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課外授業

 学園西棟、魔導文書科・ガルヴァイン教授の研究室

 小さな魔法陣が、静かに脈動していた。淡い紫の燐光が、波紋のように床を這い、やがてその中心に座す魔物の背を撫でる。

 それは猿に似た姿の魔物だった。全身を獣毛に覆われ、人体に酷似した構造を持っている。


「……始めます」


 ナインの声はが低く静かに響いた。隣に控える少女が、こくりと頷く。


 ライーシャ。褐色の肌に白髪の十七、八歳の少女。左頬には戦闘奴隷の烙印が刻まれている。彼女は、名誉男爵令嬢エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンの護衛にして、レヴィアタン家による魔力増加実験の被験体第一号。その代償として得た力は、魔物との交信能力だった。

 この実験は、彼女の補助なくしては成り立たない。


「精神感応を調整します。ゼロ、同期を開始してください。魔物と、あなたの意識を重ねます」


 囁くような声なのに、不思議と耳の奥まで透き通るように届いた。

 ナインは魔物の額にそっと手を添える。魔物は無反応だった。すでにライーシャの制御下にあるのだ。

 その瞼がかすかに震え、次の瞬間、ナインの視界は魔物と重なった。


 意識が、溶け合う。


《見えますか……?》


 ライーシャの思考が、深海の底のような静寂の中で届く。ナインは魔物の眼を通して、禁書を見た。


 そこには文字ではない「情報」があった。

 色でもなく、音でもなく――ただ、感覚の外側にある何か。


 《禁門•外典》


 五感では触れられぬ、理解不能でありながら、確かに「受け取る」ことができる情報の塊。

 魔物と同期した今のナインは、それをわずかに受容できた。思考は沈み、意識は抗えぬままに、禁書の深層へと流れてゆく。


 と、そのとき。


 魔物の身体がびくりと跳ねた。

 こめかみの血管が破裂し、眼球から血泡が滲み出る。全身を痙攣が走り、脳が崩壊を始めた。

 泡を吹いて倒れた魔物は、動かなくなった。ライーシャが即座に交信を断つ。ナインとの同期も、同時に切れた。


 沈黙。

 魔法陣の灯りだけが、床に淡く揺れている。


「……ゼロ」


 ライーシャがそっと、彼の肩に触れた。


 ナイン(ゼロ)は、目を開け、その黒い瞳は、いまも“どこか”を見つめていた。

 そこにはもう何も無いはずなのに――彼だけが、まだ向こう側を覗いているようだった。


「少しだけ……読めた」


 かすれた声だった。呼吸は浅く、指先は微かに震えている。けれど、その唇にはほんのわずかに笑みが浮かんでいた。


 同席していたガルヴァイン教授が、椅子に深く身を預け、ふうと長く息を吐く。

 教授の眼差しが細められた。


「ゼロ。……何が書かれていた? 話せるか?」


 普段無闇に騒がしい彼には珍しい、真剣な口調だった。


 だが、ナインは動かない。


 まるで時間だけが彼を置き去りにしてしまったように、右目を開いたまま、ただ何かをじっと凝視している。


「ゼロ……?」


 ライーシャの声が震えた。

 その瞬間、ナインがほんの少し、首を傾げる。

 そして――

 ふ、と。

 どこか可笑しみを含んだように、呼気とともに笑った。


「……なんだ、そんなことだったのか」


 その声を聞いた瞬間、場の空気が凍りつく。血の気が引いたのは、ライーシャだけではなかった。

 ガルヴァイン教授が、即座に立ち上がる。


「ライーシャ。気付け薬を。早く」

「えっ、は、はいっ」

「急げ」


 ナインの身体が、ふらりと揺れる。

 彼は虚空を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「“それは終わっていたのに、それでも終わっていなかった”……ってさ。変だろ?」


 呼吸は浅く、脈は異常に速い。額には冷たい汗が滲み、指先が不規則に痙攣している。 

 なのに――その瞳だけが、異様なほどに澄み切っていた。


「誰かがいるんだ。声がする……ずっと、前から……ああ……思い出せないな……あれ……?」


 笑っていた。そこに感情はなかった。ただ、「笑う」という動作だけが、顔に残っていた。

 

