敵は勇者
――払暁。
空が白み始めたその刻、索敵ドローンが急速接近する存在を捉えた。
――敵襲。魔王の眷属、兵士級と推測。数は一体。速い。通常の三倍の速度。
脳内に響くアルファの無機質な声が、ナインを覚醒させた。
ナインは跳ね起きると、テントの布を弾き飛ばして外へ飛び出す。
「魔王の眷属だ! 北北東から! 接敵まで、あと一分!」
ルカもすぐにフル装備でテントから飛び出してきた。剣を手に、即座に構えを取る。
他のテントでも、ざわめきが広がる。急いで対応する音が、あちこちで響いた。
「ライーシャ! 東と西に騎士団がいる。援護要請、頼む!ハロルド様、セリス様、カーティス様たちと南へ退いて、騎士団と合流してください!」
ナインは護衛の面々に矢継ぎ早に指示を飛ばす。
そして――
魔王の眷属が、少し離れた丘の上に姿を現した。
ちょうどその瞬間、朝日が地平から顔を覗かせる。
差し込んだ光が、怪物の禍々しい輪郭を照らし出した。
甲殻に覆われた、全高二メートルの異形。
巨大な虫のようなシルエットは、まるで甲冑をまとった悪夢だった。
全身は黒から茶褐色の硬い殻に覆われ、そこかしこに刻まれた無数のヒビと棘が、進化の凶暴さを物語る。
頭部は鋭利な三角形。
肉厚のカッター状の顎が、カチカチと音を立てながら開閉している。
六本の脚は不均等に配置され、前方の二本は巨大な鎌状の刃と化していた。
背には硬質の突起がいくつも並び、それは装甲であると同時に、攻撃用のスパイクでもあった。
現れた敵は、たった一体。
分類上は、最も一般的な兵士級。
だが――
そいつは、ただの“兵士”ではなかった。
全身に纏う白く輝く魔力の奔流。
龍脈と接続した、勇者の証。
そう、そいつも“勇者”だった。
龍脈を通して溢れ出す魔力を自在に操り、常識ではありえない暴力を行使する、破滅の化身。
その存在自体が、災厄だった。
――!
甲高い金属音のような咆哮を上げ、魔王の勇者が突進してくる。
地面が揺れ、空気が軋む。
その狙いは――カーティスたち。
「させないッ!」
金色の閃光が飛び出した。
ルカだ。
第四段階の身体強化を全開にし、閃光のような踏み込みから大剣を振り下ろす。
まるで重騎士同士が正面から激突したような轟音が、朝靄を裂いて響き渡った。
弾かれたのはルカだった。
「く……!」
衝撃で地を滑り、背中から木の幹に激突する。乾いた破裂音。肺から空気が押し出された。
「ルカ!そいつはお前と同じ勇者だ!」
兵士級――あの魔王の眷属は、体高二メートル。全身を重厚な甲殻に包み、その重量はゆうに四百五十キロを超えるだろう。対するルカは、身長百六十センチ、体重わずか五十キロ。
でかくて重い方が強い。
条件が同じなら、まともにぶつかって、勝てるはずがない。
だが、彼女は怯まない。
地を蹴る。肋骨が軋むが、気にしている暇はない。
再び接近、斬撃。
――が、その斬撃すら、分厚い甲殻に弾かれる!
「っ……くっ!」
隙を突かれて、鎌状の前脚が突き出された。
紙一重で身を捻り、かわす――が、刃先が肩を掠め、血飛沫が弧を描いた。
ルカの身体が、再び吹き飛ぶ。
「ルカッ!」
遠くでナインの叫びが聞こえた。
ルカは転がりながら受け身を取り、着地と同時に膝をつく。
口元にも血が滲み、額も切れて視界が赤く滲む。衝撃で内臓が軋む。
構わない。
(あれを、止めなきゃ……私が、やらなきゃ)
脚に魔力を集中する。
第四段階の身体強化を、さらに限界近くまで引き上げる。
今度は、回避と突撃を組み合わせた一撃離脱。
ルカの体躯が、刹那、音を残して空を裂いた。大剣を構えながら、敵の死角へ――右肘の外へと滑り込む!
「はぁああああッ!!」
飛び込んで袈裟斬り――!
だが、振り下ろした剣は、またしても硬質な殻に弾かれた。まるで金属同士の激突。
それでもルカは止まらない。続けざまに回転し、背後から斬撃を叩き込む!
今度は甲殻がわずかに裂けた。黒い体液が飛び散る。
(通った――!)
喜ぶ間もなく、背後から叩きつけられるような衝撃!
反撃の後脚が、打ち下ろすように彼女の背を打ったのだ。全身の骨がきしむ。肺からまた空気が抜け、意識が暗転しかける。
追撃が来る!
――瞬間、地面に瞬間的な魔法陣が浮かび上がり、赤黒い火炎が魔王の眷属を包囲するように発火した。爆ぜる火輪。灼熱が甲殻を舐め、一瞬、視界を奪う。
ナインの牽制だった。
(まだだっ!)
