学園での日常
夜の深い静寂が、ようやくその支配を手放し始めた。
窓の外では、黎明の光が屋敷の輪郭をわずかに染めていく。まだ消え残る星のきらめきが、夜の名残を告げていた。
ナインは、机の前でじっと座っていた。
暗い部屋の中、魔導ランプの光だけが彼の横顔を静かに照らしている。瞳が、微かに揺れた。
──活動、終了。
アルファの声が意識の奥底で響き、仮想人格が静かに消えていく。
夜間、ナインは脳内の仮想領域に構築した別人格に、学習と思考、体の一部の手綱を預けていた。
ナインが眠っている間も、アルファは知識をむさぼり、解析し、記憶し続ける。多少の疲労の蓄積と引き換えに、ナインは二十四時間の連続活動を可能としていた。
そして今、主導権がナイン自身に戻ったのだ。
ナインは机の上の紙片や散らばった本、筆記用具を片付けていく。
「……ふぅ」
指先が無意識にこめかみを押さえた。思考の余熱が頭の奥で微かに疼く。だが、眠ることなど許されない。夜が終われば、一日の務めが始まる。
ナインは立ち上がり、窓を細く開けた。
冷たい朝の風が、熱を持った頭を冷やすように吹き抜ける。遠くで小鳥のさえずりが始まり、屋敷の中にもわずかに目覚めの気配が満ち始めた。
「……今朝は少し冷えるな」
独り言を呟き、体を動かすための服装に着替え、庭へと向かう。
ナインの朝は、ルカと共に始まる。
学園に通い始めてからも変わらない、大切な習慣だった。
東の空がほんのり朱に染まり、男爵家の庭にやわらかな朝日が差し込み始める。
庭木の影が芝生に伸び、風が秋の香りを運んできた。
「ナイン、今日は前屈からだよっ!」
元気いっぱいの声とともに、ルカが芝の上で勢いよく腰を落とす。金色の髪が朝日に透けて、ふわりと揺れた。
「はいはい……もう少し落ち着け、ルカ」
ナインもその隣に座り、ぎこちなく前屈を始めた。だが、その動きはどこか不器用で。
「ナイン、身体かたい!ほら、もっと前!こうやって……」
ルカは無邪気に身を乗り出し、ナインの背中に手を当ててぐいぐい押しはじめた。
「ちょっ、ルカ!これ以上は無理……っ!」
「まだまだ!もっといけるもん!」
必死に耐えるナインの顔が、じわりと赤くなる。背中越しに感じるルカの体温と柔らかな感触に、朝の涼しさなど消し飛びそうだ。
「……ルカ、その……力の加減……」
「えへへ、ナイン、弱音はダメだよ。勇者の護衛なんだから!」
いたずらっぽく笑うルカ。ナインは小さくため息をついた。
ストレッチの後、ルカはおもむろに立ち上がり、模擬剣を手に取って小さく肩を回した。
「じゃ、日課の朝稽古に行ってくるね!ナインも、ジョギング頑張って!」
「……ああ。無理はするなよ」
ルカはぱっと花のような笑みを浮かべ、庭の奥、養父エグバードが待つ稽古場へ駆けていく。その後ろ姿を、ナインはしばし見送った。
やがて静かに息を吸い、ナインも足を軽く叩いて、不自由になった右足の機能維持と回復のための習慣となったジョギングへと歩みを進める。
涼しさを増した朝の空気に包まれ、男爵家の庭は今日も変わらず、一日の始まりを告げる場所となっていた。
*
学園の午前。
教室の窓からは、心地よい秋風がそっと吹き込み、柔らかな陽射しが机の上に小さな光の波紋をつくっていた。
ルカは真剣そのものの表情でペンを走らせ、ノートに文字を書き込んでいく。ときおり、隣のミレーユに小声で問いかけるたび、ミレーユはどこか楽しげに微笑み、的確な答えを返してくれた。
「ルクレツィアは、本当に真面目ですね」
その声に、ルカは少しだけ頬を染め、けれど瞳の奥に決意の光を宿して答えた。
「ありがとうございます、ミレーユ様。……私も、勇者として、いずれ戦場に立つ身です。そのとき剣を振るだけで、他のことが分からなければ……皆さまにご迷惑がかかってしまいますから」
そのやりとりを、天井近くに浮かぶ小さな索敵ドローンが、ひっそりと見下ろしていた。
ナインがルカの護衛として配置したものだ。ドローンは、魔力反応と物理的脅威の兆しを絶えず感知し続けていた。
──だが、そのナイン自身の姿は、教室のどこにもなかった。
*
「はっはっはっ……見ろ、ゼロ君! この麗しき禁書の、表紙の輝きをッ……艶をッ……! 今日こそは、その中を読みたいものだッ!」
学園の西棟の奥、魔導文書科の研究室。
ガルヴァイン教授の声が、部屋の隅々まで響き渡っていた。白髪を乱し、銀縁眼鏡の奥の瞳は狂気じみた熱でぎらぎらと光り、教授は机の上に置かれた一冊の古書を、まるで恋人の肌を撫でるように指先でなぞった。
