記憶の水晶との対話
ミレーユ・ヴァン・シュトルムベルクの研究日誌より
題目:《記憶の水晶》との接触・調査記録
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記録日:第一日
先日、十二代前の当主アルトゥール・ヴァン・シュトルムが遺した《記憶の水晶》に、残留記憶の兆候が確認された。
これを受け、正式に情報収集のための調査班が編成された。構成員は、わたし──ミレーユ・ヴァン・シュトルムベルク。兄のカーティス・ヴァン・シュトルムベルク。そして、ルクレツィア・ヴァン・クラウド男爵令嬢に仕える専属戦闘奴隷、ゼロ。
《記憶の水晶》は、シュトルムベルク家に代々伝わる家宝であり、その扱いには細心の注意が求められる。
よって、調査員の人数は最小限に抑えられた。
本日より、記憶体との本格的な接触を開始した。
まずは試験として、基本的な三つの問いを与えた。
「魔王とは何か」「どこから来たのか」「なぜ出現したのか」
抽象的な質問にもかかわらず、《記憶の水晶》は明確な文脈を保ちつつ応答を返した。その返答の内容は、まるで知性体のようであった。
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記録日:第五日
本日は、錬金術・魔法学・ホムンクルス製造・戦史──複数の学問領域にまたがる内容で《記憶の水晶》との対話を行った。
「魔王はどのように作られたのか」「当時の当主はどのように戦ったのか」
具体的な質問に対しても、《記憶の水晶》は複数の知識を統合し、体系的な応答を示した。
それは、過去の知を検索し、組み合わせ、整然と再構成する行為のようだった。
記憶の水晶は生きた存在ではない。だが、問いかけに応じ続けるその姿は、記録装置を超えた“思考”のようにも見える。
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記録日:第十七日
本日より《記憶の水晶》の応答の検証を、開始した。
古文書に記された記録を照合しつつ、
「魔王のベースとなった生物は何か」「創造に用いられた培養液の成分は」──
といった質問を設計し、応答した内容を精査した。
結果、記憶体は古文書と一致する内容を提示したうえで、独自の補足を加えてきた。
その補足は、まるで長く沈黙していた知が、自ら再構築を試みているかのようだった。
また、「魔王を倒すにはどうすればよいか」という実践的な問いに対しても、記憶の水晶は魔獣生体学と錬金術理論の双方から論理を組み立て、整合の取れた回答を示した。
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記録日:第七十二日
本日より、ゼロの提案により、記憶の水晶への“学習”実験を開始した。
この記憶体に残された情報は、およそ三百年前の時点で途絶えており、それ以降の知識は存在しない。そのため、回答も旧時代の理論に基づいている。
魔王に関する知識の更新は急務である。
新たな情報を段階的に提供し、記憶体の応答精度を高めることで、対魔王戦に資する知見が得られるかもしれない。
我々は今後、対象の学習能力と応答性の変化を継続的に観察する。
──それは、古の知が再び目覚め、我らと共に考え始める瞬間を見届ける試みでもある。
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雪解けの水が岩肌をつたって流れ、小さなせせらぎを作っていた。
まだ冷たさを残す風のなかに、かすかに芽吹きの香りが混じりはじめている。
城の地下深く。記憶の水晶を保管する宝物庫の一角に設けられた実験室で、半年に及んだ調査はひとつの節目を迎えていた。
魔力波を安定的に抽出し、それを言語へと変換する――会話装置の完成によって、ついに《記憶の水晶》に宿るアルトゥールの記憶との、常時対話が可能となった。
魔王の生態。眷族の生成法。かつて繰り広げられた戦争の記録。記憶の水晶から得られた情報は多岐に渡っていた。
これからは、記憶の底に蓄えられた情報と、新たに学習された知識が融合する事で、魔王の研究は更なる発展を遂げるだろう。
だが、ナインはこの日をもって、調査チームを離れる。
《禁門・外典》の読解方法が確立され、そちらへ専念する為だった。
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以前ナインは、ライーシャの支配下にある猿型の魔物――低位の魔族の一体を通じて、禁書に刻まれた異界の情報を読み取らせていた。
しかしその際、ナイン自身がその情報を直接閲覧し、精神汚染を被った経緯があった。
それを踏まえ、今回は異なる手法が選ばれた。
ナインは自らの脳内に仮想領域を構築し、その内部に別人格を設定。