 教授が駆け寄り、気付け薬を鼻元へと差し出す。耳元で、低く囁いた。


「……戻れ、ナイン。そこは、お前の居場所ではない」


 その声に導かれるように――少年の瞳が、ようやくわずかに焦点を取り戻した。

 呼吸は乱れ、視線が虚空から地面へと落ちていく。そして、膝が崩れた。ナインはその場にしゃがみ込み、震える指で頭を抱えた。


「……怖い、って思ったのは……久しぶりだな」


 かすれた声が、ぼそりと零れる。

 ガルヴァイン教授は目を細め、静かに、深く、息を吐いた。





 それは、ただの黒い四角だった。

 厚みはない。質量も、気配も感じられない。

 漆黒の板のように見えるそれは、ナインの掌から、音もなく、静かに展開された。


 大きさは十センチ四方。

 小さな絵画のようだった。動きも重さも存在しない「面」。その周辺だけ、空気の流れがわずかに変わっていた。どこかに繋がっているのだ。


 規模は小さい。

 けれど、この漆黒の二次元の面は、あの時邪神が用いていた、異界への門だった。


 ナインが触れた《禁門•外典》。

 その一瞥の対価として、彼の中に刻まれた「概念」。

 理解できた訳ではなかったが、ただ使えた。


 ――黒扉。

 ナインはそう名付けた。


 この世ならざる禁忌の術理。

 かつて邪神が開いたものを、今やナインは、自らの意思で呼び出すことができた。


 黒扉は、世界の法則に、ぽっかりと“穴”を穿つ。

 それに触れた者は、無条件に“向こう側”へと飛ばされる。

 破壊も、防御も、通じない。

 魔法も、鋼も、祝福も。

 何であれ、この門の前では、等しかった。

 例外は、存在しない。


 一度開けば、黒扉は“そこにある”しかできない。

 位置を変えるには、いったん閉じ、再び開かなければならなかった。

 展開と維持に必要な魔力は、第一階梯の魔法に等しい――些細なもので済んだ。


 たった十センチ四方。

 

 ナインは、その黒い平面をじっと見つめていた。視線の奥は、どこか遠く――遥か彼方を漂っているように見えた。

 ガルヴァイン教授が興奮して、黒板に仮説やら今後の実験計画やらを書き殴っている。

 その喧騒を聞きながら、この先は、どんな風景に繋がっているのか。彼は、ただぼんやりと考えていた。




 


 空は澄み渡り、薄金色の陽光が森の梢に柔らかく降り注いでいた。

 十月。魔導学園、二年目の秋――。


 肩に、そっと風が触れる。ひんやりとした空気が頬を撫で、ルカは思わず目を細めた。隣では、ナインが無言のまま立っている。


 彼らは進級していた。


 二年生に課される課外授業。それは、三日間におよぶ「森での野外生存訓練」。

 文字にすれば穏やかに聞こえるが、その実態は、ほとんど軍事教練に近かった。

 食糧の調達も、野営も、すべては自力。そして、当然のように魔物も出る。


 生徒たちは班に分けられ、それぞれの区画に展開する。ルカとナインは、金級冒険者として特別指導役に任じられていた。


 彼らが担当する班には、辺境伯家の次男カーティスを筆頭に、その双子の妹ミレーユ、彼らの護衛であるハロルド男爵家の令息、セリス子爵家の令嬢。そして、名誉男爵家の令嬢エルヴィナと、彼女の護衛を務めるライーシャが名を連ねる。

 いずれも辺境伯領における重要な貴族の一族。文字通り、責任の重い班だった。


 森の入口を背に、黒衣の教師が一歩、前へと進み出た。


 それは学園の上級教導官。細身の体に黒のロングコートをまとい、静かに、生徒たちを見渡す。相当な実力者の雰囲気を纏っている。


「静粛に」


 声量は決して大きくなかったが、不思議とよく響いた。ざわついていた生徒たちの声が、春の雪のようにすっと消えていく。


「この森は、人のために整備された土地ではない。魔物もいれば、毒草もある。危険は多い。……だが、君たちの多くは卒業後、辺境伯軍に所属することになる。これからの三日間、その危険は、脅威であると同時に――学びでもある」


