勇者の衝撃
辺境伯爵領の本城。その最上階に設けられた戦時用会議室には、湿った沈黙が満ちていた。
長楕円形の黒檀の会議卓を囲むのは、辺境伯領軍の上層部――伯爵家の父子三人と、老齢の軍師、各騎士団の団長達であった。
壁際には補佐官達が控え、魔導灯の淡い光だけが、静かにその場を照らしている。
「――改めて報告する」
声を発したのは、老練な声の軍師だった。顔に深い皺を刻み、白に近い金髪をきっちりと結い上げた男である。
「今回、勇者化した魔王の眷族兵士級個体――「魔王の勇者』と呼称する、勇者化した兵士級との交戦により、我が軍は砦一基を喪失。正規中隊二つ、計百五十八名が全滅しました」
報告が終わっても、誰一人として口を開かない。
会議室の正面、主卓に座するのは、この地の主、辺境伯ヴォルクリン•ヴァン・シュトルムベルクである。瞳が、報告書を見下ろすように伏せられていたが、やがて小さく口を開いた。
「……兵士級、ただ一体でか」
「はい。確認されたのは一個体のみ。……にもかかわらず、です」
老軍師の答えに、会議卓を囲む全員の顔に、重苦しい沈黙が再び落ちた。
辺境伯の長男――隻腕で知られるルドルフ・ヴァン・シュトルムベルクが、口を開いた。
「問題は、その一体が“偶然”勇者化したのか、それとも“意図的に”強化された存在なのか、という点だ」
長男ルドルフの言葉に、幾人かの騎士団長が頷く。だがそれは納得ではなく、不安への同意であった。
「……もし、魔王側がこの“勇者化”を意図的に運用できるとしたら、事態は根底から変わる。
今回出現した個体は、結果的に我々の勇者が撃退したが、それでもギリギリだった。もし他にも、勇者化した個体が居たら……?」
それは誰もが口に出すことをためらっていた、核心の問いであった。
「……二体、三体と現れれば……この辺境伯領は、持たん」
辺境伯の声が、静かに部屋の空気を切り込む。
誰も異を唱えられなかった。
「今のところ、前線からは報告は上がってきてはいません」
現在、主戦線を担当している、第二騎士団長から戦線の様子について報告された。
*
会議室の空気は、次第に熱を帯びはじめていた。
沈黙を打ち破るように、第三騎士団長が声を上げる。
「先制攻撃を検討すべきではないのか。黒巣の位置は既に割れている。我々から手を打たねば、奴らの攻勢に晒され続けるばかりだ」
「無謀です。全軍を動かすには準備も時間も不足しています。防衛線を空ければ、それだけで致命的な隙になります」
反論したのは、老齢の軍師だった。血走った目で地図を睨みながら、険しい口調で言い切る。
「では、座して待てと? 次に来る勇者化個体が、兵士級とは限らないだろう。将軍級が勇者化した場合……どうなるか…」
将軍級――それは魔王の眷属の中でも、一つの戦線を指揮する高位の存在だ。
もしそれが勇者化するとなれば、それはもはや災厄と呼ぶべき存在だった。
「そもそも、”勇者化”する原理自体が不明だ。我々の知識では、ただ現象を追うばかりで、理解に至っていない。……わからぬものに手は打てぬ」
沈んだ声で辺境伯が言った。
その言葉に、再び室内は黙した。意見は交錯し、各自の思惑がぶつかり合ったが、最終的には一つの結論へと収束していった。
「……現状、我々にできるのは、徹底した情報収集と、敵性個体の観察、それに備える防衛体制の再構築だ」
ルドルフの声が、議論の終着点を示した。
「新たな“勇者”がどのように生まれたか。その兆候はあったのか。今回の“魔王の勇者”が現れる直前に、何か異常はなかったのか」
辺境伯が、静かに頷いた。
「……あの戦場に居た者の中で、最も多くの情報を持つのは、今回の戦闘でその個体を撃退した“勇者”――ルクレツィア嬢であろうな」
それから、視線を横へと移す。
オッドアイの瞳を持つ次男へと、伯爵は低く言い渡した。
「カーティス。ルクレツィア嬢への聞き取りはお前が担当しろ」
カーティスは席を立ち、頭を垂れた。
「……御意。必要な範囲で、すべてを聞き出します」
会議は、ようやく終わりの時を迎えていた。だがその終焉は、新たな脅威の幕開けでもあった。
*
魔王ヴォルム・マグナは、《黒巣》と呼ばれる都市規模の塚を築いていた。
この構造体の頂点に位置するのは魔王本体であり、存在数は一体のみとされている。その下には、軍団長級、将軍級、隊長級、兵士級と呼ばれる階層が確認されており、各個体種は階層毎に、明確に機能分化されている。
各階層は役割を厳密に分担しており、全体の利益のためには個体の犠牲も厭わないという高度な集団行動を示す。これは、生物学的に見ても蜂や蟻のように、極めて適応度の高い社会構造である。
