白鯨
館の一室を借りたナインは、寝台に体を預けながらも、まぶたを閉じることはなかった。
天井から吊り下げられた厚い天蓋が、まるで夜の闇そのものを部屋の中に垂らしているようだった。
静けさが満ちていた。
館全体が深い眠りに包まれていることが、皮膚を通して分かるほどに。
──そんな夜の静寂に、それは突然、落ちてきた。
深く、長く、重い響きだった。
声と呼ぶには、あまりに低く、広く、遠くまで響いていた。
それは空気を震わせ、海面を這い、まるで世界の底から湧き上がってきたかのようだった。
悲しみに濡れた祈りのようでもあり、
なにかを喪った魂の慟哭のようでもあった。
幾重にも重なる音の帯が、低くゆっくりと、空間の隅々まで染み渡っていく。
音に導かれるように、ナインは寝台を抜け出した。
無言のまま、窓辺へと歩を運ぶ。
その先に広がっていたのは、限りない海。
月も星もない夜空の下、闇に沈んだ波濤が、静かにうねっていた。
まるで巨大な何かが、暗黒の中で微睡みながら息をしているかのように。
その響きは、すぐに止む気配もなく、
むしろ夜そのものがその音に溶け込んでゆくかのようだった。
町の建物も、波打つ水面も、みな息を潜めて、それに耳を澄ませているように感じられた。
ナインは、胸の奥が冷たくなるような錯覚に囚われながら、その音を聞き続けていた。
──呼んでいる?
姿は見えなかった。
それでも、その音の奥には、確かに意志があるように思えた。
自らの存在を告げるような、誰かを探し求めるような──そんな、かすかな気配が。
「……深淵から、聞こえる」
そう呟いて、ナインはさらに耳を澄ませた。
──その時だった。
視界の端に、何かが走った。
湾の一部が、青白い光を帯びて発光している。
レヴィアタンの主力艦が二隻は丸呑みにされるほどの広さだった。
──次の瞬間。
海の闇の、その底の奥底から──
白い影が、跳ねた。
爆発のような音が伴い、遠くの海面に津波のような高波が巻き起こる。
ナインは、目を見開いた。
それは異様なほどに大きかった。
まるで巨大な氷山が、海底から跳ね上がってきたような、そんな錯覚を覚えるほどに。
圧倒的な質量が、確かに「跳ねた」のだ。
真っ直ぐに、海面を突き破って。
飛沫の向こうに、その白い輪郭が一瞬だけ姿を現す。
白鯨──《レヴァ・ノーティル》。
討つべき存在。
ナインは息を殺し、その姿を見つめ続けた。
鼓動が喉元にせり上がる。
やがて、遠くの海原に、低く長い音が再び響いた。
それは鳴き声のようにも、嘆きのようにも聞こえた。
「……なんだ? これは……哭いている? 探している…のか?」
思わず、ナインは口の中で呟いた。
誰に、何を、どこから──
その問いに、答えは返ってこない。
けれど、その一声には確かに“方向性”があった。
意志を持って、何かを求めている。
名も知らぬ誰かに向けて、確かに放たれた、呼び声だった。
そのとき、ナインは波打ち際に佇む人影に気がついた。
──ライーシャだった。
彼女もまた、暗き海の奥で跳ねる白鯨を、じっと見つめていた。
ナインはふと、視線を湾内から港に向けた。何かを探すように、目を細める。
しばらく港を凝視していた後、無言でベッドに戻っていった。
*
朝が、海から昇ってきた。
けれどその光はまだ薄く、空と波の境目が白く滲み、曖昧に溶け合っている。
海は鉛色の静けさを湛え、空気はしっとりと濡れていた。
潮騒と風の音のあいだに、小さな羽ばたきが交じる。
岬の先端に、ひとりの少女が立っていた。