 教導官の口調は淡々としていたが、その言葉には、確かな重みがあった。


「知識を盾に。判断を剣に。三日間を生き延びよ。――君たちは、もう子どもではない」


 風が吹いた。

 ざわり、と森が揺れる。まるで森そのものが、その言葉に応じたようだった。


「なお、万が一に備え、白金級冒険者である斥候のロイ殿、クラリス・ヴァン・ルクス司祭が、本訓練に同道する。だが、彼らの介入は必要最低限に留められる。……責任は、あくまで君たち自身にある」


 一部の生徒が、無意識のうちに背筋を伸ばした。張り詰める空気のなか、ルカはちらりと班の面々に目をやる。

 カーティスとミレーユ、そしてエルヴィナ。三人とも、真剣な表情だった。ただ、その緊張の質がそれぞれ異なっていることに、彼女は気づいていた。


 その様子を、ナインは無言のまま観察している。


「では、班ごとに行動を開始せよ。初日は、各班の拠点確保と自給の基礎だ。……よい旅を」


 教導官の言葉が、森の奥へと吸い込まれていく。

 それを合図に、生徒たちは静かに息を整え、森の入口へと足を踏み出していった。


 ナインは、深く広がる木々の向こうを見つめる。その瞳には、微かに警戒の光が宿っていた。




 

 昼過ぎの森には、まだ秋の陽光が残っていた。

 梢を透かしてこぼれ落ちる金色の光は、どこか聖域のような静けさを漂わせている。遠くで鳥の声が響き、風が枝を撫でるたびに、葉擦れの音がかすかに揺れた。


 その森の中を、八人の班が進んでいく。

 ナインとルカを含む一行は、辺境伯家の次男カーティスとその妹ミレーユ、名誉男爵家令嬢のエルヴィナを中心とした班。この三人は、初めての野外訓練にまだぎこちない様子を残していた。


「こっちの方が、水場に近いかと……」


 地図を片手に、エルヴィナが声をかける。その声には真剣さと、わずかな緊張がにじんでいた。ナインは黙って頷き、木々の隙間から聞こえる水音と傾斜の具合に耳を澄ます。


「悪くない。陽が落ちる前に、拠点を作ろう」


 一行は斜面を下りながら、平らで安全な土地を探しはじめた。訓練とはいえ、この森は本物だ。まだ魔物の姿は見えないが、地面には獣の足跡があり、空気にはどこか不穏な気配が混じる。


 枝を払いつつ、足元を確かめながら、少年少女たちは黙々と手を動かしていく。

 刈った草を敷き、折れ枝を編み込み、焚き火の場所を整える。最初はおぼつかなかった動きも、少しずつ、共同作業の形をとり始めていた。


「わたし、火を……」


 ミレーユが、小さな手で火打石を構える。

 手元はおぼつかず、火花がなかなか出ない。それでも彼女は諦めず、何度も石を打ち鳴らしていた。

 その姿を見ていたルカが、そっと膝をついて隣に座る。


「うまいよ。火花はちゃんと出てる。あとはね、角度を少しだけ……ほら、ここ」


 少女の指先に、ルカの指がそっと触れた。優しく導くように、角度を整える。すると次の瞬間、ぱち、と鮮やかな火花が飛び、乾いた枯れ葉に落ちて、細い煙が立ち上った。


「……ついた」


 ミレーユが、小さく驚いたように呟く。

 その火は細く、頼りなく燃え上がり、やがて枝へと移って、しっかりとした炎へと変わっていった。


 近くでは、カーティスが川辺で拾ってきた平たい石を並べ、簡易の調理台を作っている。そのそばで、エルヴィナが携帯用の調味料を丁寧に整理していた。


「このきのこ、毒はないですわね?」


 エルヴィナが慎重に問いかける。


「大丈夫。食用になる」


 ナインは、きのこの傘の裏に指を滑らせ、軽く揉んで香りを確かめた。彼の答えを聞いたエルヴィナは、小さく礼を言い、それを受け取って下ごしらえを始める。


 森のなか、焚き火の周りに、穏やかな静けさが広がっていた。

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