表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/77

勝算

 辺境伯爵の居城――重厚な石造りの廊下を抜けると、地下実験室が現れた。

 無駄な装飾は一切なく、冷たい空気と沈黙が支配している。


 長い作業台の前には、ゼルダ・マスターソード博士が立っていた。

 淡い光を帯びる《記憶の水晶》が、彼女の傍らに並んでいる。


 すでに全員が集まっていた。

 ヴォルクリン・ヴァン・シュトルムベルク辺境伯、その長男ルドルフ、次男カーティス、ミレーユ、ナイン、そしてルカ。

 視線は自然とゼルダへ向けられた。彼女は軽く一礼し、淡々と声を発した。


「早朝よりお集まりいただき、感謝いたします」


 抑えられた声だが、よく通る響きが室内に落ちる。

 誰も言葉を返さず、次の言葉を待った。


「魔王ヴォルム・マグナが眷属を統制する仕組みを解明しました。

 さらに、その原理を利用し、魔王軍の指揮を乱す手段を考案しました」


 室内にわずかな緊張が漂う。

 淡く光る水晶が、皆の呼吸と同じリズムで瞬いているかのようだった。


 ゼルダの説明は淡々としていた。

 魔王ヴォルム・マグナは軍隊蟻型の魔獣を基礎として造られており、その支配は女王蟻が分泌するフェロモンによって行われる。

 ゼルダは記憶の水晶の協力を得て、そのフェロモンを合成することに成功した。

 理論上、これを眷属に暴露すれば、統制は崩れ混乱に陥るはずだと。


 説明を終えたゼルダは、表情を変えずに告げる。


「これより、捕獲した眷属を用いて合成フェロモンの効果を検証します」


 一呼吸置き、事前に伝えていた内容を確認するように言葉を重ねた。


「辺境伯爵様にもお伝えしましたが、眷属同士は情報を共有している可能性があります。この実験により、魔王軍に反応が生じるかもしれません」


 ゼルダは視線をヴォルクリンへ向ける。


「ヴォルクリン様、監視状況は?」


 短く息を吸ったヴォルクリンが応じる。


「監視は強化済みだ。迎撃の準備も整えてある」


 その返答に、部屋の空気がさらに引き締まった。

 ゼルダは小さくうなずき、「結構です」とだけ告げて操作卓に指を走らせる。


 研究室中央の投影装置が起動し、別室の映像が鮮明に浮かび上がった。

 鎖に繋がれた魔王の眷属が、薄暗い拘束室の中央に座り込んでいる。


「実験を開始します」


 ゼルダの声は変わらず静かだ。

 映像の中で、白い煙がゆっくりと眷属を包む。それが合成された魔王のフェロモンだった。


 しばしの沈黙の後、眷属の体が小刻みに震え始める。挙動は急速に乱れ、鎖を引きちぎらんばかりに暴れ出す。壁に何度も体当たりし、やがて自らの爪で体を裂き、地面に身を打ちつけ続けた。

 狂乱は激しさを増し、やがて力尽きたように動きを止め、崩れ落ちる。


 研究室には言葉がなかった。

 映像が完全に消えるのを見届け、ゼルダはわずかに口元を緩める。


「……成功です」


 淡々とした声に、研究者としての抑えきれない昂ぶりがわずかに滲んでいた。

 彼女は周囲を見渡し、皆の反応を確かめる。


 ヴォルクリンが息を吐き、低くうなずいた。


「見事だ。……これで魔王軍との戦いに道が開ける」


 静かな緊張が、確かな期待へと変わっていく。

 三百年に及ぶ魔王軍との戦争。多大な犠牲の末にようやく拮抗を保ってきた戦局に、初めて射す光。

 ルドルフもヴォルクリンも、その昂ぶりを隠せなかった。


「合成フェロモンの生産量は?」

「散布はどうする? 戦場で即座に使えるのか?」

「効果時間は?」


 次々と質問が飛び、ゼルダは一つずつ正確に答えていく。

 その姿勢は冷静そのものだが、声の奥には研究者としての誇りと喜びが滲んでいた。


 気がつけば討議は二時間を超えていた。ひと段落したそのとき、実験室の外から微かな騒ぎが聞こえてきた。


 ざわめきは次第に大きくなり、やがて声となって響く。


「ただちに辺境伯爵様にお伝えしたい件です!」

「待て、今は重要な実験報告の最中だ!」


 警護の騎士が制止するが、慌てた様子の辺境伯軍の将校は一歩も退かない。押し問答が続き、室内の空気が再び張り詰めた。

 討議をしていた者たちの視線が、一斉に入口へ向かう。


 押し問答が続く中、ナインが一歩前に出た。

 冷静な声音でヴォルクリンに視線を送り、短く問う。


「閣下、入室を許可されますか?」


 ヴォルクリンはわずかに眉を寄せ、考える間もなく頷いた。

 

「よい。通せ」


 ナインが扉を開けると、慌ただしくしていた将校が駆け込んでくる。

 重い空気の中で、彼は居住まいを正し、かかとを揃えて敬礼した。


「報告を」

 

