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怪獣姫再襲来

 風が、潮の香りを含んで運ばれてくる。

 灰色の雲が低く垂れ込めた冬の空。窓の向こうには、鉛のような海が広がっていた。


 港町クトルアにある、レヴィアタンの別邸。その一室――執務室の中。

 ルカとナインは、静かに頭を下げながら、依頼完了の報告を行っていた。


「ルクレツィア様、こちらが依頼完了報告受領証です。誠にありがとうございました」


 対面に座る男は、群青の瞳をふたりに向けた。その目には、感情の色が一切浮かんでいない。


 ザミュエル・ヴァン・レヴィアタン。

 この大陸に名を響かせる海軍一族の党首であり、今回の依頼主だった。


「任務は完全達成です。しかも、我々の想定を遥かに上回る成果でした。あなた方がいなければ、レヴァ・ノーティルとの従魔契約は成立しなかったでしょう」


 そう言って、ザミュエルは静かに一枚の小切手を差し出した。

 その表面には、レヴィアタン家の家紋が金箔で刻まれている。記載された金額を見た瞬間、ルカの瞳が見開かれた。


 一回の依頼達成としては、あり得ないほどの報酬額。ナインはただ黙って、その数字を見つめていた。


「……これが、報酬?」


 ルカの問いに、ザミュエルは淡々と答える。


「増額分も含まれています。元の取り決めより、大きく上乗せしました。あなた方は、それに見合うだけの働きをしてくれました」


 ――この金額があれば、ナインを奴隷の身分から解放できる。

 ルカはそう確信し、小切手を両手で大事に受け取った。頬には微かな紅が差し、胸の奥から沸き起こる安堵と喜びを隠しきれなかった。

 彼女はそっと、ナインの顔を覗き込む。

 ナインは、ほんのわずかにうなずいた。


 ふと、ザミュエルのまなざしが、ナインに向けられる。


「エルヴィナは、戦の準備のため、一足先に出立した。

 挨拶もできずに申し訳ないと言っていたよ……ゼロ。君には、依頼だけでなく、色々と世話になった」


 ナイン(ゼロ)は、静かに視線を伏せた。


「最後に、これだけは伝えておこうと思ってね」


 ザミュエルはゆるやかに立ち上がり、執務室の窓から海の彼方を見やる。


「この先、何があろうと。レヴィアタンは――ルクレツィア様と君の味方だ。

 我々は、恩を忘れない。

 ……何があってもだ。覚えておいてくれ」


 ザミュエルは意味ありげに微笑むと、念を押すようにもう一度、囁いた。


「レヴィアタンは、ラズヘルド王国が無くても特段問題は無い。

 少し訳ありでも、二人くらいなら新天地に連れて行く事など、容易い」

「……過分なお言葉、ありがとうございます」


 ナインは、その微笑みの意味を理解していた。


「ああ、それから――父親として君に伝えておきたい事があってね」


 ザミュエルの口元が、今度はほんの少しだけ愉快そうに歪む。


「レヴィアタンは、狙った獲物は逃がさない……戦が片付いたら、娘は学園に戻るつもりだよ。そのときには、“いろいろと”よろしく頼む」


 ナインに向けられた群青の瞳に、初めて感情が揺らいだ。そこには、興味と――恫喝にも似た、父親としての何かが混じっていた。


「ナイン……?」


 ルカが、ふと不安げな声で問いかける。

 碧色の瞳は、光を失っていた。まるで、ナインの背中に見えない影を感じ取ったかのように。


 ナインは軽く頭をかきながら、次の手を考えていた。絶対勇者と最凶海賊の挟撃。さて――どう切り抜けよう….





