処断
夜を越えた海は、穏やかに凪いでいた。
朝陽が水面に光の道をつくり、潮の匂いが、冬の空気にほのかに漂っている。
珍しく澄み渡った冬空の下――燐光艦隊の面々が、静かに整列していた。
その視線の先にレヴィアタン家の総領娘、エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンは立っていた。
緋色の軍装を纏い、その声は冷えた鋼のようだった。
「……今日は、皆に聞いてもらいたいことがある」
その一言に、緊張が隊員に広がった。
囁きも、咳払いさえも消え、港には粛然たる沈黙が満ちた。
「今回の白鯨騒乱――すなわち、レヴァ・ノーティルの暴走は偶然ではなかった。ましてや、ただの災厄でもない」
彼女の声は淡々としていた。だが、その一言一句が、聞く者すべての胸を打つ。
「皆もあのとき、レヴァ・ノーティルの声を聞いたと思う。白鯨は、己れの“番”を取り戻そうとしていたのだ。
これらは、ヴェルドラール帝国――彼の国の陰謀だった。奴らは“番”を囚え、白鯨を我らの海へと誘導した。これは意図的な計略であり、レヴィアタンの力を削ぐための、敵意に満ちた侵略行為だった」
ざわり、と。
隊列の中に波紋が走る。
「奴らは、番を港湾区の保税倉庫に隠し、白鯨に返さぬよう細工を施した。怒りと悲しみに狂ったノーティルは、我らの港を――家族を襲ったのだ」
エルヴィナの瞳は、凍てつく氷のように冷たかった。
「……獣の牙の奥に、人の悪意があったのだ」
膝をつく者。
帽子を胸元で握りしめる者。
顔を伏せ、嗚咽を噛み殺す者。
「証拠はある。帝国の倉庫、生簀、そして領事館――すべてを押さえた。奴らの仕掛けた罠は、今や明るみに出ている。
だが、戦いはこれで終わりではない」
エルヴィナは一歩、前に出る。
「奴らが望んだ戦争――その火蓋は、すでに切られている。
私は、レヴィアタンの名にかけて、ここに誓う。お前たちの怒りを、悲しみを、私は忘れない。
レヴィアタンは、ヴェルドラール帝国を許さない。彼の国には、相応の報いを与える。必ずだ」
エルヴィナの気配が、はっきりと変わった。怒りの色が、その端正な顔立ちに滲み出る。白金の髪が、さざめく波のように風に舞い、緋の瞳が、燃えるように煌めいた。
風が吹く。
彼女の外套が、はらりと翻った。
「次に――レヴァ・ノーティルの処遇についてだ」
先ほどとは打って変わり、エルヴィナの声は静かで沈んでいた。
その視線が向けられた先には決死隊――白鯨に家族を奪われた者たちが、整列していた。
彼女は真っ直ぐに、一人ひとり彼らを見据える。
「私は、レヴァ・ノーティルに“番”を返す」
それは、静かな――宣言だった。
「その代償として、レヴィアタンに与えた被害を償わせる。白鯨と従魔契約を結び、名実ともに我らの支配下に置く」
停泊中の船が、風にわずかに揺れた。
彼女の髪も、それに合わせてゆるやかに靡く。
「これは、帝国との戦において、我らが優位を保つための――最善の決断だ。私は、奴らに勝つために、手段を選ぶつもりはない」
言葉は穏やかだったが、その瞳に浮かぶ光は、まさしく炎だった。燃え上がるような決意が、煌めいていた。
「この決断は、私が下した。
誰の命令でもない。
私が――エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンが、選んだことだ」
一拍置いて、彼女は続けた。
「だから……お前たちの悲しみも、憎しみも、怒りも――」
顔を上げたまま言い放つ。
「全部、私に向けろ。責めるなら、怨むなら、私にしろ。それが、私の義務だ。……お前たちは、もう、前を向いていい」
誰も何も言わなかった。
その沈黙を裂いたのは、鋭く切り込むような叫びだった。
「ふざけないでっ――!」
港に響いたその声は、ひとりの決死隊員によるものだった。
若い女。喪服のように白い決死隊の軍装を纏い、血走った目に、剣呑な光を宿していた。
「私は……私は、あいつに……っ!」
声が詰まり、堰を切ったように咆哮する。
