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病んで、妬いて、見られて、イヤン

 夕暮れの学園通り。西空は茜に染まり、街路樹の影が、舗道の石畳を静かに引き裂いていた。

 ルカとナインは、並んで歩いていた。いつもの帰り道。けれどその空気は、いつもとはどこか、微かに違っていた。


「……ねぇ、ナイン」


 唐突な声。

 ナインは、ふと横を見やる。

 ルカは前を向いたまま、笑っていた。けれど、その笑みは、わずかに張りついたようで──。


「ん」

「今日ね、学園の校庭で……見ちゃったんだけど」


 声音は穏やか。

 なのに、どこか深く、底が見えない。夜の湖面のような静けさをまとっていた。


「……見た?」

「うん。窓から。講義の時間に外を見てたらね……いたの。ナインと、知らない女の子」


 ナインの足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。

 しかし次の瞬間には、何事もなかったかのように、また歩を進めた。


「ああ。ライーシャだ」


 その名をあっさりと口にしたナインに、ルカは微笑を深めた。

 けれど──その瞳は、笑っていない。


「ふぅん、名前……ちゃんと覚えてるんだ」

「護衛の仕事の一環だからね。カーティス様から情報は渡されてる」

「そうなんだ……。でも──どうして、あんなに距離、近かったのかな?」


 その問いは、あくまで穏やかだった。

 だが、その言葉の端々には、針のような棘がそっと潜んでいた。


 ナインは答えず、夕空を見上げた。


「仕事の話だった。港の魔物の討伐依頼。俺にできるか、確かめに来ただけ。俺はルカのモノだから、直接ルカに依頼するよう話したよ」


 淡々と、いつも通りの口調で。

 ルカは、しばし黙っていた。沈黙が、ふたりのあいだをそっと埋める。


「……そっか」


 その声は、小さくて、掠れていた。


「でもね、ナイン」

「なに」

「私がいないときに、知らない女の子と二人きりで喋ってるの……あんまり、好きじゃない」


 ナインの足が、ふと止まった。

 ルカも、その隣で立ち止まる。

 沈む夕陽が彼女の金の髪を照らし、頬に翳を落としていた。


「私、ナインのこと信じてるよ? でも……なんか、嫌だった。胸が、ぎゅって苦しくなったの」


 その声には、怒りと哀しみと、そして、ひどく甘えるような響きが混ざっていた。


「……ごめん。そんなつもりじゃなかった」


 ナインは視線を伏せた。

 けれどその言葉のあとにも、小さな声が降りそそぐ。


「もしかして──あの子のほうが可愛いって、思った?」


 ナインの目が、かすかに揺れる。


「は?」

「だって、スタイルもいいし、年上で、大人っぽいし……ナイン、そういうの好きなのかなって」

「……考えたこともない」


 ほんの一瞬、ルカは黙る。

 そしてふわりと、どこか力の抜けたように笑った。


「……そっか。じゃあ、よかった」


 その微笑みは、どこか不安定で、危うい。

 ルカの指先が、そっとナインの袖に触れた。きゅ、と小さく掴む。

 その顔はうつむいたままで、言葉はなかった。


「……ルカ?」


 何度か何かを言いかけては、口を閉じる。

 それを繰り返したあと、ようやく、ぽつりとこぼすように。


「ねぇ、ナイン……私、ちょっとだけ言ってもいい?」


 震える声。

 ナインは黙って頷いた。


「私は──勇者、なんだよ」

「知ってる」

「ううん、そうじゃなくて……。女性の勇者はね、結婚しちゃいけない。子供を産んでもいけない。たとえ、誰かを好きになっても、それを選ぶ自由はないんだよ」


 彼女の声は、ぽつ、ぽつと零れるようだった。


「それだけじゃないの。……好きな人に、触れてもらうことも、許されない。抱きしめられるのも、もっと深くて特別なことも……全部、だめ。……本当に大切な人としかしないようなこと、なのに……」


 そこまで言って、ルカはナインを見上げた。

 その瞳は、怯えるようで、けれどなにかを求めていた。


「……ねぇ、ナイン。もしナインが、誰か別の女の子を好きになったとしても、私……止められないんだよ?」


 その声は震え、目には涙が滲んでいた。


「私、ナインのことが大好き。でも、それを証明する方法も、独り占めする術も、なにもないの」


 ルカは、呼吸を詰めるようにしてそう言った。


「……ごめんね。少し、不安になっちゃって」


 ナインは静かに歩みを止める。


「……寄り道しようか。ちょっと、話したいことがある」


 彼が向かったのは、小さな公園の片隅。

 ベンチの上、街灯がふたりを照らし、長く伸びた影を重ねる。


 ルカは黙って隣に座り、ナインの横顔をそっと盗み見た。

 ナインは、わずかに俯きながら、言葉を落とす。


「……俺さ、ルカががんばってるの、ちゃんとわかってるんだ。貴族の子たちに気を配って、誰にも馬鹿にされないようにって……勇者として、味方を増やそうとしてる。ちゃんと、戦ってる」


