勢を崩さぬまま言葉を発した。
「《黒巣》の観測班より緊急連絡。魔王軍が襲来……規模は“大規模襲来”とのことです」
その場にいる全員の呼吸が、一瞬だけ止まった。
将校は言葉を続ける。
「辺境伯爵様、ならびに若公子様方は、至急指令室へお越し願います」
冷たい空気がさらに重く沈み、実験室の静寂が鋭く張りつめていった。
ゼルダの手が無意識に操作卓の端を握りしめ、ルドルフとカーティスが視線を交わす。
ヴォルクリンは短く息を吐き、深い声で応じた。
「わかった。すぐ向かう」
*
魔王の支配領域の最外縁部にある観測分隊の小さな見張り所。
朝の冷たい光が砂岩の丘陵を淡く照らしている。
分隊は二名。上官は壮年の騎士家の生まれで、落ち着いた風格を漂わせていた。もう一名は十代後半の若者。兵役で従事しており、狩人だったため目が良く、観測班に配属されていた。
二人とも軽装で目立たない服装で双眼鏡を肩に掛けている。今は元狩人の若者が腹這いになり、魔王領を監視していた。
「そろそろ定時連絡だ。変わりはないか?」
騎士の男が問いかける。周囲に溶け込むように立つ姿勢には観測班らしい慎重さがあった。
一方の若者は望遠鏡を覗いたまま肩をすくめる。
「変化なーし……奴ら寝てるんじゃないですかね」
声は軽く、まるで街中にいるかのような調子だが、視線は望遠鏡から離れない。
騎士は眉を寄せて短く息を吐いた。
「何もないからって気を抜くな。特別警戒任務なんだぞ」
言葉は穏やかだが、責任感が滲む。
若者は舌打ち混じりに応じる。
「いや、ほんとに何もないって。朝からずっと退屈ですよ」
騎士は腕を組み、前方を見据えた。
「何もないことを確認するのも観測だ。お前の目は頼りにしてる、しっかり見張ってろ」
叱るというより教える様な響きだった。
騎士は通信用魔道具を起動させて定時連絡の準備を始めた。
――違和感は、気が付かない内に忍び寄っていた。
鳥の声も、虫の羽音も消えていた。丘陵でいつも耳に入るはずの雑音がない。
最初に気づいたのは若者だった。眉を寄せ、望遠鏡を握り直す。
「……なんだ?」
嫌な汗が額に浮かぶ。心臓が早鐘を打ち始める。
記憶がよぎった。森での狩り。親父の背後から気配を消して迫る魔熊。――あの時と同じだ。
あぁ、これは殺気だ。死の匂いだ。
「……おっさん、定時連絡は待ってくれ!」
次の瞬間、丘の向こうで砂煙が爆ぜた。
「来た……!」
若者の声が叫びに変わる。
双眼鏡の視界に、砂煙を巻き上げて丘陵を駆け下りる魔王の眷属の群れ、無数の蟻型の異形達が映る。
少し遅れて地面が揺れ始め、足音が遠雷のように響いてきた。砂が宙を舞い、光が遮られる。
若者が叫ぶ。
「……奴らで地面が見えねえ! とんでもねぇ数だ!」
無数の魔王軍の眷属たちが全速で迫ってくる。
「ちくしょう、まるで津波だ……」
騎士が怒鳴った。
「後方の観測班に報告する!お前は馬の準備をしろ! 報告が終わったらすぐ退避だ!」
「了解! 急げよ、おっさん!」
「おっさん言うな! 俺は上官だ!」
二人は動きを確認し、騎士が通信装置に手を伸ばす。背後では砂丘が崩れ、無数の魔王の眷属が疾走して砂煙を巻き上げていた。衝撃で岩が砕け、砂が舞う。轟音と地鳴りが体を圧迫する。
騎士が叫ぶ。
「観測分隊チャーリーから観測班アルファ! 緊急報告、魔王軍襲来! 来るぞ、奴らが来る!」
砂煙にまみれながらさらに声を張る。
「推定大規模! 繰り返す、大襲来だ! 繰り返す!大襲来だ!」
通信装置のスピーカーから、後方観測班の声が返ってきた。
「こちらアルファ、推定大規模襲来、了解。チャーリーは、直ぐに所定の地点まで退避しろ。以降、観測の継続は不要だ。逃げ切れよ、幸運を祈る!」
騎士は通信を切り、若者に目を向ける。
「逃げるぞ!」
既に馬上の若者が頷き、騎士も砂を蹴って飛び乗った。
砂粒が顔に叩きつけられ、衣服にざらつきが広がる。
轟音と地鳴りが全身を揺らし、心臓を締めつける。
二人は丘陵の斜面を全力で駆け抜ける。砂が崩れ、小石が跳ね飛ぶ中、恐怖と轟音が背後から迫っていた。