「私は、アランを……婚約者を、白鯨に殺されたのよ!!そんな奴を、どうして、どうして……っ!生かして、手懐けて、支配下に置くなんて――!」
言葉は、涙に濡れていた。
だがその涙は、哀しみではなく、憎悪の熱に灼かれたものだった。
「私の大事な人を……家族を……あの獣が奪ったのよ!それを許せと? 従魔にすると!? なんで!? エルヴィナ様!」
その声は、罵声ではなかった。
慟哭だった。
彼女は涙を拭おうともしないまま、拳を握り締め、叫ぶ。
「私は、絶対に白鯨を許さない。生かしておくなんて、絶対に認めない……!あんたがなんて言っても、私が殺してやる……っ!」
その叫びは、沈黙の港を致命の斬撃音のように切り裂いた。
「……リュミエル」
名を呼ぶエルヴィナの声は、静かで冷ややかだった。
けれど、泣き崩れるその姿を見つめる瞳は、哀しみと苦渋に揺れ、憐憫がにじんでいた。
「これは、決定事項だ」
緋色の双眸がまっすぐに相手を見据える。
それは、撤回も猶予も許さぬ重さを帯びていた。
リュミエルは信じられないといった表情で目を見開き、濡れた頬を震わせた。
「どうして……っ、どうしてぇ……」
泣きながら、よろめくようにエルヴィナへと詰め寄る。だが、その肩を――数人の決死隊員が、そっと制して抱きとめた。
誰も、言葉はかけなかった。
その背を叩く手だけが、彼女の慟哭を受け止める。
――悲しみは、彼女ひとりのものではない。ここにいる全員のものだった。
「……エルヴィナ様」
ひときわ低く、くぐもった声が場を満たした。歩み出たのは、決死隊の最年長と思われる、白髪の老人だった。彼は静かに地に膝をつき、深く頭を垂れる。
「無礼をお許しください。彼女もまた……辛いのです。レヴィアタンの決断、しかと承りました。……彼女には、我らからよく言って聞かせましょう」
その声には、怒りも抗いもなかった。
ただ、長く海に生きてきた者の、諦念と覚悟がにじんでいた。
「……私も、息子を喪いました」
ひどく静かな、疲れた声だった。
「決死隊は、エルヴィナ様の、レヴィアタンの御決断を受け入れます。この命も、怒りも、すべてはレヴィアタンのためにございます。
……どうか、リュミエルには、少しだけ、時間をお与えください」
深く頭を垂れた彼の背にあるもの――
それは、老いと痛み、そして忠誠だった。
「……わかった。世話をかける」
エルヴィナは、短くそれだけ言うと、静かに顔を上げ、他の乗組員たちへと視線を向けた。
「これより、海上にてレヴァ・ノーティルと従魔契約を執り行う。
――総員、乗艦!」
*
空は薄青く澄み、風は止み、凪いでいた。
海は、深く、静かだった。
その水面に、白く、巨大な影が浮かんでいる。
白鯨。
その身にはまだ深い傷が残り、目頭からは鎖が長く引かれ、体のあちこちは黒く焼け爛れていた。だが、それでもなお、巨体を保つその驚異的な治癒能力は、確実に傷を癒しつつある。
「……始めましょう」
エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンは、船首に立っていた。
紅の軍装は風に舞い、後ろで束ねられた白金の髪が、薄光のもとでゆるやかに揺れている。
彼女の足元には、契約の陣が広がっていた。幾何学的な輪と符号、そしてその中心には、未だ完全には目を覚まさぬ白鯨の気配が、濃く沈んでいた。
「魔力の供給、始めます」
響いた声は、少年――ナインのものだった。
船尾近く、高密度の魔力をまとった彼は、副環に立ち、掌をそっと広げる。
その身体から溢れ出した魔力は、静かに契約陣へと流れ込み、淡く発光しはじめた。
魔物の従属には、いくつかの条件が必要とされる。
なかでも最も重要とされるのは、魔物との「合意形成」である。
わかりやすいのは、力によって魔物を屈服させ、従属させる方法だ。だが、古龍のように強大な存在を打ち倒すことは、ほとんど不可能に近い。ゆえに、強き魔物を従える者など、稀であった。
ただし例外として、〈生贄の対価〉や、あるいは魔物自身の意思――気まぐれや興味といった要素によって、契約が成立することもあった。
レヴァ・ノーティルは、魔王に最も近い存在とまで評される、ネームドモンスターである。従属契約は、極めて困難が予想されていた。