 クラウド男爵家の一室。

 ルカの私室で、ナインは彼女から目を逸らしていた。


 窓の向こう、冷たい風が細い木の枝を揺らし、積もった雪が静かに、さらさらと地面へ落ちていく。


「……違約金は、払ったんだよ」


 ルカの声は、小さく、震えていた。


「知ってる。ありがとう」


 ナインは、自身の右頬に刻まれた奴隷紋へそっと指を添えた。

 ルカは、まっすぐにナインを見つめている。


「だから……契約を、解除して。もう、これ以上……奴隷でいてほしくないの」


 ――その言葉は、ナインが初めて奴隷になったと知った、あの日。

 まだ小さな体で、涙を溢れさせながら「ナインはナインだよ」って叫んでくれた時の声と、よく似ていた。


 ナインは静かに息を吐いた。


「気持ちはありがたいよ。でも、今は……俺がルカの専属奴隷のままの方が、都合がいいと思う」

「ナイン……っ」

「学園でルカを護るには、奴隷という立場のほうが融通が利く。干渉されにくいし、手続きも簡単になる。

 それに、俺が平民になったら、学年が変わる。

 ルカは卒業後に軍属になるんだろ?だったら俺が平民になった時点で、入隊は一年遅れるし、配属先も別の部隊になるかもしれない。軍人って、制約が多いんだ。……一緒にいられなくなるよ」


 ルカは何も言えなかった。

 反論できなかった。

 ナインの言うことは、理屈としては正しい。

 ――でも、そんな正しさを、受け入れたくなかった。


「……私は、ナインに自由になってほしいの。ちゃんと、“人”として、生きてほしいの」


 俯いたまま、ルカは小さく唇を噛んだ。


「理屈とか、どうでもいい。一緒にいられないなら、我慢するから……」


 ナインは、ほんの少し目を伏せたあと、静かに返した。


「俺にとっては、どうでもよくない。……ルカの側にいられるなら、俺は奴隷のままでいいよ」


 その一言に、ルカの瞳が揺れた。

 涙はこぼれないのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられるようだった。

 ナインは、右頬から手を離した。


「……とりあえず、ルカが学園を卒業するまでは。これまで通りで、いいよね?」


 ルカは黙って頷いた。

 その仕草はひどく儚く揺れていた。


 そっと、彼女が手を伸ばす。細く白い指先が、ナインの頬に触れた。

 奴隷紋の刻まれたその肌を、祈るように、優しくなぞっていく。


「……せめて、形だけでも。外してあげたかったのに」


 声は、かすれるように小さかった。

 ナインは、ふと彼女を見た。

 泣いてはいないのに、どこか――どうしようもなく泣きたそうな顔だった。


「ありがとう。……我儘言ってごめん」


 そう言って、ナインは目を逸らし、ふと肩をすくめるようにして、ぽつりとつぶやいた。


「……結婚できれば、いろいろ解決なんだけどね」


 その瞬間、ルカの手がぴたりと止まった。


「――……えっ?」

「婚姻関係になれば、護衛なんて名目もいらなくなるし、家では一緒にいられるでしょ?」

「え、え、ちょ……ちょっと待って?」

「だから理屈の話だって」

「でも今、けっ、けっ…… けっこんって……って言ったよね!?」


 ナインは、首を傾けて真顔で応える。


「言ったけど? えっ、俺、最初からそのつもりだったし。……約束も、したよね?

 ルカは、もうその気なくなったの……?」


 急に不安げな顔をしたナインに、ルカは真っ赤な顔で慌てた。


「ちがっ、違うのナインっ! その気はあるよ! ていうかむしろ、満々だよ!」


 勢いのまま叫びながら、制服の裾をぎゅっと握りしめる。それでも視線は外せなくて、必死で言葉をつなぐ。


「でも、ちょっと……びっくりしたっていうか……その、そ、それって……ふざけてるわけじゃ、ないよね?」

「俺がふざけてるように見える?」


 ナインは静かに立ち上がり、そっとルカの頭に手を置いた。その掌は少し冷えていて、でも――不思議なほど、安心できる温もりがあった。


「早く魔王を倒して、ルカを勇者から解放しなくちゃね。……俺、頑張るよ」

「……ばか」


 それは、小さな、でもどこか嬉しそうな声だった。

 ルカは、ふっと微笑んだ。



 *

 

