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灰海にて、策は巡る

 馬車の窓に、鈍く曇った空が映っていた。


 陽射しは分厚い雲に遮られ、どこか頼りなく冬の海の気配だけが風に乗って流れてゆく。

 風が、車輪の軋む音をさらい、窓硝子を微かに揺らした。

 ナインは頬杖をついたまま、じっと海を眺めている。

 隣のルカは厚手のマントの裾を握りしめ、時折、息を殺すように吐いた。


 旅は、今日で五日目だった。


 同行しているのは、ナイン、ルカ、そしてエルヴィナ。

 ロイは臨月を迎えた妻のため領都に残り、クラリスは王都の大聖堂からの急な出張要請で不参加となった。


 ──人の気配は希薄だった。

 道すがら、氷雨の名残がぬかるみとなり、泥が靴の底に重たくまとわりつく。

 日が経ち旅程が進む度に潮の匂いが濃くなっていった。


「……見えた」


 ナインが小さく呟いた。

 それに応じてルカが顔を上げると、雲を裂くような風が馬車を揺らし、遠くに荒れ狂う海が現れた。


 空は、まるで鉛を溶かして流したように重く沈み込んでいた。

 海は容赦なく荒れていた。波は高く、幾頭もの獣が咆哮するかのように、岸壁へと牙を剥いている。

 灰色の雲が低く垂れこめ、水平線と陸地の境界はすでに判然としない。


 吹きすさぶ風は、旅衣の上から肌を刺し、心の奥底まで冷やしてくるようだった。


「……嫌な、空だね」


 ぽつりと呟いたのはルカだった。

 襟元を押さえて窓辺に寄り、その海をじっと見つめている。

 黄金色の髪が風に揺れるたび、潮風に晒されたせいか、どこか鈍く燻んで見えた。


 ──そして、やがて目的地が見えてきた。


 クトルアの港町。

 寂れた町並みは、冬の寒さ以上に静寂に包まれていた。

 閉じられた商店の扉。潮風に揺れる看板の鎖。人気のない石畳の通り。

 レヴィアタン家が築いた交易港にしては、あまりにも静かすぎた。


 今やその栄華の残り香だけが、濡れた石畳の片隅に宿っているかのようだった。


 馬車が石畳の坂を登りきると、重厚な鋳鉄の門が姿を現した。

 その奥に広がっていたのは、灰色の海を背にそびえる一軒の館だった。


 ──レヴィアタン家の別邸。今回の冒険の拠点となる場所。


 軋む音とともに門が開き、馬車は静かに敷地内へと進み出た。

 館の外壁には塩気を帯びた風の跡が刻まれ、どこか時間が止まったような静けさがあった。


 ルカは、無言のままマントの前を押さえ、じっと外を見ていた。

 波の音が、思いのほか近く聞こえる。


 それは──獣の吐息のようであり、

 沈んだ神殿の奥底で、誰かが祈りを捧げるような音でもあった。


 灰色の空の下で、館の扉が音もなく開かれる。

 黒衣の執事が恭しく頭を垂れ、静かに来訪者を迎え入れる。

 淡い潮風が、扉の隙間からふっと吹き抜けてきた。


 ライーシャが馬車の扉を開く。

 エルヴィナが席を立ち、無言のまま館の中へと歩み出す。

 ナインとルカも、それに続いた。


 海と風の音だけが、三人の足音をさらっていった。





 重たい扉が静かに開き、館の執事が頭を垂れる。


「ご案内いたします。皆様、どうぞこちらへ」


 ライーシャに導かれ、三人は屋敷の奥へと歩を進めた。


 深い赤色の絨毯を踏みしめ、幾つかの回廊を抜ける。

 その先に広がる応接室は、曇天の午後に沈んだまま、ひっそりと静まりかえっていた。


 壁には褪せた絵画と古い航海図。

 大窓には重厚なレースのカーテンがかかり、弱々しい光が斜めに差し込んでいる。

 卓上には磨き上げられた銀のティーセットが整えられていたが、誰の手も触れてはいなかった。


 ──その部屋の中央に、ひとりの男が立っていた。


 殆ど白に近い白金の髪は滑らかに額を撫で、群青の瞳はどこまでも冷ややかで、まるで海底の石のようだった。

 年の頃は三十代前半か。痩身で背が高く、身のこなしには隙がない。

 けれどその佇まいには、裁きを下す寸前の裁判官のような峻厳さがあった。


 彼は来訪者を一瞥し、わずかに唇を動かした。