──《禁門・外典》。
朽ちかけた表紙は、ただそこに在るだけで、胸の奥に不吉なざわめきを呼び起こす異様な存在感を放っていた。
(……教授、相変わらずテンション高いな)
ナインは心の中で呟く。
すると教授が、ふっとこちらを振り返った。
「ハッ、ゼロ君。……君、今、つまらないなーとか思っていただろ? 真理の探究には、これくらいおかしなテンションでちょうどいいのだッ! さあ、実験を始めるぞぅ!」
机の上、小さなケージの中で白鼠が震えていた。
その前に置かれた《禁門・外典》のページが、ゆっくりと開かれていく。
「映像記録開始! 魔力干渉検知、起動! 結界強度、最大まで引き上げろ!」
教授の声に応じ、室内の魔導装置が次々と青白い光を灯し、空気に淡い魔力の波が揺らいだ。
「よし……鼠よ、運命の時だッ!」
ページが開かれ、教授の手がケージの扉をそっと押す。その瞬間、鼠の小さな瞳に禁書の文字列が映り込んだ。
──パシュッ。
乾いた小さな音とともに、鼠の頭部が中から弾け飛んだ。
血飛沫は結界に弾かれ、床を汚すことはなかった。
「ふ……ふふふ……素晴らしいッ……! これだ……これだよ、ゼロ君ッ! 人智を超えた禁書の威力……その断片が今、我々の目の前に……!」
「……教授、被験体喪失。死因は、今までと同様です。脳血流の爆発的増加、血管破裂、それに伴う脳破壊と推定。魔力検知はゼロ……結界も意味をなしませんでした。視認しただけで……なんでこうなるんだろ……」
ナインは淡々と記録を取りながら、すでに次の実験手順を考えていた。
「教授、防御ゴーグル越しの視認、映像装置を介した中継での干渉確認、もしくは曝露時間の短縮……どれを先に試します?」
「よし、ゼロ君ッ! その冷静さ、実に素晴らしい! 私もそれを考えていたとも! すぐに準備を──これだッ!」
教授は両手を大仰に広げ、机の上の奇妙な魔導装置を示した。
真鍮色の球体に水晶のレンズ、蜘蛛の足のようなアームが不気味に絡み合ったそれは、「学問の道具」というより「呪詛の器具」のようにしか見えなかった。
「……教授、それは一体……」
「禁書の文字を直接視認せず、映像を通して干渉を受けないかを試すのだ! 名付けて──《魔眼遠隔視写装置・改》ッ!」
「……改?」
「初号機は……まぁ、爆ぜた。」
軽く言うな、と心の中でだけ思い、ナインは黙って装置の調整を始めた。
教授が慎重に装置を禁門・外典の上に設置し、アームがゴゴゴ……と不気味な音を立ててページを挟み込む。
「よし……映像、投影開始だッ!」
レンズの奥が淡く光り、禁書の文字列が壁に投影される。
「……おお……これは……!」
そのとき──
バチン!
「ぎゃあっ!」
装置がスパークし、投影された文字列が一瞬で歪み、ズタズタに裂けるように崩れた。
教授の髪はボサボサになり、鼻先には小さな煤が付いていた。
「……だめか……写し取った映像ですら干渉が出るとは……!」
ランプの光が揺れる研究室。
《禁門・外典》のページの隙間から、まるでこちらを覗いているかのような黒い影が、ちらりとナインの視界をかすめた。
*
「……ナイン、まだガルヴァイン教授のところなのかな……」
開いた教科書の上に、ルカの視線は落ちていなかった。
そのまなざしは、どこか所在なく教室の奥をさまよい、ナインの姿を探していた。
窓の向こう、秋の風がそっと吹き込み、カーテンの端をふわりと揺らす。
「ルクレツィア?」
隣の席のミレーユが、ふとルカを見やり、くすりと微笑んだ。
「もしかして……ゼロのこと、探してた?」
「え、そ、そんなこと……!」
ルカの頬が、じわりと熱を帯びていく。
ふと視線を落とすと、ノートの片隅に──気づかぬうちに書きつけていた「ナイン」の名。
その小さな文字を見た瞬間、ルカは慌てて、その上をぐしゃぐしゃと線で塗りつぶした。
(……ナイン。会いたいな。……隣にいてほしい……)
胸の奥にそっと芽生えた願いが、指先まで熱く伝わる。
ルカは顔を真っ赤にしながら、ぎゅっと筆を握り直した。
「いけない……いけない……しっかりしなきゃ……!」
小さく自分に言い聞かせる声。
ミレーユはそんなルカの様子をそっと見守り、やれやれと肩をすくめた。
そして、妹を見るときのような、やさしい微笑みを浮かべたのだった。
*
「──さて、ゼロ君。次は何を試そうか!」