足元に撒かれた穀粒と魚肉に、白い海鳥たちが群がっている。嘴を鳴らし、翼を震わせながらも──不思議と、少女の周囲だけは、深い静謐が保たれていた。
彼らは鳴きもせず、争いもせず、まるで何かに聞き入っているかのように。
一羽一羽が、少女に寄り添っていた。
ライーシャは、瞳を細めて空を見ていた。
その双眸は、陽光のような金の色をしている。けれど今は、燃えるようでもなく、煌めくでもない。
──ただ、微熱のようにじんわりとした、温度のある視線だった。
その目が、生き物を“視る”。
耳で言葉を聞くのではなく。
魂の芯で、かすかに共鳴する。
それは魔法ではない。けれど、世界では「ユニークスキル」──そう呼ばれるものだった。
ライーシャのスキルは、ただ、動物の心が静かに見えるだけ。自分の心を、視線に乗せて届けられるだけ。
風が、少女の髪を梳く。絹糸のような白い髪が宙にほどけ、鳥の羽とともに、ひっそりと揺れた。
「….おはよう。いい朝だね」
その声は、彼女の背後から届いた。
ライーシャは振り返らない。
けれど、海鳥たちが一斉に視線をそちらへ向けた。
ナインが立っていた。
海を背に、黒衣の影のように。
黒髪は濡れて見えるほど深く、足元の砂にも影を落とさぬほど、静かに立っていた。
ライーシャは、しばし口を閉ざしていた。
やがて、小さく肩をすくめて、笑う。
空へ手を伸ばすと、一羽の鳥が指先にそっと舞い降りた。
「……おはよう。ゼロ。昨日は、よく眠れたかしら?」
その声音は、どこか遠いところから届いたようだった。
「よくは眠れなかったかな。変な音が聞こえてきてね。……君も、聞いていたんだろ?
あれは鳴き声にしては──意味深に、響いていたよね」
「魔力の増幅は……少し、私には違ったかたちで効いているみたい。
昨日は、それが暴れてた。止めるのに、ちょっと……ね」
「……魔物と、通じ合っていた?」
ナイン(ゼロ)の問いに、ライーシャは小さく頷く。
「人の声よりも、彼らの“心”のほうが……響くの。恐れとか、飢えとか。そういうのが、音や絵になって、胸の中に流れ込んでくるの」
彼女の目は、遠くの海を見ていた。
水平線の向こう、何かを探すように。
「昨日の晩……レヴァ・ノーティルは、何て言っていたか、分かる?」
ナインは、昨夜から胸に残っていた疑問を口にした。
ライーシャの腕にとまっていた鳥が、かすかに翼を震わせた。そしてその静けさの中で、鳥たちは一羽ずつ、空へと還っていく。白い羽が灰色の空に吸い込まれ、やがて、遠くに消えた。
「ゼロ」
「……ああ」
「よく分からないけれど……私には、レヴァ・ノーティルが泣いていたように見えたわ」
そこまで言って、ライーシャはふと、言葉を止めた。
彼女は微笑む。その表情はどこか哀しげで、優しかった。
ナインは、それをただ見つめていた。
「……もし、できればなんだけど。ひとつ、頼みがあるんだ」
ナインの言葉に、ライーシャは僅かに目を見開く。
風が吹く。
そしてその風が、二人の声をそっと攫い、空へと運んでいった。
*
壁一面に貼られた精緻な海図と、古びた羅針儀が静かに時を刻む執務室。
ザミュエル・ヴァン・レヴィアタン。この部屋の主が、椅子に腰掛けていた。
その群青の瞳が、机の向こうに立つ小さな影を、静かに見据えていた。
ナインは、膝を折って一礼すると、丁寧に言葉を紡いだ。
「お時間をいただき、ありがとうございます。本日は、強化改造人間としての「武力以外」の性能について、お話をさせていただきます。
……きっと、レヴィアタン家の利益に繋がると、そう信じています」
言い終えると同時に、ナインは懐から数枚の紙片を取り出した。
