怪獣大戦争
後楼が、微かに軋む。
突撃の振動が、船体を通じて甲板を震わせていた。
「──両舷、全速!」
艦長ヴェイル・カンタレルの声が、銅羅のように艦全体へ鳴り響く。
「之字運動、開始! 操舵! 構わねぇから、転覆ギリギリまでぶん回せ!!」
操舵手が片眉を跳ね上げ、即座に怒鳴り返した。
「──アイ・サー!!」
次の瞬間、《メア・アスピーダ》が大きく傾いた。
艦体は左へ、右へと、鋭角に海面を切り裂きながら蛇のように疾走を始める。
霧を裂き、波を噛み、うねるように突き進むその姿は、まさに海の怪物のようだ。
甲板が生き物の腹のように波打った。
ぐらりと傾いた船体が、重心を狂わせる。
軋む梁が低く呻き、甲板がぐぐっと隆起し──
足元が突き上げられたかと思えば、次の瞬間には奈落に吸い込まれるように沈む。
「──奴は、真下から来る! どんな変化も見過ごすなぁッ!」
艦長の怒号が、波音をも突き破って響く。風にかき消されることもなく、甲板のすべての者の鼓膜を震わせた。
甲板は震えていた。
海のうねりに合わせて、地面そのものが波打つように。
甲板は、激震する大地そのものだった。
その最前線──
艦首に設けられた銛撃ち台に、ルカが立っていた。
跳ねる甲板の上でも、微動だにしない。
その姿はまるで、暴風の中に根を張った大樹のようだ。
腕には、無骨な三メートルの銛。
筋肉がきしみ、碧眼が暗い海面の一点を射抜く。
一瞬、海面が青白く光った。
「──十一時! 発光ッ!」
ルカの鋭い声が、空を裂く。
刹那──
「面舵一杯ッ!! 舵が壊れても構わねぇッ!!魔法使いども! 風力全開!!」
艦長がそれに応じるように絶叫する。
その声は波に乗り、全艦へと響き渡った。
甲板が再び大きく傾く。
舵が悲鳴を上げ、マストが軋み、風が帆を裂くように吹き抜ける。
ナインが詠唱に入る。
空中浮遊──レヒト
姿勢制御──リンクス
そして、ナインの口から叫びのような、高音が流れ出す。
ぶくり、と──
海面が……膨らんだ。
まるで、ぐいと下から突き上げられたかのように。
水が盛り上がる。
海が、呻き声をあげる。
海面が震え、ぶくぶくと泡が湧き上がる。
それは小さな泡ではなかった。
直径数メートルにも及ぶ、深海の泡だ。
空気が、変わった。
重く、湿り気を含み、鼻の奥を刺すような──生臭さ。
腐った海藻と、錆びた鉄。そこに死肉を混ぜたような……深海の匂い。
総毛だった。
皮膚の裏がざわめく。
耳の奥がじんじんと痛み、胸の奥にひやりとした冷気が走る。
──何かが近づいてくる。
上がってくる。
遥か下から。
深い、海底から。
それは、氷山のような質量だった。
海面が、白に染まる。
雪よりも白い、海にはあまりにも不似合いな色。
爆音。
海が裂けた。
海底火山が噴き上がるような水柱とともに、レヴァ・ノーティルの前頭部が、突き上がってくる!
視界が、真っ白に染まった。
──次の瞬間には、衝突する。
その刹那。
甲板の先端。
舳先の“射手”が動いた。
「──一穿」
ルカが、魔力を爆発させた。
龍脈がうねり、血管のように甲板の足元に魔力の痕が走る。
全身強化・最大出力。
筋肉が軋む音が、空気を裂いた。
ルカの両足が、板にめり込む。
そして──
放った。
砲弾のように音速を超え、空間を抉るように飛ぶ鋼鉄の銛。
狙いは、迫りくるレヴァ・ノーティルの左目。
次の瞬間──
世界が、爆ぜた。
巨人が世界をハンマーで殴ったかのような衝撃音。
百の大聖堂の鐘が、同時に鳴り響いたかのような轟音。
白い巨体が、わずかに撓んだ。
銛は狙いをわずかに逸れ、左目の手前に着弾。
そのまま、根元まで陥没する。
海が悲鳴を上げた。
レヴァ・ノーティルが、その巨体を苦しげに捩らせる。
ルカの一撃が、巨獣の進路を狂わせたのだ。
だが──止まりきらない!