だが、今回は――勝算があった。
その鍵は、ライーシャの存在である。
ナインとライーシャに施された「魔力増加改造」は、魔物由来の成分を体内に取り入れ、人工的に魔力の生成機能を高める。
つまり、本来人体には存在しない〈魔力発生器官〉を、後天的に付与する処置。
ナインは、ライーシャの交信能力が顕著に高まっているという事は、この改造によって生成される魔力の「質」が、魔物に近くなっている証なのではないか、と考えていた。
その魔力が、魔物との共感を可能にしているのではないか、と。
今回の契約成立の鍵は、ライーシャの向上した魔物との交信能力にかかっていた。
「交信、補助します。エルヴィナ様……意識をそのまま保ってください」
耳元をすり抜けるように声が届く。
蒼銀の魔導糸が、契約陣から海へと伸びていた。その先は、静かに眠る白鯨の頭蓋へと繋がっている。
――レヴァ・ノーティル。
エルヴィナの意識は、深海へと沈んでいく。冷たく、暗く、静謐で――どこまでも深い、魂の最奥。
そこに、それはいた。
巨大な眼。白金の虹彩。
まるで海そのものが意志を持ったかのような、圧倒的な存在感。
白鯨が、彼女を見ていた。
――何者だ。
その声は、直接心に響いた。
重く、濁り、圧し潰すような問い。
拒絶。疑念。威圧。そして、怒り。
意識が、ぐらりと傾ぐ。
その目がわずかに揺れただけで、精神が砕けそうになる。
「わたしは――エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタン。海と共に生きる一族の娘。そして今より、お前の主となる者」
その名乗りを口にした瞬間だった。
レヴァ・ノーティルが、睨んだ。
荒波のような咆哮が、精神を焼く。
――奪った。奪われた。番を、愛しき者を。人間が、すべてを奪った。滅びよ、小さく弱き者ども。
「っ……ぐ」
苦鳴が喉の奥でひしゃげる。
全身にのしかかる呪詛のような圧力。
膝が震える。立っていることさえ、ままならない。
だが、次の瞬間。
背後から、ぬくもりが流れ込んできた。
――ゼロ。
ナインの魔力が、契約陣を通じて彼女の精神に注がれていた。
それは、嵐の中に聳え立つ大樹のように、エルヴィナを支えていた。
(……支えてくれている)
それだけで、踏みとどまれた。
エルヴィナは、ふたたび顔を上げる。
精神の深奥で睨みつける白鯨の眼を、真っ直ぐに見返した。
「お前の痛みは、わかる。我らもまた、お前に奪われた。悲しみも、怒りも、確かにある……けれど」
陣の光が強くなる。白い輝きが、海に染み込むように。
「我が仇――お前から番を奪った敵は、別にいる。我らには、共通の敵がいる。お前は――レヴィアタンの下に従え。共に戦え」
刹那、精神がぶつかりあった。
世界が裂け、ひび割れ、雷が奔る。
エルヴィナは――退かなかった。
「これは、主命だ。契約に同意しろ!」
――否!
白鯨の魂が、牙を剥いた。
怒りと誇り。そして何よりも、「魔物」としての本能が、屈することを許さなかった。
魔力の奔流が爆ぜる。
現実世界で船が大きく揺れ、艦体が軋む。契約陣がひび割れ、魔術回路が悲鳴を上げる。
「くそっ……こいつ……マジで……っ!」
ナインが、こめかみに青筋を立てながら奥歯を噛みしめる。唇から滲む血とともに、さらに魔力が迸った。
彼の力がなければ、エルヴィナの精神はとっくに潰れていた。
白鯨は強大だった。
だが。
「従え……レヴァ・ノーティル。我はヒトとして、お前の番を返す。だが、お前もまた、我らの一族を傷つけ、愛する者たちを奪った。我らは、何もしていなかったのに!」
リュミエルの泣き崩れた姿が脳裏をよぎる。決死隊の深く刻まれた怒りと哀しみも。
「償え。お前の過ちを、わたしの船で償え。
お前の力を――我らのために使え、レヴァ・ノーティル!」
《レヴァ・ノーティル》との交信は、限界を越えて深まっていく。
エルヴィナの意識の深いところが、外に漏れでてきた。
エルヴィナは一人、白鯨の前に立っていた。
「従え」
その一言が、どれほど重いか。