「おかえり、エルヴィナ」


 その声に色はなかった。けれど、その一言で空気の色が変わった。


 エルヴィナが、短く息を呑む。

 まるで何かに胸を突かれたように、瞳を細め、足を止めた。


「……お父様……? どうして……?」


 言葉の尾は、震え、細く消えていきそうだった。


 お父様──と呼ばれたその男。ザミュエル・ヴァン・レヴィアタンは、ゆっくりと向き直る。

 久々の再会のはずなのに、その所作には一切の感情がなかった。


「何、お前の“次の策”がどこまで通用するか、見届けに来ただけだよ」


 それは父の声というより、冷徹な検事の陳述のような響きだった。

 情は排され、事実だけを淡々と告げる。


 ──それが、レヴィアタン家の三代目当主。ザミュエル。


 ナインは、一切視線を逸らすことなく、その男をじっと観察していた。

 ルカもまた、眉をわずかに寄せながら、エルヴィナの様子を伺っている。

 少女の胸に去来する葛藤を、言葉にせずとも感じ取っていた。


 だが、エルヴィナは俯かない。

 静かに唇を結び、細く息を吐き、一歩前へ進んだ。


「……なら、ご覧くださいませ。わたしの“次の一手”を」


 それは、氷海を征く帆船の船長のような声だった。静かで、揺るぎがなかった。


「期待しているよ、エルヴィナ」


 その返答は、決して言葉通りには聞こえなかった。

 ザミュエルは胸に片手を当て、形式的な礼を示すように、ルカへと向き直る。


「まずは──遠方よりお越しいただいた勇者様に、レヴィアタン家を代表して、深く感謝申し上げます」


 その声音には皮肉も侮蔑もなかった。ただ形式と敬意を重ねた、儀礼的なものだった。

 けれどその目は温度を持たない。相手が誰であろうと、表面的な礼を崩さぬ──それが彼という人間だった。


 ルカは一瞬、困惑したように眉を寄せたが、すぐに姿勢を正し、礼を返した。


 ザミュエルの視線が、次にナインへと移る。


「そして、君が──魔道強化改造人間試作零號だね」


 その名を口にしたとき、ほんのわずかに、その瞳に興味の色が灯った。


「正直に言うと、私は君の戦いぶりに強く関心を持っている」


 片手を背に回し、静かに一歩、室内を歩く。


「マスターソード博士──ゼルダ師の作った特異点。我々レヴィアタン家も、君のケースレポートを基に、魔力増加実験を行っていてね」


 その言葉の末尾で、微かに口角が動いた。

 微笑というより、観察者が示す納得のような仕草だった。

 ナインは何も答えず、ただ真っ直ぐにザミュエルを見返していた。

 無遠慮な好奇にも眉ひとつ動かさず、その瞳はひたすらに冷静だった。


 ザミュエルは満足げに声を落とした。


「君の傍にいるライーシャ。彼女が、我が家の魔力増幅実験被験体一號だ。女性に対する魔力増加処置については、ゼルダ研より我々の方が先だった。論文も発表済みだ。興味があれば読んでみるといい」


 ライーシャはその言葉にも表情を変えず、ただ視線を伏せるだけだった。


「……もし機会があれば、彼女の話を聞いてやってほしい。君であれば、彼女にとっても得るものが多いはずだ」


 変わらず愛着も哀れみもこもらない声だった。


「繰り返しになるが──ゼロ。君の戦いぶりには大きな興味を持っている。我々の実験、投資が、どのように発展するか。君という「先行事例」の活躍を、楽しみにしているよ」


 そこまで言って、ザミュエルはエルヴィナに目を写した。

 

「エルヴィナ。セイラとヴェイルが待っているよ。レヴィアタンに二度の敗北は無い。全力を尽くせ」

「はい、お父様。これから作戦について協議しなければなりません。申し訳ありませんが、このあたりで──失礼します」


 エルヴィナの声は、父に負けぬほどに無感情だった。



 


 会議には、ルカとナインのほか、艦隊参謀セイラ・グリマルディ、旗艦メア・アスピーダの艦長ヴェイル・カンタレル、そしてレヴィアタン第三艦隊《燐光艦隊》提督エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンが出席していた。