その隙に、ルカは、歯を食いしばって立ち上がり、再び、加速、突撃する。
*
「色覚、遮断」
ナインの瞳がわずかに震えた。
「温覚、遮断。痛覚、遮断。触覚、遮断。味覚、遮断…」
その瞬間、世界から“色”が消えた。
温度も、痛みも、皮膚の感覚も――すべてが剥ぎ取られていく。
知覚は、ただ“情報”へと変換された。
情報を強制的に切り捨て、余った処理能力を、すべて思考に注ぎ込む。
「――思考加速、開始」
外界の時が遅れて流れていく。
音が低く響き、空気が粘性を帯びたように感じられる。
火花の軌跡がゆっくりと視界を走り、風の流れすら目視できるほど――
思考速度は極限へと達していた。
「起動」
ナインの両の手の甲が脈打ち人面瘡が現れた。人の顔を模した肉腫が、蠢くように、呻くように、口を開ける。
「リンクス、レヒツ牽制。火焔圏」
人ならざる詠唱器官――二つの口が、それぞれ別の魔法詠唱を同時に走らせる。
刹那、地面に魔法陣が浮かび上がった。
赤黒い火炎が魔王の眷属を包囲し、爆ぜるように発火する。灼熱が甲殻を舐め、視界を白く塗り潰した。兵士級のルカへの追撃が止まった。
ルカが再び飛び込み、怪物の意識を引きつける――その刹那。
空気の音が変わった。
言葉とは思えぬ、金属質の風切り音が戦場を貫く。それは、人の耳では詠唱とすら認識できない速度と密度の言語。
ナインと人面瘡。それぞれが詠唱を、僅かなタイミングのズレで口走る。詠唱は重なり、編み上げられていく。
三つの魔法が、同時並列で構築されようとしていた。
*
戦場に、金属質の――風を裂くような高音が響き渡っていた。
それは、もはや声ではなかった。
張り詰めた鋼線を掻き鳴らすような、あるいは刃が高速で連続に空を切るような――異形の詠唱音。
第八階梯魔法の、並列高速詠唱。
通常であれば、複数人で三十分を超える詠唱を要するそれを――ナインは、一人で編んでいた。
――詠唱完了まで、残り三分。
だが、その三分は、永遠にも等しかった。
(私が、守り切る)
ルカが一歩、前に出る。
身体強化を、第五段階まで引き上げた。限界を超えた負荷で、全身が悲鳴を上げる。
それでも――巨大な怪物へと、斬りかかった。
刃が火花を散らす。
踏み込みとともに、空気が裂ける。
押されながらも、必死に間合いを詰め、足を止めさせる。
時間を稼ぐ。それが、自分の戦場。
――残り、五十秒。
刃肢が掠め、四肢に浅い傷を刻む。血飛沫が舞った。
だが、それでも下がらない。
足を踏みしめ、叫びとともに――斬りかかる。
――残り、二十秒。
怪物の動きに、異変が生じた。
甲殻が、淡く光る。
「……なに?」
直感が、警鐘を鳴らす。
次の瞬間――怪物の全身が閃き、空間に魔力の槍が走った。
「――全方位型、マジックミサイル!? このタイミングで!?」
無数の魔力弾が、四方八方へ向けて一斉に射出される。
空気が裂け、爆ぜる音が重なった。
「きゃあっ……!」
至近距離にいたルカは、逃げ切れなかった。
ジ=ゲン流の身体強化は、魔法に対して高い防御力を持つ。致命傷には至らない――だが、複数の魔弾をまともに受け、光と爆音に包まれて吹き飛ばされた。
ナインもまた、一発を肩に受ける。
肉が焼け焦げる音と共に、身体が揺れた。
だが――痛覚を遮断しているナインは、崩れない。
口元が、かすかに動いた。
詠唱の、最終行。鍵となる音が紡がれる。
――第八階梯魔法、詠唱完了。
「灼獄覇焔」
虚空に、三重の魔法陣が刻まれた。
赤熱した光輪が、螺旋を描きながら拡がっていく。
大気が軋む。
熱で空間が歪み、魔力の飽和が音を孕んで波打った。
刹那――
細い赤熱線が三本、放たれた。
閃光の後。
熱せられた空気が急激に膨張し、爆音が戦場を切り裂く。
敵の反応は、ほんの一瞬。
兵士級の眷属が咆哮を上げ、魔力を集中。
結界を展開する。
黒と紅の魔力が、空間の中で激突した。
――灼熱の光線と、魔力の防壁。拮抗は、一瞬。
結界が、音もなく割れた。
砕けた魔力が風に舞い――その瞬間。
一発目の熱線が、兵士級の背中に直撃。
黒褐色の甲殻が、一瞬で焼け爛れ、弾ける。半ば貫通し、白煙と共に炎が噴き上がる。
二発目は、左前脚の刃肢に命中。
金属のような硬質の部位が爆ぜ、断面から火花を散らして吹き飛んだ。
