誓約の儀-BSSな魔法使い2
春の気配がかすかに漂う頃。
城の一室は外の風を遮り、穏やかな空気に満ちていた。
ナインとルカの婚約は、王家による勇者への誓約の儀と同じ日、内密に行われた。
部屋の中央には、白い儀式用の衣をまとったルカが立っている。
膝まで落ちる柔らかな生地が、細やかな刺繍の光をわずかに返し、肩から胸元には上品なレースが縁取られていた。首元には小さな真珠の飾りがひとつ、静かに添えられている。
柔らかく波打つ金髪は光を受けて淡くきらめき、短く整えられた毛先が頬の輪郭をやさしく縁取っていた。耳元では小花の飾りがひとつ、揺れるたびに春の香りを運んでくるようだった。
頬には淡い紅が差され、瞳はいつもより鮮やかな色を帯びている。化粧は控えめだが、その分、彼女の整った顔立ちを引き立てていた。
その姿は、普段の彼女を知る者でさえ思わず息を呑むほど美しい。
ルカ自身も緊張しているのか、胸の前でそっと両手を重ね、わずかに肩を引いて立っていた。
ナインは細身で、背はルカよりおよそ十五センチほど高い。
高い背に見合った長い手足がすらりと伸び、立っているだけで目を引く。黒髪に合わせた黒を基調とする礼服は装飾を排し、引き締まった線がその体躯の鋭さを際立たせていた。襟元やボタンの留め方まで整い、全体に無駄のない印象を与えている。
正面に立ち、視線を合わせた瞬間、ナインはわずかに目を細め、照れたように微笑んだ。
立会人はエグバードとルミアの二人だけ。少し離れた場所から、黙って見守っている。
クラリス・ヴァン・ルクス司祭が二人の前に立ち、小さな聖典を開く。
その声は透き通り、言葉ひとつひとつがはっきりと響いた。
「これより、ナインとルクレツィア・ヴァン・クラウドの婚約として、神への誓約の儀を執り行います」
──静かに時が進む。
「ナイン。あなたはルクレツィア・ヴァン・クラウドを生涯の伴侶とし、いかなる時もその絆を守り抜くと、神の御前に誓いますか」
ナインは短く息を吸い、ルカを見た。
「わたくしナインは、神の御前にて、ルクレツィア・ヴァン・クラウドを将来の妻として迎え入れます。病めるときも健やかなるときも、互いを愛し、敬い、助け合い、忠実を尽くすことをここに誓います」
続いて、クラリスはルカへと視線を向けた。
「ルクレツィア・ヴァン・クラウド。あなたはナインを生涯の伴侶とし、いかなる時もその絆を守り抜くと、神の御前に誓いますか」
ルカは目を逸らさず、はっきりと声を出す。
「わたくしルクレツィアは、神の御前にて、ナインを将来の夫として迎え入れます。病めるときも健やかなるときも、互いを愛し、敬い、助け合い、忠実を尽くすことをここに誓います」
クラリスは右手を差し出し、ルカの左手を取った。
「天」と唱えて親指に触れ、
「地」と唱えて人差し指に触れ、
「神」と唱えて中指に触れる。
最後に薬指をとらえ、「永遠」と告げた。
ナインは台座から指輪を取り、誓詞を口にしながらルカの左手薬指にはめる。
「この指輪と共に、私の心をあなたに捧げます。いかなる時も、私はあなたと共にいます」
同じ手順がナインにも繰り返される。
ルカは台座から指輪を取り、誓詞を告げ、ナインの左手薬指にはめた。
「この指輪と共に、私の心をあなたに捧げます。いかなる時も、私はあなたと共にいます」
クラリスは小さく頷き、二人に向けて告げた。
「それでは──誓いの口付けを」
ナインはそっとルカの手を取り、胸の高さまで導く。
ルカはわずかに息を呑み、頬が淡く染まっていく。
「……ルカ」
低く優しい声が名を呼び、視線が絡まる。
ゆっくりと顔が近づき、唇が触れた。
その瞬間、ルカの肩が小さく震え、瞳が閉じられる。
あたたかく、やわらかな温もりが二人をつなぎ、胸の奥に甘い痺れが広がっていく。
そして──静かな光が二人を包み込んだ。
それは外からではなく、胸の奥から溢れるように生まれ、見えざる力が優しく二人を結びつけていく。
頭上で微かな鐘の音が響く。
誰かが鳴らしたのではない。それは、この世界の神だけが告げる、誓約成立のしるしだった。
ルカはナインの温もりを感じながら、胸の奥に刻まれる感覚に息を詰める。
二人の言葉も約束も、いまや神の御名のもとに封じられた。
やがて唇が離れ、ルカは名残惜しげにまぶたを開き、微笑んだ。
