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婚約

 ルカの肩が震え、涙をこぼしたその瞬間——ルミアはそっと両腕を伸ばし、娘を包み込むように抱き寄せた。


「……今まで、よく頑張りましたね」


 耳元で囁かれる声は、春の陽だまりのように柔らかく温かい。ルミアはルカの背をゆっくりと撫でながら、ただ優しく言葉を紡いだ。


「私たちこそ……あなたに全部背負わせてしまって、ごめんなさい」


 胸元で震えるルカを抱き締めたまま、そっと額に口づける。その仕草は深い慈しみに満ち、母としての愛情が滲み出ていた。


「ナインとの婚約のこと……分かりました」


 ルカの頬を両手で支え、涙で潤んだ瞳を優しく見つめる。


「後のことは、私と夫に任せておきなさい。もう……あなたひとりで苦しまなくていいのですよ」


 その口調は、壊れてしまいそうな少女をあやすように、丁寧で穏やかだった。ルミアのまなざしは限りなく優しく、深い慈愛が、静かに溢れる。


 抱き寄せられたルカは震える指でルミアの服を掴み、肩を震わせた。母に包まれた温もりの中で、張り詰めていた心がようやくほどけ、静かに嗚咽を漏らす。



 


 ルカの涙がようやく収まった頃、エグバードがゆっくりと口を開いた。


「……ルクレツィアとナインの婚約を、認めよう」


 その一言に、ルカは息を呑み、顔を上げた。ルミアもまた、夫の視線をしっかりと受け止めている。


 エグバードの目が、真正面からナインを捉えた。そこには、父としての問いが込められていた。


「ナイン。お前が言っていた“非公式の婚約”について——その考えを、ここで我々に話してもらえないか」


 ナインは一度深く息を吸い、姿勢を正した。そして、ルカ、ルミア、エグバードの三人を順に見つめ、言葉を選ぶようにゆっくりと語りはじめる。





 この世界において、「正式な」貴族の婚姻は、家門間の契約であった。

 婚約は、王権の承認が必要な場合を除き、各貴族家同士の交渉によって進められる。


 まず、家同士が縁談に同意するための交渉が非公式に行われる。

 対象となるのは主に、適齢期の子女を持つ家であり、双方の家格、領地、忠誠先(王や領主)、持参金の額が比較される。

 ラズヘルド王国の貴族は基本的に王家に忠誠を誓う封臣であるため、特に高位貴族同士の婚約には王の承認が必要であった。


 両家の交渉がまとまると、婚約契約書が作成される。

 この文書は、古代語で記され、両家の当主の氏名と爵位、婚約者の名前、生年、親の名、花嫁の持参金と支払い条件、花婿側が提供する持参物、婚礼の日付の目安(ただし変更されることが多い)、王国法に基づく婚姻の妥当性の確認、契約違反時の賠償規定等が含まれる。

 契約の文面には、公証人や聖職者の証明が含まれることが一般的である。この文書は、各家の印章を用いて封印され、二通作成し、各家が一通ずつ保管された。





 ナインは一歩前へ進み、深く頭を下げた。そして、正面にいる三人の顔を順に見つめる。


「エグバード様、ルミア様……ルカとの婚約をお許しいただき、心より感謝いたします。本来であれば、王家の正式な承認を得たうえで、正式な婚約契約を交わすべきところです。

 しかし今回は、それが叶いません。本当に申し訳ありません」


 淡々とした声音の奥に、悔しさと無力さが滲んでいた。言葉を終えると、ナインは一度ルカへ視線を向け、それを静かに戻す。


「……結婚の口約束だけでは、きっとルカの不安は拭えないと思うのです」


 短く息を整え、伏せたまぶたを上げる。瞳には、揺るがぬ決意が宿っていた。


「だから——ルカとの結婚の誓いを形にするため、“神への誓約の儀”を行おうと考えています」


 ルカが息を呑み、目を見開く。ルミアとエグバードもまた、その言葉を逃さぬよう耳を傾けていた。





 この世界には、異次元の存在が介入することがある。

 龍脈などもその一種とされているが、最も一般的なものが「神」と呼ばれる存在たちによる介入である。


 「神聖魔法」は、「神」が世界に介入できるように開発された技術で、魔術体系の中で詠唱魔法に分類される。

 その最大の特徴は、術者が自ら魔力を操作するのではなく、「神」などの異次元存在に祈り(詠唱)と魔力を捧げ、返礼として力を授かるという“間接型”の詠唱魔法であるという点だ。


 さらに神聖魔法には、他の詠唱魔法には見られないもうひとつの大きな特徴がある。

 それは、術者自身が「制約」を自らに課すことである。

 たとえば、「酒を一切飲まない」「贅沢な暮らしをしない」「戦場では必ず先陣を切る」など。

 こうした制約を「神」に「誓約」し実行することで、より強い魔法の行使ができるのだ。制約が重ければ重いほど、発動される魔法の力も増すため、「制約」は魔力に変わる「供物」のようなものと考えられている。

 



 

 ──“神への誓約の儀”。


 それは、この世界において、ただの儀式ではない。

 神の御前で交わされた誓いは、儀式が終わった瞬間から、確実な“強制力”を持つ。


 その誓いは、年月が流れ、心が変わり果てようとも、背くことは許されない。

 破れば、神の加護は剥がれ、定められた罰が淡々と下される。


 ──人生は長い。

 人の心は移ろい、価値観も関係も、永遠に同じ形を保つとは限らない。

 いつか想いはすれ違い、道は分かたれるかもしれない。

 だからこそ、一時の誓いで未来のすべてを縛ることには、計り知れない重さが伴う。


 ゆえに、この世界で婚約で”神への誓約の儀”を行う者は、ほとんどいない。

 それは、誰もが心の奥底で恐れている——取り返しのつかない約束になり得るからだ。


 神の祝福も罰も、そこに情けを挟むことはない。すべては、淡々と下される。

 だから、この儀式を軽々しく口にする者はいない。


 ──ナインの言葉は、そうした常識を越えた、覚悟の証だった。


 ナインは説明を終えると、ふっと息を吐き、ルカの方へ視線を向けた。

 口元に、わずかに苦笑が浮かぶ。


「……まあ、ちょっと重い話になりましたけど……誓約を受けるかどうかは、俺一人で決めることじゃありません。もし、ルカがよかったら……なんだけど…」


 最後の言葉を少し自信無さそうに濁すと、ルカは目を瞬き、そして、ふいに頬が赤く染まる。


「……よかったらって……そんなの……」

 

 声が小さくなる。けれど、その表情に嬉しさは隠しきれない。


「…はい……私も、そうしたいです」


 言い切ったその瞬間、自分でも照れが込み上げたのか、視線を逸らし、手を胸の前でぎゅっと握りしめる。


 ナインは目を丸くし、それから肩を落として小さく笑った。

 

「……なんだ、あっさりだな」

「だ、だって……ナインとなら……」

 

 そこまで言って、ルカはますます顔を赤くし、言葉を飲み込む。


 ルミアは口元に手を当て、微笑ましそうにその様子を眺め、エグバードは小さく咳払いをして視線を逸らしていた。

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