 

 窓の外では、淡い風が青葉を揺らしていた。六月。魔導学園の講義棟、三階の生徒会室。石造りの室内には魔力感知の結界が張られ、外の喧噪も、涼やかな風も届かない。


 静かな空間の中、カーティスは資料を机に並べながら、ちらりとナインを見た。


「知ってるか?」


 何の前置きもなく、彼は口を開いた。


「ヴェルドラール帝国とレヴィアタンの戦争が終わった。つい、先日だ。公式発表はまだだけど、完全決着ってことになってる」


 ナインは小さく目を細めるだけで、反応は薄い。いつも通りだ。


「レヴィアタンの勝ちですか?」

「勝ちってレベルじゃない。圧勝だよ、圧勝。ほとんど一方的だったってさ。

 半年で、ヴェラドール帝国は全艦隊壊滅、全ての港を封鎖あるいは破壊されて、植民地の八割を失った。通商網も完全に麻痺していて輸出入も出来ない。外交も完全に孤立。

 もう詰みだ。全面降伏、即時講和。戦後処理はこれからだが、実質もう……国としての体を保てるかどうか」

「……半年、ね」


 ナインは手元の紙束をめくりながら、ぽつりとつぶやいた。

 カーティスは少し口元を歪める。


「で、だ。総指揮官がエルヴィナ嬢だった。

 あのご令嬢が、白鯨—レヴァ・ノーティルを従えて出陣したんだ。艦隊戦はそもそも、戦闘にすらならなかったらしい。

 その後は、一方的だよ。徹底敵な通商破壊、植民地の反乱誘導。レヴァ•ノーティルの眷属も各港で暴れまくったらしい。小さな漁村も含めて、手当たり次第に荒らし回ったと」

「…………」


 ナインは、エルヴィナの怒りを思い出し、遠い目をしていた。

 少しの沈黙。だがそれを埋めるように、カーティスは続けた。


「二つ名までついてる。《怪獣姫》、《白鯨提督》、《激甚暴風》ってさ。…..とにかく、敵兵の間じゃ洒落になってなかったみたいだな。

 街ひとつ沈めたとか、港湾部を一撃で更地にしたとか、誇張込みで噂は山ほどある」


「エルヴィナ様が?」

「ああ、レヴァ・ノーティルを使って、らしいけどな」


 カーティスの声には、どこか他人事ではない重さがあった。辺境伯家の次男――戦場にも、政治の場にも無縁ではいられない立場だ。彼の耳に入る情報の質と鮮度は、他の学生とは違う。