二人は右手を重ね、クラリスが婚約成立を宣言する。
「この誓いは、神によって認められました。この日、この時、この場に立つあなた方の約束が、永く守られるように」
短い言葉が、部屋の空気に深く刻まれる。
ルミナは胸に手を当て、エグバードは静かに目を細めた。
司祭が一歩下がると、二人は互いの手を取り合った。
春先のやわらかな光が窓から差し込み、その瞬間をそっと照らしていた。
*
春のやわらかな陽光が学園のグラウンドに降りそそいでいた。ナインとルカの内密な婚約の後、勇者の誓約の儀が始まった。
中央には、王家の紋章を掲げた白木の舞台。式典を見守る生徒や来賓のざわめきが、司会の声で静まり返る。
「勇者ルクレツィア・ヴァン・クラウド。──これより王家への誓約の儀を執り行う」
その宣言と同時に、澄んだ笛の音が流れ始めた。
舞台脇から歩み出たのは、白地に淡い紅を差した神楽装束のルカだ。誓約の為、神へ舞を奉納するのだ。
ナインとの婚約の口付けを交わしたあとのルカは──
一瞬にして、少女から淑女へと変わったようだった。
頬を染める艶やかな朱が、心に灯る炎を映し出す。
澄んだ瞳の奥にはやわらかな光が揺れ、常にナインを見つめていた。
歩くだけで、甘く胸をくすぐるような香りをまとい、ただそこに佇むだけで、誰もが息を呑んでしまうほどの艶が漂っていた。
──ルカはもう、“勇者”の少女ではない。
ひとりの女性として、その美しさを誰の目にもはっきりと刻みつけていた。
笛の音に合わせて、ルカがゆっくりと足を踏み出す。
指先は小さく揺れながらも、その揺れが消える瞬間にはぴたりと止まる。まるで空気の流れまで掴み取っているかのようだった。
袖を引く動きは速すぎず遅すぎず、肩の角度、腰の沈み、視線の流れがすべてひとつの調和をなしている。
左手を胸元に添えると、右の袖がふわりと舞い、白布の陰に彼女の横顔が淡く透けた。
歩幅は大きく取らず、それでいて舞台の端から端まで、視線を惹きつけて離さない。
膝を折るたびに裾が静かに波打ち、その細やかな揺れまでが計算されているように見えた。
首をわずかに傾ける動き一つで、見る者の心をさらう。
袖を翻す瞬間、ほんの刹那だけ手首を返し、光が白布をすべる。
そのわずかな動作が、舞全体に命を吹き込んでいた。
跳ねることも回ることもなく、ただ淡々と歩み、淡々と手を掲げているだけ──だというのに、目が離せない。
その静かな美しさは、舞というより祈りのようだった。
やがて終盤、彼女が一歩前へ進み出る。
右袖を頭上に掲げ、左手は胸の前。
足を静かに揃えた瞬間、風がすっと通り抜け、袖が高みに流れる。
まるで見えない糸に導かれるかのように、最後の型がぴたりと決まった。
終わりの型を結ぶと、笛と鼓の音がすっと止む。
ルカは深く頭を垂れ、静かにその場に佇んだ。
その舞の美しさに、誰もが息を詰めて見入っていた。
次の瞬間、場内は大きな拍手に包まれる。
喝采の中、クラリス・ヴァン・ルクス司祭が壇上へと歩み出る。
白衣の裾が床を擦る音すら、儀式の一部のように澄んで響いた。
クラリスは聖典を胸に抱き、ルカに視線を向ける。
クラリスが壇上へ上がると、その後ろに、淡い金髪の少年が続いた。
名は──ユリウス・アウグラード・ラズヘルド。王家の第二王子。
まだ十二歳ながら、その立ち居振る舞いには、すでに「王族」としての矜持が宿っていた。
後ろへ流した柔らかな金髪が光を受けて淡くきらめき、澄んだ薄青の瞳が舞台上を一瞥する。その目に怯えも遠慮もなく、まるで世界のすべてが自分を迎えるのが当然だと言わんばかりだった。
深い青を基調とした上着に銀糸の刺繍が施され、肩から胸元までを優美に縁取っている。小柄な体つきでありながら、その衣装は彼の幼さを覆い隠し、王子としての気品を引き立てていた。
「へえ、こんなに集まってるんだ」
ぽつりと漏らした声は幼さを残しつつも澄んでいて、無邪気だった。
観衆の一部が思わず微笑むのを見て、ユリウスは首をかしげ、さらににっこり笑った。
幼いあどけなさを残した顔立ちに、不思議な自信の色が差す。自分が“特別な存在”であることを疑わぬ、その仕草は、王族の血を引く者ならではのものだった。
クラリスが一歩進み出ると、ユリウスも自然にその隣へ並び立つ。
その姿は、まるで長年の儀式を見慣れた大人のように落ち着いており、周囲の視線を集めた。