三発目は、左後ろ脚の一本に叩き込まれる。
脚が弾け飛び、巨体が僅かによろめいた。
悲鳴のような、機械音のような――獣じみた咆哮があがる。
一瞬後、地面を穿った熱線に沿って、大地が真っ赤な裂け目と化した。
周囲の空気が、悲鳴のような音を立てて爆ぜる。蒸発した水分が、白い霧柱となって舞い上がる。森の草は、根すら残さず消し飛んでいた。
音が追いつくよりも先に、視界が閃光に呑まれる。
――だが、まだ。
奴は、倒れていなかった。
「――外した!」
ナインが、臍を噛むように唇を強く噛みしめた。
兵士級が咄嗟に展開した結界――そして、龍脈との接続による膨大な魔力の奔流。
その干渉が、必殺の熱線の軌道を、わずかに逸らしたのだ。
炎をまといながらも、兵士級はなお立ち上がる。
そして、最期の意志を振り絞るように――ルカを道連れにしようと、突進を開始した。
「くっ……!」
ナインは即座に判断する。
風魔法を発動。
逆巻く風が、ルカの身体を後方へ吹き飛ばす。
次の瞬間――
ナインは、自らを兵士級とルカの間に、躊躇なく割り込ませた。
*
加速された思考の中で、ナインは選択を迫られていた。
龍脈に守られた兵士級には、低階梯の魔法は通じない。
ならば――あらゆる防御を無視する術を、叩き込むしかない。
《黒扉》。
邪神の禁書《禁門・外典》から得た、異形の術。
だがそれは、自分から半径五十センチ以内、かつ十センチ四方の極小領域にしか展開できない、という致命的な制約を持っていた。
思考を加速させたナインの世界は、まるでスローモーションのように映っていた。
爆ぜる火花、空気の震え、迫る巨体の揺らぎ――すべてが、遅く、しかし明瞭だった。
燃え上がる兵士級の巨体に向かって、ナインは肉薄する。
(あと一歩……!)
ギリギリまで距離を詰め、狙い澄ました一瞬。
魔王の眷属たる怪物の、神経中枢が集中する頚節部へと――
ナインは、《黒扉》を展開した。
虚無の闇が、点として現れる。
触れた瞬間。
兵士級の頚節が――跡形もなく削り取られた。
神経と中枢の連携は、一瞬で断ち切られた。呻く暇すら与えず、兵士級は、沈黙する。
だが――その直後。
「っ――!」
慣性が、襲いかかる。
巨体が持つ質量。その空気の圧。
目の前にあったのは、黒い塊の前面――そして、膨れあがる重みだった。
ナインの右手が、巨体に触れる。
その瞬間――鈍く、芯に響く音が鳴った。
右手首が外に弾かれ、肘が不自然にしなる。
胸に、何かが叩きつけられたような衝撃。
肺が、一気に潰れる。
口から息が抜ける。声にもならない。
そのまま上半身が、斜めに巻き込まれて浮いた。
足が宙を切り、世界が横に傾く。
視界の端で、地面がぐるりと回る。
空が――青く、一閃して目に刺さった。
次の瞬間、背中が地面を滑っていた。
肉が地面に擦れる音が、耳の奥で反響する。
転がった。二度、三度。
そして、止まった。
地面の冷たさが、頬に触れた。
呼吸ができない。
右手は、動かない。指も、曲がらない。
目は開いている。けれど、首が動かない。
頭の奥で、誰かの悲鳴が聞こえた。
でもその声も、だんだんと――遠く、にじんでいった。
*
風魔法の一撃で吹き飛ばされたルカは、地面に叩きつけられた衝撃で、意識を取り戻した。
「……っ、う……」
耳鳴り。焼けつくような痛み。
霞む視界の先に、彼女が見たものは。
――ナインが、兵士級の巨体に跳ね飛ばされる光景だった。
「……っ、イヤァァァァアアッ!!」
ルカは絶叫した。喉が潰れるほどに、悲鳴を上げた。
立ち上がろうとする。駆け寄ろうとする。
だが――動けない。
限界を超えて強化された四肢は、もう壊れていた。
膝が砕け、筋肉が裂けている。
手足は痙攣すら、起こさなかった。
「ナインっ、ナインっ……ナイン、ナイン……!」
狂ったように、その名を呼び続ける。
嗚咽まじりに、喉が枯れても。
けれど、ナインは――動かない。
手足が――おかしな方向に、曲がっていた。
背中から地面に叩きつけられ、ピクリとも動かない。
「……ナイン……やだ……やだやだやだやだ……っ!」
涙が止まらなかった。
悲鳴のような風が吹きすさび、
焼け焦げた大地の上で――
ルカは、叫び続けた。




