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将来

 カーテンの隙間から、夜の帳が屋敷に入り込みはじめていた。外では、秋の虫が静かに声を重ねている。応接室には灯火がひとつ。やわらかな明かりが、穏やかに室内を照らしていた。


 エグバードは椅子に腰を下ろし、重ねた両手を机の上に置いている。

 その体躯は、岩を組み上げたようでありながら、今は威圧とは無縁だった。彼の琥珀色の瞳が、落ち着いた光をたたえたまま、目の前の二人を静かに見つめている。


 ナインは、ルカの隣に座っていた。

 先月、ルカ――ルクレツィアは、魔導学園の三年生に進級した。三年制の学園ゆえ、卒業まで残された時間は一年足らず。今夜、この部屋に流れている空気は、いつものそれとはわずかに異なっていた。


「話がある」


 エグバードがゆっくりと口を開いた。

 その声は低く落ち着いており、聞く者の内側に穏やかに広がっていくような静けさがあった。

 エグバードはゆるやかに姿勢を正し、ルカとナインへと視線を向けた。


「王家の命により、勇者に対して《誓約の儀》が執り行われることとなった」


 その言葉を受けて、ルカの肩がわずかに動く。

 ナインも、表情を崩すことなく、ごく微細な変化を見せていた。


 誓約の儀――

 名目上は、勇者が神の加護を得るために誓いを立てる神聖な儀式である。


 だが、その背景には歴史がある。

 かつて、二代目勇者が王命に背き、己の力を思うままに振るったことで、王国は混乱に沈んだ。

 制御不能な力は、やがて暴威となり、勇者を止めるために多くの犠牲が払われた。

 この出来事を経て、勇者という存在に枷を課す制度として定められたのが、この誓約の儀であった。


 勇者は、王家に対し神の名のもとに誓約を立てる。

 王命には背かず、自己判断での行動を控えること。

 それが、龍脈という強大な力を持つ者に与えられた拘束だった。


 神という高位存在に対する誓いは、いかに勇者であっても破れない。

 以降、歴代の勇者は王命に従い、国の特記戦力として戦場に立ち続けた。

 その結果、いかに過酷な戦況であろうと命令を拒むことなく、歴代の勇者は全員が戦死していた。


 一方で、この誓約はただの拘束ではなかった。

 誓約を結ぶことで、魔物や王家に敵対する存在に対する戦闘時には、勇者の力は神の加護によって増幅される。

 誓約により課せられる制限が重いほど、得られる加護も強くなる事が知られている。


 誓約の儀とは、王国の平穏を守るために設けられた制度であると同時に、勇者にとっては王家の奴隷となる証でもあった。


 ルカは唇を軽く噛み、息を整えるように目を伏せる。

 ナインは視線を逸らさず、次の言葉を待っていた。

 エグバードは口調を変えず、続ける。


「……あまりに重すぎる誓約とならぬよう、誓詞の作成はルクス司祭に依頼してある」


 その名を聞いた瞬間、ナインの目がわずかに細められる。

 ルカの胸にも、安堵のようなものが差したが、それだけでは緊張を緩めるには足りなかった。


「そして……儀式における王家の立会人は、今年学園に入学した第二王子が務めるそうだ」

「……わかりました。勇者として、クラウド男爵家の娘として、儀式を滞りなく執り行います」


 ルカはかすかに視線を落とし、泣き笑いのような表情を浮かべて頷いた。

 ナインの横顔に、わずかな陰が落ちていた。


 エグバードは一度、瞼を伏せると、ゆっくりと言葉を選ぶようにしてルカへ向き直った。

 先ほどまでの男爵としての厳格な口調は、そこにはなかった。


「……ルクレツィア。お前は私の娘だ。たとえ血が繋がっておらずとも、その思いに違いはない」


 ルカは、ふいに顔を上げた。

 その瞳に浮かんだものに気づきながら、エグバードは続ける。


「王家の命が、時に理を外れるものであることは、私も承知している。もし、今後お前にとってあまりにも理不尽な命が下されるようなことがあれば……私は、義父として、お前を守る」


 その声音は変わらず穏やかだったが、語られる意志は揺るぎなかった。

 ルカはかすかに唇を引き結ぶと、黙ってうなずいた。


 エグバードは、今度は隣に座るナインに目を向ける。


「……ゼロ、私はお前を信頼している。どうか、この娘を頼む」


 ナイン(ゼロ)は深く頭を下げた。

 エグバードは、一息ついて話題をかえた。

 

「次に、卒業後のことだ。ルクレツィア、お前の進路については、すでにおおよその方向が定まっている。勇者として辺境伯軍に入隊し、対魔王戦に参加することが決まっている。だが、ゼロのことについては、話し合っておきたいことがある」


