過去からの声
カーティスは、ナイン(ゼロ)に問いかけた。
「……ゼロ。どうして“記憶の水晶”を見たいと思った?」
疑念よりも確認の色が強い。
ナインは言葉を選ぶように指先を組み、ゆっくりと口を開いた。
「……俺が不思議に思ったのは、魔王のシュトルムベルクへの執着です」
カーティスの表情が、わずかに変化する。
「今回、戦術的に見れば、あの魔王の勇者は特攻でした。
極めて貴重な戦力を単独で、回収不能になる可能性が高い敵地に送り込んでいた。明確に“使い捨てる”意図があったと考えるのが自然です」
ナインは、淡々と続ける。
「なぜ、そこまでしてシュトルムベルクの血筋を狙うのか。……戦略目標が、一家系に向けられている。その異常さが、どうしても引っかかります」
沈黙が、再び室内に満ちる。
「一つの仮説として――記憶の水晶に、魔王が恐れている何かが秘められている可能性を考えました。アルトゥール様に関する何か。あるいは、魔王と彼の因縁に関わる記録が」
ナインは、正面からカーティスの視線を受け止める。
「確証はありません。しかし記憶の水晶にその手がかりがあるのなら……たとえわずかでも、今後の備えになり得ます。
だから、見せていただきたいのです」
しばしの沈黙のあと、カーティスは肩を竦めるようにして立ち上がった。いつもの丁寧な物腰ではなく、迷いのない動きだった。
「――なら、今から見に行こうか。君とルクレツィア嬢が同行するくらい問題ない
さらりとした口調だったが、その言葉には、彼なりの信頼と応答の意志が込められていた。
ナインとルカが同時に目を見開いた。
「……今から、ですか?」
ナインが確認するように問うと、カーティスは軽く笑ってみせた。
「何、ルクレツィア嬢は”勇者様”だろう? 勇者様の依頼なら、問題はないさ」
からかうような響きではあったが、拒絶や皮肉は一切なかった。
ナインは頷いた。
「……お願いします」
「任せてくれ。保管庫はこの城の地下だ。すぐに案内しよう」
そう言って、カーティスは扉のほうへと歩み出す。
扉が開かれるその先に、アルトゥールの記憶が、ひっそりと眠っている。
*
城の地下――。
厚く閉ざされた鉄扉をいくつも越えた先、重い結界の張られた宝物庫の奥まった一角に、それはあった。
記憶の水晶。
人の頭ほどの大きさを持つその結晶は、虹色の光を内に湛え、穏やかに輝いていた。
灯りがなくとも、暗がりの中に淡い光を落とし、周囲の空気までも清めるような、静かな存在感を放っている。
カーティスが、慎重な手つきで水晶の前に立ち、結界の鍵を解除する。柔らかな光が漏れ、静かに、何かが目覚める気配がした。
「……これが、アルトゥール様の記憶を封じた水晶だ。戦火を逃れ、今日まで継承されてきたものだよ」
そう言って一歩退くと、ナインとルカがそっと歩み寄る。ナインは指先でそっと水晶に触れた。ほんのりと、温かかった。
ただの鉱石にはない、生命のようなぬくもりが、ゆっくりと指先に伝わってくる。
ナインは目を細め、じっと水晶の波動に意識を傾けた。
……すぐに、異変に気づく。
――規則的な魔力波。
触れた瞬間から、明確に感じ取れた。
それは不規則に脈動する魔力ではなく、整った波形をもって、周囲へとごく微細に放たれている。
(……音だ)
ナインの耳に、それははっきりとした“音”として届いていた。
空気を振動させているわけではない。
鼓膜ではなく、魔力調整に使っているナインの角に共鳴するように響いていた。
ゆるやかな一定のリズムで、水晶が“歌って”いるようだった。
「ナイン?」
隣で見ていたルカが、彼の横顔に問いを含めて呼びかける。
ナインはしばらく黙っていたが、やがて唇を動かした。
「……この水晶、規則的な魔力波を出しています。俺には、それが……“ラ、ラ”っていう、音みたいに聞こえる」
カーティスが小さく目を見開いた。
「音? この水晶が……?」
「ええ。音ではないです。あえて言うなら、魔力が周囲に向けて発している共鳴波でしょうか。
俺の角に直接響いていて、それが俺には音のように聞こえるんです」
ナインの手は、なおもそっと水晶に触れたまま。
指先から、ゆるやかに魔力を送る。水晶の波と、自身の波を重ねるようにして。
「……カーティス様。この水晶、今はごく弱い波でしか魔力を放っていません。けれど、少し魔力を注いで、波を増幅してみてもいいでしょうか?」
ナインは、そっと手を引いた。
指先に残る、淡い温もりを確かめるように一度まばたきをしてから、静かにカーティスの方を向いた。