索敵ドローンによって撮影された高高度からの地形画像だ。
無言のまま、それを一枚ずつ、執務机の上に並べていく。
夜間の港湾区。倉庫群に隠れるように映る、熱源•不可解な生体反応。
「これらの画像ですが…」
ナインは、一拍おいて話し始めた。
*
朝霧の帳が、海面をやわらかく覆っていた。
だがその白の奥に、霞む影が幾つも浮かぶ。
──戦闘艦の影。砲塔を備えた船影が、次々に姿を現していく。
燐光艦隊の残存艦艇が、湾外に集結していた。
彼らは、再び闘うために、ここへ来た。
その中心──ひときわ巨大な艦影が海を制していた。
燐光艦隊の旗艦、《メア・アスピーダ》。
やがて、一隻の小舟が海岸から静かに近づいてくる。
漕ぎ手もなく、まるで意志を持つかのように、旗艦の舷側へ吸い寄せられていく。
甲板に佇む兵らが、無言でその到着を見届けた。
前列に、白い軍装を纏った一団が整然と並んでいた。
男も女も、老いも若きも。
一目で、それとわかる異質な空気を、周囲とは異なる熱を纏っていた。
彼らは「決死隊」。――レヴィアタン独自の制度だ。
それは、戦死者の遺族が“仇を討つ”ために戦場への参加を許されるという、非常の仕組みだった。軍人ではない。だが、戦場に立つことを許される。愛する者の命を奪った敵に、自らの手で報いを与えるために。
今、ここにいる者たちは皆、レヴァ・ノーティルに夫を、息子を、父を、兄を――大切な誰かを殺された者たちだった。
半壊状態の燐光艦隊では、人員の補充が急務となっており、決死隊の参戦は、それに応じたものでもあった。しかし彼らの目には、ただの補充兵にはない色があった。喪服のように白い軍装を纏い、鋭いその眼差しが語っている。
これは復讐だと。これは、己れの命を懸けた戦なのだと――。
──そして、彼女は現れた。
激しい陽光を映したような、白金の髪。
緋の宝玉を思わせる、燃ゆる瞳。
その姿は、朝靄に霞み、幽霊船に現れる亡霊のようでもあり、船を墓場へ導く深海の妖精のようでもあった。
燐光艦隊提督──エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタン。
彼女が甲板に上がると、海が静まり返る。
凪のような沈黙。空気が張り詰める。
彼女は一度、すべての視線を受け止めるように、ゆっくりと目を閉じ、
そして──紅の双眸を開いた。
「──諸君!」
その一声が、霧を裂いた。
「我らが旗を、海に沈めたままでは終われぬ!」
「燐光艦隊は死せず! 誇りは、失われず!」
風が髪を揺らす。白金の髪が空にほどけ、舞った。
「この湾には、我らの仇がいる。──怨敵レヴァ・ノーティル!」
甲板の兵らが、決死隊が一斉に息を呑む。
「今こそ、復仇の時!」
「我らの怒りと哀しみを、鋼鉄の意志へと変えよ!」
「──怨敵レヴァ・ノーティルに、裁きの鉄槌を下す!」
彼女の緋色の瞳が、艦隊全てを貫いた。
「我が命、レヴィアタンの誇り──この一戦に、我のすべてを捧げる!」
「諸君! レヴィアタンの旗の下に集いし者たちよ!
汝らと、エルヴィナは常に共にある!」
その声に応じて、旗手が動く。
レヴィアタン家の戦旗が、高く掲げられた。
霧を裂くように昇る燐光の紋章。
それは、戦の狼煙にほかならなかった。
エルヴィナは拳を突き上げ、最後の命を下す。
「──《メア・アスピーダ》、湾内へ突入せよ!」
「目標は港湾中央──開戦!!」
その瞬間、船体が軋み、甲板が震える。
古の巨獣のように咆哮を上げ、旗艦は速力を増して突進した。
白い霧が裂ける。海が逆巻く。
──海上血戦の火蓋が、ついに切って落とされた。