 ルカは、目を伏せたまま耳を傾ける。


「わかってる。……でもな、それでも……俺、たまに、すごく、嫉妬するんだ」


 その声には、どこか痛みが滲んでいた。


「誰かと笑ってるルカを見るたびに、すごく綺麗で、ちゃんと貴族の輪の中にいて。俺なんかよりずっと立派で……そう思うたびに、自分が置いてかれた気がする」


 ナインは目を伏せ、静かに息を吐く。


「俺はただの奴隷で、陰気で、誇れるものなんかひとつもない。……隣に立つ資格すらない気がして、たまに、どうしようもなく不安になる」


 それから、ふっと笑った。


「……ほんと、情けないな。格好悪いよ、俺」


 その笑みには、無理に平静を装う色があった。

 ルカは何も言わず、ナインの手を取る。その指先が、かすかに震えていた。


 他には誰もいない、小さな公園。

 静かに重ねられた指先のぬくもりが、鼓動と呼吸をそっと重ねていく。

 ふたりの沈黙は、寂しさではなく、優しい余韻だった。


「……ね、ナイン」


 小さく震える声。


「これからは、もっと……ちゃんと、話そう?」

「……ああ。俺も、そう思ってた」


 ナインはそう言って、ルカの手を優しく包み込む。


「黙ってても全部わかるほど器用じゃないしな。……ちゃんと話そう。嫉妬とか、不安とか、隠しててもダメだ。だったら、ちゃんと、言葉で」


 ルカはこくん、と小さく頷いた。


 沈黙のなか、ルカがナインの袖をそっと掴んだ。その仕草だけで、ナインの肩がわずかに震える。

 視線が絡まり、もう逸らせなくなる。


 まつげの影、熱を帯びた呼吸。

 どちらからともなく身体が傾く。


 触れそうで、触れない。けれど、遠くない距離。

 鼓動がうるさくて、耳の奥が熱い。

 ナインの視線が伏せられ、ルカの唇をかすめた──


 その、ほんの数ミリの間。あと少しで触れる、という刹那に。


「……コホン」


 乾いた咳払いが、空気を裂いた。


 時間が凍る。

 ふたりの身体が、同時に小さく震える。


 振り返った先には──


 月明かりを背に、白金の巻き髪に緋の瞳の勝ち気そうな少女。

 その傍らには、耳まで赤く染めた護衛の少女ライーシャが立っていた。


「……あら。なんだか、とても邪魔してはいけない空気だったかしら?」


 上品な微笑みを浮かべる彼女は──

 エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタン名誉男爵令嬢だった。


 ナインとルカは、顔を真っ赤に染める。

 ──あと数ミリ。あと数秒。

 そのすべてが、すんでのところで阻まれてしまった。


 ナインは気まずくて、咳払いを返す。

 ルカは俯いたまま、ナインの袖を掴む手に、ぎゅっと力をこめた。


「久しぶりだったのに……」


 可愛い声で、呪詛が紡がれた。


 ナインが小さくため息をついた、その視線の先に──彼女は立っていた。


 白磁のごとく滑らかな肌。

 夜明け前の雪を思わせる白金の髪は、見事なまでに整えられた縦ロールとなって、肩先にふわりと垂れている。

 少し吊り目の紅玉のように深く艶やかな紅の瞳が、わずかに退屈げな色を宿しながら、こちらを見下ろしていた。


 その顔立ちは、どこか人形じみて整いすぎていたが、意志の強さがにじみ出ていた。

 美しさは凛としており、柔らかさよりも鋭さを持った美貌だった。


 黒とボルドーを基調としたドレスは、公園の一角と、そこに停められた馬車の前という場にはやや場違いなほどに豪奢で──

 けれど、彼女の堂々とした佇まいの前では、違和感も消し飛んでいた。


 颯爽と腰に手を当てると、彼女は高らかに言い放った。


「お取り込み中、恐れ入ります。──初めまして。私、エルヴィナ・ヴァン・レヴィアタンと申します」


 形ばかりのカーテシーをひらりと見せると、すぐに言葉を継ぐ。


 「ルクレツィア・ヴァン・クラウド男爵令嬢と、その護衛の戦闘奴隷──ゼロ、でしたか。おふたりに、お願いがあって参りましたの」


 ルカは顔を真っ赤にして、魚のように口をぱくぱくと開閉させている。

 だがエルヴィナは、そんな反応など最初から眼中にないというように、涼やかな笑みを浮かべて続けた。


 「せっかくのご縁ですので──僭越ながら、当家が経営するレストランにてディナーへご招待させていただきますわ。

 お食事をしながら、お話しも進められるかと。ささ、遠慮なさらずに」


 それだけ言うと、ためらいもなくルカの手を取り、ひょいと引き寄せる。

 その腕力は意外にも逞しく、ルカは「え? ちょ、ちょっとま──っ」と情けない声を上げてよろけた。


 ナインは、呆れたように軽く肩をすくめて、彼女たちのあとを追った。


 エルヴィナはスカートの裾を翻すと、月光を背に受けながら、優雅に馬車へと乗り込む。

 まるでそれが最初から当然の流れであったかのように、他人の恋路などまるで興味ないと言わんばかりの顔で。

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