戦士級は最下層に位置付けられ、その個体数は数千から数万と推定されている。
兵士級は主に労働力として機能しており、塚の建設、餌の収集、幼体の育成、防衛、清掃などの全般的な作業を担当する。また、兵士級各個体の役割は固定されておらず、年齢、個体の発育段階、巣の状態など複数の要因によって柔軟に変化することが観察されている。
このように、魔王ヴォルム・マグナとその眷属は、厳格な階層と統制のもとに構成されており、その行動様式は極めて合理的である。魔王の意思ひとつで、万単位の眷属が同時に行動を開始するその様子は、まるで一つの巨大な意志に支配された生物のようでもあった。
*
重厚な絨毯の上に、錬金装飾のテーブルと深緑の革張りの椅子が静かに並ぶ。
辺境伯領の本城――その奥にある応接室で、ナインとルカは静かに座っていた。
静寂の中、扉の向こうから近づいてくる革靴の音。
やがてノックもなく、扉が音もなく開いた。扉が静かに開き、軽やかな足音が絨毯の上を渡ってくる。
入ってきたのは、白金の髪に、左右で色の異なる瞳――右眼が瑠璃色、左眼が翡翠色、金銀妖眼のカーティス・ヴァン•シュトルムベルク辺境伯爵令息だった。
淡い笑みを浮かべながらも、その「天使の様な」美貌には疲労の色が滲んでいた。
「……待たせてすまない。ルクレツィア嬢、ゼロ」
カーティスはそう言いながら、手短に礼をとった。それから深く息を吐き、ソファの背にもたれかかるように腰を下ろす。
「先日襲撃してきた、勇者化した魔王の眷族の戦士級個体、便宜上「魔王の勇者」と呼んでいるんだが、そいつのせいで、てんやわんやでね」
らしくもなく、ため息をついてカーティスは続けた。
「魔王の勇者は、どうやら私が野外生存訓練を始めた途端に、真っ直ぐに魔王の領域から、訓練場所の森に向かってきた様なんだ。そいつは、進路上の我が軍をあっさりと蹂躙してくれてね…..」
カーティスの色の異なる瞳が、等しく怒りの色に染まった。
「魔王の勇者は単騎だったんだが、砦が一つ、迎撃に出た二個騎士中隊が、壊滅させられた。結果的には、辺境伯軍の第三防衛ラインまで抜かれた事になるからね。たかが戦士級一体に、悪夢の様な被害だよ」
カーティスは声の調子こそ淡々としていたが、語られる内容は重かった。
カーティスはため息をつき、椅子から立ち上がると、真っ直ぐにルカとナインに向き直った。青銀の髪が揺れ、左右異なる瞳が静かにふたりを捉える。
「……まずは、ありがとう」
言葉は短く、誠実だった。
「ルクレツィア嬢、ゼロ、あの朝、君たちが戦ってくれたおかげで、私とミレーユは命を拾った。あれの標的は、疑いなく私達兄妹だった」
ルカは小さく瞬きをし、俯いた。ナイン(ゼロ)は静かに目を伏せたまま、何も言わなかった。
沈黙を数秒挟み、カーティスは緩やかに続けた。
「さて……本題に入ろう。敵は“魔王の勇者”。
我々が初めて遭遇した個体であり、その詳細は判っていない。今後の防衛計画にも関わる。……君たちが戦った中で、気づいたこと、感じたこと、どんな小さなことでも構わない。教えてもらえないだろうか?」
その問いかけの裏にある切実さを、ルカもナインも感じ取っていた。
ふたりは一度、目を合わせる。
そしてルカが、ゆっくりと息を吸い、小さく頷いた。
「……先ずは、わたしから失礼します」
カーティスは微笑を浮かべ、静かに席へと戻った。
「ありがとう。まずは、最初に遭遇したときの状況から教えてくれないか。どんな印象を持ったか……」
ルカは言葉を探しながら、少しずつ、確かめるように口を開いていく。
*
ルカとナインは、淡々と戦闘時の状況を語った。
勇者化した個体は、龍脈と接続し、膨大な魔力をその身に流し込むことで、常時、極限の身体強化状態を維持していた。
その強化効果は、少なくともルカと同等の域に達していたと見られる。
また、その肉体は、ルカやジ=ゲン流の剣士たちと同様に、高濃度の魔力で常に覆われていた。
それが疑似的な防御障壁として機能し、外部からの魔法攻撃を大きく減衰させる要因となっている。
そのため、低階梯の魔法では、表層の魔力を突破することすら叶わず、ほとんど効果を発揮しなかった。
今回の戦闘では、第八階梯の高位魔法を三連発で叩き込んだことで、ようやく有効打となる傷を与えることができた。しかし、それすらも決定打とはならず、戦闘が長引けば長引くほど、こちら側が消耗する展開となる事が予想される。
さらに深刻なのは、その「素体」の差である。
勇者化が与える強化が同等であるならば、元となる個体の能力差が、そのまま戦力差として現れる。