禁書の情報は、主人格ではなく、その別人格に受け止めさせるかたちをとった。さらに、主人格との接続はナインからの一方向通信に制限されており、情報の逆流――すなわち精神汚染の伝播の遮断を図った。
結果として、ナイン本人は精神汚染の影響を受けることなく、必要な情報だけを抽出することが可能となった。
ただし、その代償は小さくなかった。
脳内仮想領域内に設定された別人格による読解は、重ねる度に脳に負荷を蓄積していった。限界を超えると仮想領域は崩壊し、内部の別人格は消滅する。その際、脳組織の一部も局所的に損傷を受ける。
直後から、ナインの脳内に寄生する魔法生命体――ニューロアメーバが活動を開始する。損傷した神経構造の再構築が始まり、やがて機能は回復に向かう。
しかしその過程で、ナインは激しい頭痛に見舞われることとなり、読解には時間がかかっていた。
精神汚染を避けつつ、知識を積み上げていく方法。時間はかかるが、読解が進む事で《黒扉》の性能を、確実に進化させていた。
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光の乏しい室内に、カーティスとミレーユの二人の声が響いていた。
この半年を共に過ごした双子が、ナインのもとへと歩み寄ってくる。
「……君のおかげで、ここまで来られたよ」
カーティスが口を開いた。
その声音には、穏やかな敬意がにじんでいた。
記憶の水晶との対話には、ある種の技術が必要だった。
問いかけの順序、語彙の選定、文脈の構築。それらを最適化し、的確に意図を伝える手法──前世の知識で言えば、プロンプトエンジニアリングと呼ばれる技術が応用できた。
ナインは、前世の記憶を活かし、いち早くその対話を進める為の要点を把握した。《記憶の水晶》に宿る知識との接し方を整理し、体系的にまとめることで、調査に大きく貢献していた。
さらに、ナインは重要な事実にも気付いていた。《記憶の水晶》が返す答えは、三百年前の情報に基づいている。
つまり、その知見は過去のものであり、現代の知識とは乖離している可能性があった。
そのためナインは、現代の論文や研究資料を水晶へ入力する方法を模索し、確立に成功した。
過去と現在を繋ぐ試み。
それにより、水晶の知性は古の記憶だけでなく、新たな知識にも対応しはじめていた。
「君がいたから、水晶に宿った記憶を共有できた。きっと、魔王への策も見出してみせる。……感謝してる」
ナインは無言のまま、静かにうなずいた。
「ありがとう、ゼロ」
ミレーユも柔らかく微笑んだ。
彼女の手が袖越しにナインの腕へと触れ、軽く叩く。
「この半年、とても刺激的でした。誰かと、共通の目的を持って作業するなんて、私には初めてのことでした。楽しかったです」
まっすぐに向けられた彼女の二色の瞳は、きらきらと澄んでいた。
「《禁門・外典》の読解も大切でしょうけれど、どうかご自愛くださいませ」
その言葉のあと、ミレーユはそっと笑った。表情に浮かんだ笑みは、名残惜しさを含んでいた。
*
会話が一段落した頃、硬質な足音が廊下の奥からこちらへと向かってきた。
ナインが顔を上げる。視界に入ったのは、唐紅色の髪だった。魔力灯の淡い光を反射しながら、波打つ髪が背へと流れている。唇には濃い色の紅を乗せ、微かに香水の香りをまとった女。
細身の黒衣に身を包み、隙間からのぞく指先には、髪と同じ色が丁寧に塗られていた。
ゼルダ・マスターソード。
魔法生物研究の第一人者にして、希代の魔女。
かつてナインの“所有者”であり、彼の身体に幾多の改造手術を施した人物だった。
「ずいぶん、背が伸びたわね――ゼロ」
声は以前と変わらない。
湿った絹をなぞるような、低く滑らかな響き。甘さを湛えながらも、どこか冷めた響きがあった。
ナイン(ゼロ)は、わずかに口元を引き結ぶ。
「……お久しぶりです、ゼルダ様。成長期ですので」
「もう十四歳だったわね。私より背が高いじゃない。そうね……百七十五センチくらいかしら。
元気そうで何より。けれど、思ったより線が細いわ。ちゃんと食べてる? お前は昔から――」
その視線が、ナインの後ろに立つカーティスとミレーユへ向けられた。
ゼルダは肩をひとつすくめ、ナインとの会話を切りながら、カーティスに一礼した。
「ご無沙汰しております、シュトルムベルク家の若公子様、この度はお声かけ誠にありがとうございました」
挨拶を交わしたゼルダに対し、カーティスが説明を添える。
「マスターソード師には、これから記憶の水晶と、対魔王戦に関する研究をお願いするつもりです」
「貴重な機会をいただき、大変光栄に存じます、カーティス様」
ゼルダが一礼し、穏やかに続けた。
「伝説のシュトルムベルクのホムンクルスマイスターの記憶と対話できるなんて、夢のようなお話ですわ。年甲斐もなく、胸が高鳴ります」
ゼルダの眼が、研究者のものになる。
魔王を倒すために、過去の賢者と、今を生きる魔女が交差しようとしていた。




