辺境伯爵家
夕暮れが訪れ、空は桃色から紺へとゆるやかに染まりはじめていた。
焚き火の光が、辺りを照らしていく。火のぬくもりは、心を和らげる。無言のまま、静かな時間が流れていた。
虫の音が耳にやさしく届き、森の冷気が肩を撫でるように通り過ぎてゆく。遠くで、フクロウの鳴き声がひとつ。その低くくぐもった声が、夜の気配を連れてきたようだった。
ルカは膝を抱え、空を見上げていた。
梢の隙間から、いくつかの星がひっそりと瞬いている。
「……ねえ、ナイン。あたしたち、こういう夜、あったよね」
「いつだっけ?」
「子どもの頃。薬草小屋の裏庭でさ。焚き火して、魚焼いて、スープ飲んで……」
ナインは目を伏せた。
その記憶は、どこか煙のように揺らいでいて、輪郭を掴むのが難しかった。
「……そうだったかもな」
短い返事に、ルカは何かを確かめるように、にっと笑った。
食事が終わると、班の五人が交代で夜の見張りに立つ時間を相談しはじめた。
ルカとナイン、ライーシャの三人は少し離れた場所で、それを見守る。判断は、彼らに任せた。
火のゆらめきが森の影を揺らし、星が頭上にひらけていた。その夜、彼らの“初日”は、静かに終わろうとしていた。
森の奥から吹いたひとすじの冷たい風が、何かの予兆のように空気をかすめてゆく。
*
森は夜の帳に沈み、星々が木々の隙間からそっと降っていた。
ナインは焚き火から少し離れた暗がりに立ち、索敵ドローンを数機、静かに展開していた。魔導工学によって造られた索敵用魔導具は、羽音ひとつ立てずに浮かび、彼の指示に従って空へと昇っていく。
梢を越え、上空へ。
ドローンが捉える情報が、ナインの元へほぼ同時に伝わってくる。
「……やっぱり、囲んでるな」
周囲には複数の熱源があった。数百メートル圏内に点在する焚き火。それぞれに数人ずつ、甲冑と外套を身にまとった兵士たちの姿があった。
辺境伯家直属の第一騎士団。その小隊が、三つ。練度の高さは見てとれた。だが、野営訓練の護衛にしては、あまりにも重厚な布陣だった。
「ロイさんとクラリス様もか……」
少し離れた場所で、学園の教師たちと共に、白金級冒険者ロイが剣を研ぎ、金級のクラリスが書簡を読み込んでいた。
二人の表情に、余裕はなかった。まるで、何かを警戒しているような配置だった。
ナインは、夜気の中に混じるかすかな気配に目を細める。胸の奥に、微かな違和感が根を張っていく。
(辺境伯家の次男が参加しているにしても……これは、少し過剰だな……)
森は静まり返っていた。
魔物の兆しも、瘴気の流れも感じられない。
けれども、張り詰めた空気は、霧のように一帯を包んでいた。
「どう?」
ルカが、眠る前に声をかけてくる。
「異常はないよ。ただ……この警戒体制は、少し過剰な気がする」
「……ふうん。ナインがそう言うなら、今日は鎧を着たまま寝ようかな」
そう言って、ルカは最初の夜番であるカーティスにもひと言伝えると、静かにテントへ戻っていった。
*
テントの中。
ナインは寝袋の中で静かに目を閉じていた。
呼吸は深く、身体の力はすっかり抜けている。けれど、意識の深部ではなお、増強された脳内領域に構築された仮想人格〈アルファ〉が活動を続けていた。
〈アルファ〉はナインの思考パターンを模倣し、状況判断や命令伝達を自律的に行うことができる。今は索敵ドローンの制御を委ねられていた。
──ナイン。起きろ。
睡眠中のナインの脳内に、感情の起伏を持たない機械的な声が響く。まぶたの裏に淡く走った光の揺らぎに誘われ、意識がゆるやかに浮上した。
「……誰が来た?」
──カーティスだ。先ほど、夜番を交代した。
ナインは静かに身を起こした。
テントの入り口には、細身の影が立っている。焚き火の灯が、肩越しにかすかに揺れていた。
「ゼロ、寝ていたのか。起こしてすまないね。……ちょっといいかな?」
「問題ありません。どうしましたか」
カーティスがぽつりと口を開いた。
「やっぱり……警戒、過剰だと思うかい?」
ナインはちらりと視線だけ向け、無言でうなずいた。問いというよりは、答え合わせのような言葉だった。
「だよね」
カーティスは小さく笑った。
ナインは言葉を返さない。代わりに、カーティス自身が答えを導き出すように、言葉を継ぐ。
「私の家……シュトルムベルク家には、少し因縁があるんだ。それを話しておこうと思ってね。なるべく早いほうがいいと思った。でも……起こしてしまって、すまない」
声が少しだけ低くなる。
夜の森が、その重みを静かに吸い込むようだった。
「代々、うちの家は魔導学──特に錬金学に力を入れてきた。
王家の命で辺境を任されるようになってからも、それは変わらなかった。むしろ、未開の土地を開拓するために、より積極的に取り組むようになっていたんだ」
カーティスは、ナインと並んで焚き火の前に腰を下ろす。焚き火の中で、小枝が小さく爆ぜた。
彼は遠く、天にまたたく星を見据えたまま、語りを続けた。
「……十二代前の当主、名前はアルトゥール・ヴァン・シュトルムベルク。その人が、すべての始まりだった。
彼は人造生物、ホムンクルスの生成を専門としていた。開拓のため、労働力として、様々なホムンクルスを開発していった」