 ナインが、わずかに息を吸い込む。

 エグバードの視線が、真正面から彼を捉えていた。


「まず、一つ目だ。ゼロ、お前を奴隷から解放する手続きを進めたい。自由民として、辺境伯軍に入隊してもらう」


 言葉を一つひとつ、丁寧に重ねながら、エグバードは続ける。


「今、軍内では勇者に関する運用方針が再検討されている。

 お前の立場についても調整中だが、現時点ではルクレツィアの個人副官として従軍させる方向で進んでいる。

 これは私の一存によるものではない。これまでお前がこの地で果たしてきた働きを評価した上での判断だ。そして何より、今後の活躍に対する期待がある」


「過分なお言葉を賜り、誠にありがとうございます。入隊後は、一層励む所存です」


 ナインは姿勢を正し、真摯な礼を添えた。

 その様子に、ルカがわずかに目を向ける。


 エグバードは、言葉を継いだ。


「そして、もう一つ……これは、まだ決定ではない。打診の段階にすぎないが」


 語尾が落ち着くまでの間に、わずかな沈黙が挟まれた。言葉を選んでいるのが伝わる。


「レヴィアタン名誉男爵家から、内々に連絡があった。お前を、あの家の長女――エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンの婿養子として迎えたい、との意向だ」


 その一言が置かれたとたん、応接室の空気が変わった。

 ナインは目を見開き、ルカは顔をわずかに伏せる。


「お前の持つ資質と、これまでの実績。

 そして何より、先日の白鯨事件における働きを見てのことだろう」


 エグバードは二人に視線を向けた。


「だが、ゼロ、ルクレツィア。どうするかは、まずお前たち自身がどう考えているかによる。

 最初に、それを聞かせてほしい」


 エグバードは椅子にもたれた。

 その瞬間、巨躯の重みを受け椅子がわずかに軋む。まっすぐにナインを見つめる。琥珀色の視線は、養い育ててきた娘を見守る父親としての眼差しだった。


 ナインは膝の上で指を組み直した。

 視線は逸れず、揺れもなかった。数秒の呼吸を置いて、言葉を発した。


「……俺は、ルカと結婚して、添い遂げたいと考えています」


 ナインらしく、言葉は簡潔でまっすぐだった。ルカの方は見なかったが、その声音には一切の迷いがなかった。


「ルカが魔導学園を卒業したあと、三年以内に魔王を討ち果たします。それを、今ここで誓います」


 エグバードは表情を変えず、ナインの言葉をそのまま受け取っていた。

 ナインは続ける。


「魔王を倒したとき、もう一度、ルカとの結婚についてお願い致します。そのとき、改めてご判断ください。

 ……だから今は、誰とも婚約を結ぶつもりはありません」


 口調に強さはなかったが、言葉の奥には固い覚悟が宿っていた。

 ナインが見ているのは、一つの未来だけだった。そこに他の選択肢は存在せず、今この瞬間の発言は、誓いだった。


 エグバードは一度まぶたを閉じ、それからゆっくりとナインを見つめた。言葉を整えるように、ひとつ呼吸を置いてから、口を開く。


「……つまり、お前の言いたいことは、こういうことか」


 三百年以上にわたり人類を脅かしてきた魔王を、自らの手で討つと宣言したナインに向かって、エグバードは言葉を続ける。


「魔王を倒せば、勇者という役目は終わる。だから、たとえ勇者が力の一部失うことになっても、その時にはルクレツィアとの結婚を認めてほしい――そういうことだな」


 それは問いかけではなく、確認だった。

 エグバードは、この男にしては珍しく、深く背もたれへと身を預けた。


 エグバードはわずかに身を起こし、ナインをまっすぐに見据えた。琥珀の瞳が、強い光を湛えている。


「……本気で、できると思っているのか」


 その声には、怒りも嘲りも含まれていなかった。ただ、騎士として、そして団長として、長く魔王と戦ってきた者の実感が、言葉の奥に滲んでいた。


「三百年だ。誰も、なし得なかったことだぞ」


 それは問いというにはあまりに静かで、重すぎる言葉だった。


 ナインは目を逸らすことなく、真正面からその問いを受け止める。

 一拍の間を置いて、短く答えた。


「勝算はあります」


 その一言に、飾るものはなかった。

 理想でも願望でもない。積み重ねた計算と、それを実行に移すだけの覚悟の発露だった。


 短い沈黙のあと、ルカが口を開いた。


「……私は、エルヴィナ様との婚約の話を進めても……いいと思う」


 その声には、わずかな震えがあった。

 言い切ろうとする意志の奥に、抑えきれない感情が重なっていた。


 エグバードがそっと視線を向ける。

 ナインはその場で動けず、息を呑んだ。


「ルカ……」


 驚きに満ちた声が漏れる。

 目を見開いたまま、ナインはその言葉を正面から受け止めようとしていた。


 ルカは、感情を抑えようとするように、唇をわずかに引き結んでいた。表情には揺らぎがある。それでも、顔を逸らすことなく前を見据えている。


 まなざしの奥には、抑えきれない嫉妬がわずかに滲んでいた。だが、それを誰にも悟らせまいと、懸命に押し込めていた。


 やがて、ルカは視線を落とし、それからもう一度、ナインを見つめ直す。

 言葉を継ぐまでに、わずかな間があった。


「……あのね、ナイン。このお話は、私……エルヴィナ様から直接、聞いたの」


 その声には穏やかさが宿っていたが、内側に苦しさが混じっていた。言葉を整えようとする姿は平静に見えたが、感情はおさまってはいなかった。


 ナインは、言葉を返せなかった。ただ、ルカの声に耳を傾けていた。

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