白銀の巨影は、なおもそのまま左舷に接触する。
《メア・アスピーダ》が軋みを上げ、横倒しになりかけた。
艦体が持ち上がる。
甲板上の者たちは一斉に体勢を崩し、
数名が手すりを超えて、海へと吹き飛ばされた。
ヴェイル・カンタレル艦長が歯を食いしばり、怒号する。
「進路そのまま! 一旦距離を取れ! ダメージコントロール急げ! 被害状況、報告を!」
各部署が怒号を返し、乗員たちが慌ただしく駆け出してゆく。
「左舷砲塔群──被害甚大!」
「第三マスト倒壊!」
「主舵破損!」
被害報告と混乱の中。
甲板の中央、海へ向かって鎖が伸びていた。
ルカの放った銛、その柄尻から続く巨大な鎖が、火花を散らしながら甲板上を滑っていく。
鉄の蛇が唸りを上げながら海へと投げ出され──
その脇で、巨大浮遊樽たちが浮上する。
鎖に繋がれた、特製の魔導浮標。
次々と、ぼんっ、ぼんっと音を立てて、海面に展開していく。
そしてその視線の先。
鎖の先端に結ばれたレヴァ・ノーティルが、再び潜航を始めていた。
白き巨体が、完全に水没する。
巨大樽も次々と水中へ引き込まれ、
残ったものは、水面を滑り、レヴァ・ノーティルの動きと共に移動を始めた。
それはつまり──再突撃の準備を示していた。
第二ラウンドの始まりだ。
《メア・アスピーダ》も、体勢を立て直すべく活動している。
ルカは次の銛を手に、海面下の巨獣を鋭く見つめていた。
誰もが、肩で息をし、殺気立ち、怒号が飛び交う。
戦場音楽が鳴り響く、艦上に。
──どこからともなく、
海から滲むように──歌が、流れてきた。
誰かが、歌っている。
いや、違う。
歌ではない。
それは、微かな旋律。
波のささやきに似た、得体の知れない、だがひたすらに美しいなにか。
いつの間にか、艦上は静寂に包まれていた。
誰もが、その旋律に魅入られていた。
「……サイレン……?」
誰かが呟く。
──船乗りを惑わし、船を奈落に誘う魔女の名。
サイレンの魔女が哭いている。
ローレライが、深海で微笑んだ。
妖艶で、どこか背徳的で、ぞっとするほど美しい旋律。
それが、空から降り注いでいた。
詠唱だった。
ナインの──第九階梯魔法の高速詠唱。
彼は、空中で浮遊し、足場の不利を消していた。
通常、一〜二時間に及ぶ大詠唱。
十人以上の魔法使いによる同時詠唱を要する魔導の秘儀。
ナインは、それを一人で、数分で編み上げていた。
凍りついたような沈黙に支配された艦上で。
エルヴィナは、その場で歩を止めた。
戦場にあるはずの鋼の意志が、一瞬だけ融けた。
ライーシャは、目を潤ませ、吐息を漏らし、ただ呆然と、空を──ナインを見上げていた。
「目標、再浮上!九時方向。距離約二千!」
見張りの怒号が、艦上を現実に引き戻した。
白き巨影が、海面を割る。
巨大浮遊樽の浮力に抗いきれず、深々度での長時間潜航は叶わなかったのだ。
海上に姿を現したまま、獣は再突入を開始する。
今度は、防御結界を纏っていた。
魔力の膜が、その巨躯を薄く覆い、波の上に歪んだ鏡のような揺らぎを走らせる。
旗艦は、損傷のため、まだ十分な機動ができない。
かわせない。
詠唱はまだ、終わらない。
僅かに、間に合わない。
甲板の先端──
ルカが再び、動いた。
撃ち出すように、巨大な銛を放つ。
「破城」
放たれた鋼鉄の閃光は、一撃目と異なり、銛全体が魔力で輝き、二回りほど大きくなって見えた。
防御結界と銛の衝突の瞬間、大気が爆ぜた。空気が潰れ、周囲の空間ごと歪むような衝撃が広がる。
海面は逆立てて揺れ、衝突地点からは飛沫が吹き飛び、衝撃波が四方へ弾け、防御結界がひび割れる。
勇者の一撃が、ほんの一瞬だけ、巨獣の突進を止めた。
たった数拍の、稼がれた時間。巨獣が再起動して、突進を再開するまで数十秒。
視界一杯に、魔法陣が展開した。
「雷衝極圧」
鍵音が響くのと同時に、白熱した閃光が空を裂いた。
超高電圧――およそ数百万ボルトにも及ぶ電流が、大気を裂く轟音と共に、巨獣に叩きつけられた。
直撃したその瞬間、海水は爆発的に沸騰し、数万度に達する高熱が海面を瞬時に気化させる。
高温プラズマ状態に変化した空気と水分が、発光しながら青白い放電光を迸らせた。
電流は一点に留まらず、海水中を数十メートルのおく球状に広がりながら拡散してゆく。
次に、海面が盛り上がるように泡立ち始めた。
水中で電流が通ることで、水の電気分解が強制的に起こされ、水素と酸素が大量に発生している。
それは、青白い泡として次々に浮かび上がり、あたりに硝煙と鉄のような匂いを充満させた。
電気分解で発生した高濃度の水素ガスと酸素は、空気中で混ざることで爆発性ガスとなり――爆発が起きた。
爆風と閃光が海上を這うように走り、轟音と共に水面がえぐれた。
全てが終わり、視界が晴れてきた。
そこには、焼け爛れ、黒い岩山のように変じたレヴァ・ノーティルが、波間に静かに漂っていた。
……だが、終わってはいなかった。
レヴァ・ノーティルは、生きていた。
その巨躯が、かすかに──だが確かに、胎動し始める。弱々しくも、前へ、進もうとしていた。
「ライーシャ、発光信号・青! 全艦、湾内へ突入! 艦砲射撃でとどめを刺すッ!」
エルヴィナが、絶叫するように命じた。
満身創痍の《メア・アスピーダ》から、青白く光る魔法弾が天へ撃ち上げられる。
それは、湾外に待機していた燐光艦隊の残存艦艇への突撃信号。
合図を受け、主力戦闘艦たちが縦列隊形のまま湾内へなだれ込み、再び動き出した巨獣を射程範囲に捉える。
エルヴィナが、右手を高く掲げた。
斉射の命令を下す、まさにその刹那──
「……待ってくれ」
その声が、すべてを止めた。
ナインだった。
彼は、波間に漂うレヴァ・ノーティルの背上へと、音もなく降り立っていた。