 まず共有されたのは、レヴィアタン第三艦隊《燐光艦隊》とレヴァ・ノーティルとの戦闘記録だった。


 燐光艦隊は、いわゆる「沿岸艦隊」に分類される。海岸線付近での作戦に特化した、小型・高速・高機動型の艦艇を主力とし、長距離砲戦能力を重視した編成を持つ。レヴィアタン家が影響力を及ぼす主要な港湾都市に分散配置されており、辺境伯領第一の港町クトルアには、そのうち八隻が停泊していた。


 レヴァ・ノーティルは、ある日突然クトルアの沖に出現。停泊中だった八隻すべてを瞬く間に沈め、そのまま湾内に居座り、港の交通を封鎖した。


 それから一ヶ月後。別の港湾都市に配属されていた燐光艦隊の主力十二隻を率いて、エルヴィナはレヴァ・ノーティルとの決戦に挑んだ。


 沿岸艦隊である燐光艦隊は、敵艦との長距離砲戦を主眼に置いた艦隊だ。浮上状態で突撃してきたレヴァ・ノーティルに対し、その戦法は当初、非常に有効だった。

 “山脈”とも揶揄される巨体に向けて、艦隊が連携して高密度の砲撃を浴びせ、一定の戦果を挙げることに成功する。


 だが──レヴァ・ノーティルが突如、水中深くからの垂直体当たりを主戦法に切り替えたことで、戦況は一変した。


 クトルアの港は、海岸線のすぐ先から急激に海底が深くなっているという地形的特徴を持つ。この“深さ”が、敵に味方した。


 深海──すなわち、砲撃が届かず、艦の真下という死角からの体当たり。

 大質量の突進攻撃に、砲戦主体の主力艦たちはまったく対抗手段を持たなかった。


 最初の犠牲艦が、水面から高く跳ね上げられ、空中で真っ二つに裂けた──その瞬間、エルヴィナは敗北を悟った。すぐさま全艦に港湾からの撤退を命じた。


 しかし、その退避中にもレヴァ・ノーティルの猛攻は続き、さらに三隻が海に沈んだ。こうして、レヴィアタンは敗北した。


 敗北の後、エルヴィナは捲土重来を期して、対レヴァ・ノーティル迎撃作戦の立案に取りかかった。いくつかの策が提出されたが、いずれも高ランク冒険者との連携を前提としたものであった。


 レヴィアタン家専属の冒険者に打診もした。しかし、レイド戦であることを加味しても、レヴァ・ノーティルを相手に依頼を受ける者はいなかった。


 状況が膠着し始めた頃、エルヴィナは、自分が入学予定の魔道学園に、今代の勇者が入学するという話を耳にする。

 その実技試験の様子を確認した彼女は、すぐさま使命依頼を決意。辺境伯爵の内諾も取り付けた上で、ルカとナインに接触した──という経緯であった。


 正式な作戦会議の前に、ルカとナインはその実力を、参謀セイラ・グリマルディおよび旗艦艦長ヴェイル・カンタレルに対して披露することとなった。


 ルカの《龍脈接続》と、そこから放たれる驚異的な身体強化。それから繰り出されるジ=ゲン流剛剣術。

 ナインの異常ともいえる魔力量と、並列高速詠唱による高階梯魔法即時発動。


 ──この二人を中核として、次のような作戦が立案された。


 第一段階。

 ルカが刻印魔法により自動展開される「巨大な浮き樽」を繋いだ鎖付きの銛を、レヴァ・ノーティルに撃ち込む。

 銛の全長は三メートル。命中すると、内部機構が作動し、カエシ(返し)が二メートル四方に展開。目標に深く食い込んだまま固定される。

 そこに、百二十四個の浮き樽が鎖で繋がれ、目標の潜水行動を阻害する仕組みだ。


 第二段階。

 ナインが高階梯の雷魔法を放ち、目標を攻撃する。

 雷属性は水棲魔物に特効があり、レヴァ・ノーティルほどの規格外の魔物であっても、第七階梯魔法以上であれば有効打となると考えられた。


 第三段階。

 潜水不能に陥った標的を、残存する燐光艦隊の艦砲で一斉射撃。とどめを刺す。


 作戦開始は、他港に停泊している燐光艦隊残存艦が、湾外に集結する三日後の払暁──と決定された。

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