クラリスの澄んだ声が、張り詰めた空気を貫いた。
「──勇者ルクレツィア・ヴァン・クラウド。神の御前において、汝が振るう力の行方、その誓いを告げよ」
ルカは胸の前でそっと両手を重ね、静かな足取りで一歩進み出る。
そしてユリウスの前で片膝をつき、顔を上げた。
春の光が舞台に差し込み、淡い金の髪をきらめかせる。
舞の余韻を纏ったままの彼女の頬は、かすかに上気して薔薇色に染まり、その潤んだ瞳は儚げに揺れていた。
ユリウスは思わず息をのむ。
──なんて、綺麗なんだ。
胸が急にどくんと鳴った。何が起きているのか、自分でもわからない。
ただ見ているだけなのに、なぜか喉が渇く。声が出せない。
「……っ」
慌てて視線を逸らそうとしたが、目が勝手にルカを追ってしまう。
耳まで真っ赤になっていくのがわかるのに、止められない。
十二歳の少年にとって、それは初めての感情だった。
胸の奥がざわざわして落ち着かない。けれど、嫌じゃない──むしろ目を離したくない。
舞台の上で、膝をついた少女の姿に、ユリウスはただ見入るしかなかった。
「──我が名はルクレツィア・ヴァン・クラウド。この身に授かりし力、神より与えられし剣を、ラズヘルド王国に捧げ奉る」
ひと呼吸置き、声がさらに深く響く。
「我が力は、王国の安寧のために振るわれる。我が剣は、王国に仇なすものを討つために抜かれ、我が盾は、王国を護るために掲げられる。」
その声音は澄みながらも重く、観る者の胸を打つ。
「我が力は決して、王国を傷つけぬ。いかなる闇に呑まれようとも、我が心はその誓いを裏切らぬ。我が剣は私欲のために抜かれることなく、我が歩みは常に王国の益となる道にあるだろう。」
舞台の上の静けさが深まり、観衆は息を呑む。
その言葉が、ただの宣言ではなく、神に刻まれる誓約であると、誰もが理解していた。
クラリスが静かに聖典を掲げ、荘重な声で告げる。
「神よ、この誓いを聞き届け、記し給え。
この勇者の剣が、御身の御心に背かぬよう、その道を照らし給え。」
次の瞬間、空気が柔らかく震えた。
淡い光が舞台の上に降り注ぎ、ルカの姿を包み込む。
それは目に見える祝福であり、神が誓いを受け入れた証だった。
ユリウス・アウグラード・ラズヘルドは、王子としての役目を果たすべく、舞台中央に進み出た。
深い青の上着に銀糸の刺繍をあしらった礼装が陽光にきらめき、その所作ひとつにも王族の品が宿る。
だが──その視線の先で膝をつくルカを見た瞬間、彼はわずかに動きを止めた。
(……女神様みたいだ…)
ほんの一瞬のこと。
頬に残る舞の紅、淡く光を映す金の髪、その澄んだ瞳がこちらを見上げて──
胸の奥がどきりと鳴る。
「殿下」
クラリスの静かな声に、ユリウスははっとして姿勢を正す。
剣を掲げる手が、ほんの少しだけ強張っているのを、自分でも意識していた。
彼は深呼吸をひとつ置き、落ち着いた声で宣言の詞を紡ぐ。
切っ先がルカの肩に触れる瞬間、その手がわずかに揺れたが──すぐに持ち直し、最後まで礼を崩さなかった。
誓約の儀を終えると、ユリウスは小さく息を吐く。
その顔には王子としての威厳があったが、その奥にだけ、まだ十二歳の少年らしい初めて異性を意識した、戸惑いの色がわずかに残っていた。
*
――舞台の上で、ルカが誓いの言葉を紡ぐ。
春の光が衣装の白を透かし、その横顔をほのかに照らしていた。
観客席のナインは、視線を逸らさずにその姿を追っていたが――ふと、壇上に並ぶユリウスの表情に気づく。
少年の薄青の瞳が、ただ一心にルカへ向けられている。
憧れとも、崇拝ともつかないまなざし。その純粋さが、かえって胸をざわつかせた。
(……目を離せないのは、俺だけじゃないか)
ナインは呼吸を整え、無表情を保つ。
嫉妬は胸の奥に沈めて、表には出さない。
それでも、心の奥でかすかな不安が波紋のように広がっていく。
あのまなざしが、彼女の胸に届く日が来るのだろうか――。
舞台の上の誓いの言葉が静かに響くたび、ナインは視線を逸らさぬまま、胸の奥に冷たい影を落とす感覚を振り払おうとしていた。
まるで、自分の知らぬ未来を先に見せられたかのような、落ち着かない予感を振り払う様に、ナインはかぶりを振った。
(大丈夫。俺が先に好きだったんだから)