下位個体が勇者化した場合には、まだ対処可能かもしれない。だが、上位個体――将軍級や軍団長級といった高位の存在が同様の勇者化を遂げた場合、その戦闘能力は、ルカやナインであっても対処不能な領域に至るだろう。
ルカとナインの話を最後まで聞いたカーティスは、静かに息を吐いた。
その表情には、いつもの柔らかな気配はなく、心の重さがにじんでいた。色違いの瞳が、ゆっくりとテーブルの表面へと落とされた。
「……現時点では、他に勇者化した個体がいないことを、祈るしかないな」
絞り出すような声だった。
その言葉の底には、辺境伯家の次男として、そして軍人としての責任感が滲んでいる。だが、それがあくまで希望に過ぎないことを、彼自身が誰よりも理解していた。
しばしの沈黙が落ちた。
その静けさを破ったのは、ナインだった。
膝の上で組まれていた指が、わずかに動いた。
「……俺個人の話ですが、一つ、可能性はあります」
ナインの声は低く、言葉を慎重に選ぶ響きだった。ルカが隣で、わずかに顔を上げる。静かに彼を見つめた。
「《禁門・外典》の読解で得た術――黒扉です。
あれは、あの魔王の勇者の防御を無視して、致命傷を与えることができました。
ただし、現時点では制限が多く、実戦での運用には困難が伴います」
淡々と語るナインの言葉の奥にある決意を、カーティスも、そしてルカも確かに感じ取っていた。
「……《禁門•外典》か」
カーティスは呟くように言い、視線を上げた。ナインの黒い瞳と、まっすぐに視線が交わる。
「読解が進めば、《黒扉》の性能も向上する可能性があります。どこまでやれるかは、不透明ですが……」
ナインの言葉が終わると同時に、応接室の空気が、少しだけ張り詰めた。
再び口を開いたのは、カーティスだった。
その声音は、もはや軍務を担う貴族のものではない。柔らかく、それでいて確かな憂いを帯びた、ひとりの青年の声だった。
「……君、《禁門・外典》の読解で、精神汚染を受けただろう?」
ナインの瞳が、一瞬だけ微かに揺れた。
それを見て、カーティスは諦めたように静かに息をついた。
「私は、君ほど魔術書に触れてきたわけではないが……あの類の書にある“文字”や“概念”が、ただの知識の記録ではないことくらいは、わかっている。
禁書に手を出すことは、それ自体が――危険だと思う」
ナインは何も答えなかった。
その沈黙は、否定でも反論でもない。
ただ、静かに認めているという事実だけが、そこにあった。
ルカが、小さく息をのんだ。
ナインが禁書を読んでいたことは知っていた。けれど――精神にまで影響を受けていたことまでは、知らされていなかった。
「少し見た目がぼんやりしていたり、言葉が刺々しくなるくらいなら、まだいい。
けど……自分を壊してまで進むなよ」
カーティスの声は、率直だった。
軍人でも貴族でもない、ただのひとりの青年としての、素朴な心配だった。
ナインは、ようやく口を開いた。
「……一応、試してみたい予防策はあります。どこまで有効なのかは、やってみないと分かりませんが……《黒扉》は、あの時の唯一の有効打でした。
危険や代償を踏まえた上でも、読解を試みる価値はあると考えています」
カーティスは、わずかに苦笑を浮かべた。
まったく、とでも言いたげに、ソファの背にもたれ、静かに天井を仰ぐ。
「君らしいと言えば、それまでだけどな……。だが、辺境伯爵軍としても、今、君とルクレツィア嬢を失うわけにはいかない。くれぐれも無茶はしてくれるなよ」
そう言ってから、カーティスは少しだけ目を細め、隣に座る少女に目をやった。
「それと……ルクレツィア嬢には、ちゃんと説明しておきたまえ。彼女の美しい瞳が、涙で溺れそうになっているぞ」
ルカは何も言わなかった。
ただ、じっとナインを見つめていた。
ナインはわずかに目を伏せた。迷いと後悔が、静かに胸の内側で波紋を広げていた。
「……ごめん、ルカ」
ぽつりと、彼は言った。まっすぐルカを見ず、けれど確かに彼女に向けられた声だった。
「《禁門・外典》の件、きちんと話すべきだった。
……後で、時間をもらえるか? 二人きりで話したい」
その言葉に、ルカは黙ってうなずいた。
瞳に溜めていたものを、言葉にすることもなく、ただ小さく。
その様子を見ていたカーティスは、肩の力を抜き、あえて話題を切り替える気配を見せたが――ナインが、続けて言葉を発した。
「……それと、もう一つ、お願いがあります」
ナインの声は、今度はカーティスに向けられていた。
「シュトルムベルク家に伝わる、アルトゥール様の“記憶の水晶”を見せていただけませんか?」