 ナインは、黙ったまま再び手元の資料に視線を戻し、依頼完了の時の事を思い出していた。



 *



 初夏の陽射しが、まだ若い木々の葉を透かしていた。

 足もとに落ちる木洩れ日は、そっとふたりの背を染めている。


 カーティスと別れたナインは、ルカと並んで歩いていた。

 ルカはめずらしく無言で、どこかもじもじとしていた。手を繋ぎたそうにしながらも、指先だけをナインの袖にちょこんと引っかけている。

 頬がうっすらと紅く、どこか照れくさそうだった。


 けれど、そんな束の間の平穏な学園生活は、唐突な声に破られる。


「ご無沙汰しておりますわ、ルクレツィア様。ゼロ」


 高価な鈴の音のような、耳に心地よい声音だった。

 ふたりが振り返ると、そこにいたのは、陽光にきらめく白金の髪。

 風に揺れる縦巻きのロールが光をはじき、宝石のように艶やかな緋色の瞳がまっすぐにこちらを射抜いていた。


 エルヴィナ・ヴァン•レヴィアタン。

 半年ぶりの再会だった。


 《怪獣姫》――そう渾名された少女は、半年にわたる戦争の総指揮を経て、どこか大人びた雰囲気を纏っていた。


「ご壮健そうで何よりですわ」


 エルヴィナは淑やかにカーテシーを取る。

 優雅な動きの中に、微かに震えるような息づかいが混じっていた。


「……ああ、いけませんわね。胸がいっぱいで……私ったら」


 緋の瞳がふるふると揺れ、頬に淡い朱が差す。

 整った唇に浮かぶ微笑みは、上品で、それでいてどこか少女らしい初々しさがあった。


「ルクレツィア様。……レヴィアタンの恩人であるあなたに、このようなことを申し上げるのは、本当に心苦しいのですが……」


 前置きもそこそこに、彼女は唐突に爆弾を投げ込んできた。


「――私、ゼロをお慕い申し上げておりますわ」


 ルカの指が、ナインの袖を掴んだまま、ぴくりと震えた。

 その微かな動きに、ナインは気づいた。


「……なっ……」


 ルカの喉から、かすれた声が漏れる。

 それは言葉にならず、驚きだけが滲んでいた。


「この想い、一度は私の胸に秘めておこうと思っておりましたのよ。

 ただ……戦地で、明日をも知れぬ日々を過ごすうちに……この気持ちを伝えずにいることが、あまりにも口惜しく思えましたの」


 エルヴィナの声は静かだった。

 けれど、その一語一語は、微熱を帯びていた。


「ゼロ。戦時中ずっと、あなたのことを考えておりました。

 レヴァ・ノーティルを従えたとき……あなたに包まれ、あなたに触れたあの瞬間のときめきが、あなたとの心の交わりが私に力を与えてくれましたわ。

 ……一日も早くあなたにお会いしたくて…私が帝国を叩きのめすことができたのは、あなたのおかげですの」


 ……重い。

 苛烈な電撃戦を展開した《怪獣姫》の原動力が、自分への恋心だったなど、ナインは思ってもいなかった。


 思わず、頭を抱えたくなる。


「い、今の……聞き間違い……じゃ、ない……よね?」


 隣で、ルカがうわの空のような声を漏らす。瞳には涙がにじみ、口元は不安に揺れていた。

 ナインは、返事に困った。

 ちらと横目でルカを見ると、彼女は袖を掴んだまま、ぎゅっと指先に力を込めていた。


「ゼロ? お返事は……ご不要ですわ。

 ルクレツィア様がいらっしゃいますものね?

 ええ、よろしいのです。わたくしは、ルクレツィア様の次で結構です――愛とは、忍耐でございますもの」


 ――いや、ちょっと待ってくれ。


 ナインは、心の中でだけツッコミを入れる。が、それを口にする隙もなく、エルヴィナはふたたび柔らかく微笑んだ。


「私も、先程学園に戻ったばかりなので、詳しくはまた改めてお時間を頂戴いたしますわね。

 ご機嫌よう、ルクレツィア様。ゼロ」


 裾を翻し、品の良い足取りで去っていくその背は、まさしく勝者のそれだった。


 残されたふたり。


「…………ナイン」

「……なに?」

「さっきの、冗談……じゃないんだよね?」


 ルカはじっと見上げてくる。目は揺れ、頬は不安と不機嫌とで真っ赤だった。


「エルヴィナ様が言ってた“貴方に包まれ、貴方に触れた”って……どういうこと?」


 言葉は詰まりがちで、それでも袖を握る手は緩まなかった。

 ナインは、ほんの少しだけ息を吐いた。

 そして、そっとルカの髪を撫でる。


「……大丈夫。ルカが心配するようなことは、してないよ。レヴァ・ノーティルの従魔契約のとき、ちょっと精神的に接触しただけだから」


 それで、ルカはほんの少しだけ落ち着いた。

 ――けれど、次の瞬間。


「ぜ、全然大丈夫じゃないよ!? せ、せ、接触って……心が交わったの!? それって、浮気なんじゃ……!」


 やっぱり、パニックは避けられなかった。


 涙目でぐるぐる混乱しているルカの頭を撫でながら、ナインは頭を抱えた。

 学園の昼の鐘がのどかに鳴り響いた。

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