「危険はあるのか?」
カーティスが、やや声を低くして問う。
ナインは短く首を振った。
「多分大丈夫でしょう。
これは……外に向けて“何か”を伝えようとしている。少し、読み取れるかもしれません」
「わかった。やってくれ」
カーティスが言葉を終えると、ナインはゆっくりと、魔力を水晶に流し込んでいく。
ナインの制御する魔力は、非常に繊細だ。波の位相と周期を少しずつ調整しながら、あたかも耳を澄ませるように、同調していく。
……その瞬間だった。
結晶の内部に、微細な色の変化が現れた。
虹色の揺らぎが、わずかに深まり、次の瞬間――。
「……さま……」「……られ……ては……ぬ……」
「……王の……ち……し……」
断片的な“言葉”が、確かに聞こえた。
誰のものとも知れぬ、男の声。
それは直接耳で聞く音ではなく、意識の奥底にじんわりと沁み込むような感覚だった。
「今……何か、言葉が……」
ルカが小さく息を呑む。
カーティスも目を見開いている。
ナインは、目を閉じたまま静かにうなずいた。
「間違いなく、“伝えようとしている”意志があります。ですが、意味はつかめませんね」
ナインは手を離し、息を静かに吐いた。
「もう少し増幅できれば、あるいは……内容に触れられるかもしれません」
記憶の水晶は、静かに輝き続けていた。
虹の色は穏やかに脈動しながら、今もなお、言葉にならぬ言葉を世界に向けて送り出しているようだった。
淡く揺れる虹の光を見つめながら、カーティスは軽く眉を寄せた。その瞳の奥に、何かを思いついた色が差す。
「……ミレーユを、呼ぼう」
突然の言葉に、ナインとルカがわずかに顔を上げる。
「彼女と私は一卵性の双子でね。
二人でならば魔力の増幅と共鳴を起こせる。……小さな頃からずっと、同じ環境で育ってきたからかな…思考も、魔力も、時にまるで一つのように感じることが、あるんだ」
カーティスは、記憶の水晶に視線を戻す。
「一卵性の双子は、魔力の波が極めて近く、同時に魔術を展開することで、精度や威力を飛躍的に高めることができるのは、知っているだろう?」
そして、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。
「――ミレーユとなら、この水晶との“対話”をもう少し深められるかもしれない」
ナインは短くうなずいた。
「お願いします。……この水晶は、何かを伝えようとしています。今は、できる限りの手段を尽くすべきです」
「了解した。すぐに彼女を呼ぼう」
カーティスは手早く、扉の外に控えていた従者に命じる。足音が、石畳の廊下を静かに駆けていった。
*
地下宝物庫の空気が、わずかに変わった。
カーティスの隣に、ミレーユが立つ。
青銀色に艶めく髪が肩にかかり、兄と同じ色違いの双眸が、正面の水晶を見つめている。
双子の兄妹は、無言のまま距離を詰めて立った。
互いの魔力が、自然と波を合わせ始める。深く、静かに、まるで地下の水脈が交わるように。
ナインは膝を折り、水晶に近づいた。
指先をそっと触れ、その表面から伝わる微かな脈動を感じ取る。
「……増幅します。少し、衝撃を感じるかもしれません」
低く静かな声で告げ、ナインは魔力を流し込む。
規則的だった魔力波が、やがて大きなうねりとなって波打ち始める。
音のような、呼吸のような魔力の波動が、空間を満たしていく。
そして――カーティスとミレーユの魔力が共振を始めた瞬間、波は一変した。
より明確に、より強く、空間に“声”が立ち上がる。まるで、霧の中から誰かが現れるように。
「……聞こえるか……」
それは、男の声だった。
深く、穏やかで、しかしどこか疲れた響きを帯びていた。
「……私は、アルトゥール・ヴァン・シュトルムベルク……」
ナインは目を見開いた。
ルカも、息を呑むように隣で硬直していた。
声は、なおも続く。
「……魔王ヴォルム・マグナを……創りし、罪人……」
その言葉に、カーティスの指先がわずかに震える。ミレーユも、唇を引き結び、黙って水晶を見つめたまま動かない。
「……我が子らへ、私の記憶を託す……魔王の真実を……未来に遺すために……」
再び、声は魔力のうねりに呑まれ、微かに途切れ始める。
「……聞こえるか……私は……まだ……ここに……」
虹色の光が、一瞬だけ強く脈打ち、やがて静かに沈んでいった。宝物庫の奥に、再び沈黙が降りる。
だが、そこにいた誰もが、確かに“声”を聞いた。三百年の時を超えて、アルトゥールが遺した言葉を。