「彼が最後に作ったのは、“指揮管理用ホムンクルス”。……要は、他の使役ホムンクルスたちをまとめ、指揮統制するための上位個体だった。
知能を持ち、判断力を備え、命令の最適化を行うために──自己学習型の知能モデルが組み込まれていたんだ」
夜気が、ふと揺れた。森の奥で何かが動いたような、あるいは風の気まぐれかもしれない。
「……けれど、その指揮管理者の一体が暴走した。いや、“進化”と言うべきかもしれない」
カーティスの声が、かすかに震える。
「名を与えられなかったそれは、自らを《ヴォルム・マグナ》、神の模造品と名乗った」
ナインの視線が、ゆるやかにカーティスへ向けられる。
「最初は、小さな異変だった。命令系統が改ざんされて、他のホムンクルスが勝手に動き始めた。
次に、研究員の命令が無視されるようになって──最終的には、施設ごと反乱に呑まれた」
遠い記憶をたどるような口調だった。
「ヴォルム・マグナは、そのときすでに、自分の軍を作り始めていた。
ホムンクルスを改造し、戦闘に特化した個体を量産して……まるで、自分が神にでもなったかのように、ね。
あとは知っての通りさ。
ヴォルム・マグナは、人類に対して宣戦を布告。魔王となった。今まで、何人が犠牲になった事か……百万はくだらないだろうね」
静かに、カーティスは吐息をついた。
「『私は今、死となりて、世界の破壊者となった』──アルトゥール様が遺した言葉さ……シュトルムベルク家は、魔王を創った。
世界に赦されちゃいけない一族なんだよ」
ゆっくりと、彼は手を見下ろした。
その掌に、血が染みついているように──錯覚する。
「……私は、死を生み出した家の生まれだ。世界を壊す装置を作った家の。
アルトゥール様は最期に、自分の身体を使って《記憶の結晶》を作った。その結晶には、アルトゥール様の記憶、意思、そして……感情も封じられていてね。
シュトルムベルク家の直系は、生まれた時にその結晶を、一欠片だけ食べさせられる。アルトゥール様の想いを受け継ぐんだ」
カーティスの、天使と称される人形のように整った顔立ちに──ふと、重い悔恨と暗い情念に染まった老爺の面影が、重なって見えた。
「シュトルムベルクの者の手は、生まれた時から、血で真っ赤に染まっている。
私たちは、世界に対して償わなくてはならない。
魔王──《ヴォルム・マグナ》は、シュトルムベルクが滅ぼす。どんなことをしてでも」
その呟きは、相変わらず弦楽器を弾くような、艶のあるカーティスの声だった。
けれどその響きには、黒く重たい熱が染み付いていた。
鼻を突くような焦げ臭さ。
喉の奥を灼くような、慚愧の匂い。
それらをまとった言葉は、風に乗って夜へと沈み──静かに、闇に消えていった。
「……このことは、王国の上層部しか知らないんだ。学園だと、人の目もあるし、中々話せなくてね。
でも、ゼロには──勇者の半身たる戦略級魔法使い殿には、どうしても知っておいて欲しかったんだ」
森が沈黙する。
虫の音が遠のき、風が止んでいた。
まるで森そのものが息を潜め、語り終えた言葉に耳を傾けているかのようだった。
「……少し、前置きが長くなったね。ヴォルム・マグナには、シュトルムベルクの血を“感知”する能力がある。
仕組みは、正直わからない。ただひとつ確かなのは――戦場にシュトルムベルクが居ると、それを最優先で攻撃してくるということだ」
焚き火が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。
その一瞬、揺らいだ炎がカーティスの顔に陰影を落とす。
「領都ミッドガルズから北……つまり、辺境域にシュトルムベルクの血縁が足を踏み入れると、必ず“何か”が動く。魔王の眷属が、例外なく姿を現す」
ナインの指が、無言のまま膝の上でゆっくりと組まれていく。
「……ただ、兄の時は、例外だったんだ」
低く、わずかに震えを含んだ声だった。
夜の気配が、その響きを静かに包み込む。
「五年前の野外生存訓練。あのときの訓練地は、北の辺境域ではなかった。魔王の領域からは遠く離れていたんだ。
それに、兄は優秀だった。剣も、魔法も、私なんかよりずっと。だから、誰も疑わなかった。問題なんてない――みんな、そう思っていた」
けれど。
「……現実は、違っていた。魔王の眷属に、訓練班が襲われたんだ。しかも、将軍級の個体数体に。普通なら、ありえない戦力だ。
ヴォルム・マグナが、自らのテリトリーの外にまで戦力を展開したのは――今のところ、あれが初めてだった」
その声は、刃のように冷えていて、深い傷の痕を感じさせた。
「……兄は瀕死だった。死ななかったのが奇跡のような状態で、領都の聖堂に運び込まれた。
命は、なんとか繋ぎとめたけど……もう剣を振るうことはできない身体になってしまったよ」
焚き火が、かすかに軋んで木を割る音を立てる。
「それで……今回の野外生存訓練の場所は、魔王の領域からかなり距離を取っている。警備も、妙に過剰だろう? ……そういう事情なんだ」
ナインの目が、わずかに細められる。けれど、何も言わなかった。
カーティスは、ただ焚き火を見つめていた。
言葉の続きはなかった。ただ、赤く揺れる炎が――過ぎ去った記憶の残滓を静かに映し出しているようだった。