愛する家族を失った者たちの前で、家族を殺した魔物を従魔にするという選択。
それが正しいかどうかすら、自分でも分からないのに。
けれど、それでも、選ばねばならない。
総領娘として――家を継ぐ者として。
私は、わたしを殺さなければならない。
涙を流してはいけない。
怒りに流されてはいけない。
家の名にふさわしくあるために、自分の感情をひとつひとつ、殺していく。
それでも。
ふと、どうしようもない孤独が、喉の奥から這いあがってくる。
それでも。
どれだけ辛くても、どこまでも独りでも。
レヴィアタンの娘として、私は在らなければならない。
もう背負ってしまったから。
もう下ろせないから。
しばしの静寂。
《白鯨》が、眼を閉じた。
……わかった。
かすかに、魂の震えが緩んでゆく。
……レヴィアタン、海に生きる小さき者の娘、エルヴィナ。その悲しみ、その意志――しかと、受け取った。お前が生きる限り、私が在る限り、お前の意志に従おう
契約陣が、一斉に光を放った。
白い環が収束し、海中の巨影が、ゆっくりと頭を垂れる。
《レヴァ・ノーティル》――今、その白き巨体は、静かに一人の少女に膝を屈した。
エルヴィナは、震える指で手を掲げる。
「契約、完了……《白鯨》、今より我が従魔とする……!」
契約は、完了していた。
レヴァ・ノーティルの金の瞳は閉じられ、その巨躯は波に身を委ねる。もはやその心はエルヴィナに屈し、鎖は白鯨に届いていた。
けれど、エルヴィナの精神はまだ深く、沈んだままだった。地に足がつかず、ただ黒く沈黙する水に包まれて――底に囚われていた。
何も聞こえない。
何も映らない。
音も、色も、熱も、痛みも、すべて暗い水の底に沈んでいた。
(……息が、できない)
浮かび上がれない。
どうすればいいのか、分からない。
自分の輪郭がぼやけ始め、水底に溶けていく。
怖い。
た、助けて――
意識が遠のいていく。
その片隅に、誰かの声が届いた。
――エルヴィナ様……!
ライーシャの声が、遠くから届いた。
それはまるで、深海の底に差し込む一条の光のようだった。
――!
声にならない叫びが喉からあふれ、エルヴィナは水底で踠く。
瞬間、彼女は強い魔力に包まれた。
暖かい。
明るい。
いい匂い。
輪郭がはっきりしてくる。母の胎内に居るような安心感に満たされた。
一瞬――彼女は誰かの精神と、触れた。
魔力はナインだった。
彼の心象風景が、音もなく流れ込んできた。
灰色の世界。
黒と白だけで構成された風景。
ぬくもりのない空気と、誰もいない静寂。
世界そのものが冷たく、独りであるように感じられた。
(……似てる)
エルヴィナは、思わず胸に手を当てた。
それは自分が沈んでいた深海と、とてもよく似ていた。誰にも頼れず、誰にもすがれず、それでも進まねばならないという運命の重さ。
(あなたも……独りだったの?)
その孤独に、彼女は強く惹かれた。
同じ痛みを知る者を見つけた時の、あのどうしようもない安堵。今、全身を柔らかく包む暖かい魔力の安心感。
それらは、孤高に歯を食い縛って佇んでいたエルヴィナには劇薬だった。
涙がこぼれそうになる。
魔力の繭に包まれたエルヴィナは、ゆっくりと精神を浮かべていく。
まるで夢から目覚めるように。
ざぶん、と水面を破った音が、意識の中に鳴った。
呼吸が戻った。
肺に風が満ちる。
光が、瞳に差し込む。
そして、その一瞬
その白と黒の風景の中に――「金色」が差し込んでいたのが見えた。
それは、あまりにも鮮烈で、温かい光だった。
少女の姿。
風に舞う金の髪、無防備な微笑み。
手を伸ばせば触れられそうなのに、決して手に届かないような、遠い存在。
それを見た瞬間、エルヴィナの胸はきゅう、と痛んだ。
(……そう、なのね)
エルヴィナは静かに目を閉じた。
深く息を吸い、痛みを飲み込む。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
水面の光が、瞳に満ちる。
風が頬を撫でた。
潮の香りが、生きていることを教えてくれた。
レヴァ・ノーティルの瞳が、また静かに開かれた。
甲板で、乗組員達が歓声を上げていた。