 ヴォルクリンの声は低く抑えられているが、その響きは部屋の隅まで届く。

 将校は息を整え、姿勢を崩さぬまま言葉を発した。

 

「《黒巣》の観測班より緊急連絡。魔王軍が襲来……規模は“大規模襲来”とのことです」


 その場にいる全員の呼吸が、一瞬だけ止まった。

 将校は言葉を続ける。

 

「辺境伯爵様、ならびに若公子様方は、至急指令室へお越し願います」


 冷たい空気がさらに重く沈み、実験室の静寂が鋭く張りつめていった。

 ゼルダの手が無意識に操作卓の端を握りしめ、ルドルフとカーティスが視線を交わす。

 ヴォルクリンは短く息を吐き、深い声で応じた。


「わかった。すぐ向かう」



 *


 

 魔王の支配領域の最外縁部にある観測分隊の小さな見張り所。

 朝の冷たい光が砂岩の丘陵を淡く照らしている。


 分隊は二名。上官は壮年の騎士家の生まれで、落ち着いた風格を漂わせていた。もう一名は十代後半の若者。兵役で従事しており、狩人だったため目が良く、観測班に配属されていた。


 二人とも軽装で目立たない服装で双眼鏡を肩に掛けている。今は元狩人の若者が腹這いになり、魔王領を監視していた。


「そろそろ定時連絡だ。変わりはないか?」

 

 騎士の男が問いかける。周囲に溶け込むように立つ姿勢には観測班らしい慎重さがあった。


 一方の若者は望遠鏡を覗いたまま肩をすくめる。

 

「変化なーし……奴ら寝てるんじゃないですかね」


 声は軽く、まるで街中にいるかのような調子だが、視線は望遠鏡から離れない。

 騎士は眉を寄せて短く息を吐いた。


「何もないからって気を抜くな。特別警戒任務なんだぞ」

 

 言葉は穏やかだが、責任感が滲む。

 若者は舌打ち混じりに応じる。

 

「いや、ほんとに何もないって。朝からずっと退屈ですよ」


 騎士は腕を組み、前方を見据えた。

 

「何もないことを確認するのも観測だ。お前の目は頼りにしてる、しっかり見張ってろ」


 叱るというより教える様な響きだった。

 騎士は通信用魔道具を起動させて定時連絡の準備を始めた。


――違和感は、気が付かない内に忍び寄っていた。


 鳥の声も、虫の羽音も消えていた。丘陵でいつも耳に入るはずの雑音がない。

 最初に気づいたのは若者だった。眉を寄せ、望遠鏡を握り直す。


「……なんだ?」

 

 嫌な汗が額に浮かぶ。心臓が早鐘を打ち始める。

 記憶がよぎった。森での狩り。親父の背後から気配を消して迫る魔熊。――あの時と同じだ。

 あぁ、これは殺気だ。死の匂いだ。


「……おっさん、定時連絡は待ってくれ!」


 次の瞬間、丘の向こうで砂煙が爆ぜた。

 

「来た……!」


 若者の声が叫びに変わる。

 双眼鏡の視界に、砂煙を巻き上げて丘陵を駆け下りる魔王の眷属の群れ、無数の蟻型の異形達が映る。


 少し遅れて地面が揺れ始め、足音が遠雷のように響いてきた。砂が宙を舞い、光が遮られる。

 若者が叫ぶ。

 

「……奴らで地面が見えねえ! とんでもねぇ数だ!」


 無数の魔王軍の眷属たちが全速で迫ってくる。

 

「ちくしょう、まるで津波だ……」


 騎士が怒鳴った。

 

「後方の観測班に報告する!お前は馬の準備をしろ! 報告が終わったらすぐ退避だ!」

「了解! 急げよ、おっさん!」

「おっさん言うな! 俺は上官だ!」


 二人は動きを確認し、騎士が通信装置に手を伸ばす。背後では砂丘が崩れ、無数の魔王の眷属が疾走して砂煙を巻き上げていた。衝撃で岩が砕け、砂が舞う。轟音と地鳴りが体を圧迫する。


 騎士が叫ぶ。

 

「観測分隊チャーリーから観測班アルファ! 緊急報告、魔王軍襲来! 来るぞ、奴らが来る!」


 砂煙にまみれながらさらに声を張る。

 

「推定大規模! 繰り返す、大襲来だ! 繰り返す!大襲来だ!」


 通信装置のスピーカーから、後方観測班の声が返ってきた。

 

「こちらアルファ、推定大規模襲来、了解。チャーリーは、直ぐに所定の地点まで退避しろ。以降、観測の継続は不要だ。逃げ切れよ、幸運を祈る!」


 騎士は通信を切り、若者に目を向ける。

 

「逃げるぞ!」


 既に馬上の若者が頷き、騎士も砂を蹴って飛び乗った。

 砂粒が顔に叩きつけられ、衣服にざらつきが広がる。

 轟音と地鳴りが全身を揺らし、心臓を締めつける。


 二人は丘陵の斜面を全力で駆け抜ける。砂が崩れ、小石が跳ね飛ぶ中、恐怖と轟音が背後から迫っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