研究室は、魔導具の破片や実験用のネズミの残骸で足の踏み場もなく、まるで嵐が過ぎ去った後のようだった。
硝子の破片が微かな光を反射し、どこか寂寥とした輝きを放っている。
「教授、少し冷静になりませんか?」
ナインの声は、淡々と落ち着いていた。
「冷静……? 私は常に冷静だ! このハイテンションは意識してやっているだけだぞッ!」
その声が研究室の高い天井に木霊した。
結局、ナインの実験は昼過ぎまで続いた。
*
日がわずかに傾き始めた昼下がり。
学園の校庭にある木陰のベンチで、ナインはひとり遅い昼食をとっていた。
黒パンを静かに噛みしめ、ぼんやりと視線を巡らせる。生徒たちは午後の座学に戻り、校庭には誰の姿もない。広々とした校庭は静寂に包まれ、先ほどまでの喧騒や歓声は、まるで夢のように消え失せていた。
──ルカも、いない。
ルカは最近、昼食はミレーユたちと一緒に学食へ行くことが増えていた。護衛や従者は学食を使えない。それに、ルカがカーストトップの彼女たちと親しくなれるよう、カーティスに頼んだのはナイン自身だった。
ルカの世界が自分以外にも広がっていくのは、良いことだ。
……だが、良いことと、ルカといつも一緒にいたいという自分のわがままは、両立するとは限らない。
「……はぁ」
小さな溜息をつき、ナインは黒パンをもう一口ちぎった。味気ない。けれど、空腹は確かに満たされていく。
午後は、今日の実験レポートでもまとめるか──そんなことをぼんやりと考えていた。
そのときだった。
「……失礼。ここ、いいか?」
低く、落ち着いた声が耳に届く。
ナインが顔を上げると、そこに立っていたのは、年の頃は十四、五の少女だった。
褐色の肌に白い髪。装備は革鎧に似た簡素な訓練服。左頬には刻まれた烙印。
──戦闘奴隷。
その存在は、否応なく目を引くものだった。
「……どうぞ」
ナインは特に表情を変えることもなく、隣を示す。
彼女は無言で腰を下ろした。思っていたより、その距離は近かった。
「昼食、遅いんだな」
「実験に付き合わされてた。……マッドな教授の、やたら熱い情熱に」
「……ガルヴァイン教授?」
「知ってるのか?」
「私の主が授業を受けてる。私はちょっと引いたけど」
淡々としたやり取りの奥に、どこか計るような気配があった。
ナインはふと、パンを口に運ぶ手を止めた。
「……それで? 俺に何か用か」
彼女はわずかに黙し、それから小さく呟いた。
「……君、魔導強化改造人間試作零號だろう?」
「そうだが……ゼロでいいよ」
「ありがとう。私は──」
「ライーシャ。ザミュエル・ヴァン・レヴィアタン名誉男爵のご令嬢、エルヴィナ様の護衛。『海賊王』『深淵の鯱』『大海嘯』の身内が、勇者様の護衛に何の御用でしょう?」
ナインの声は冷めた調子で、ただ事実だけを述べていた。
風が吹き抜け、ライーシャの白い髪が頬にかかる。
その褐色の肌に、わずかな緊張が浮かび、金の瞳がわずかに揺れた。
「……どうして、私のことを……?」
押し殺した低い声。
ライーシャの声音に、ひやりと冷たいものが流れた。名誉男爵の名、主君の名、そして自分の素性まで。初対面の相手が、なぜそこまで知っているのか──。
ナインは淡々とパンを口に運び、まるで相手を意識していないかのようだった。
「秘密。勇者様の護衛だから?」
ナインは、韜晦している事を隠そうともしなかった。
──ナインは、ドローン群による監視情報処理能力を買われ、カーティスの命で辺境伯子飼の暗部と連携して、学園の監視任務の一端を担っていた。
そのため、学園関係者の情報はすでに頭に入っていたのだ。だが、それを彼女に告げる理由はなかった。
ライーシャは少しだけ口元を引き結び、やがて静かに息を吐いた。
「……まあいい。こちらも御用だ。
ゼロ、君に依頼がある。主──エルヴィナ様が君の魔法試験を御覧になっていた。
私も見ていたが……君、第六階梯の魔法を高速並列詠唱で放ったな?」
ナインは表情を変えなかったが、わずかに首を傾げた。
ライーシャはそのまま言葉を継ぐ。
「ゼロ、雷撃系の高位階梯でも、同じことができるか?」
「できるね」
短く、迷いのない返事だった。
「レヴィアタン家の港が、海の魔物に脅かされている。君に、その討伐をお願いしたいという話だ。どうだ、エルヴィナ様から詳しく話を聞いてくれないか?」
その声には、主君を案じる真剣な響きがあった。
ナインは残りのパンを頬張りながら、淡々と答えた。
「……俺は戦闘奴隷だ。そういう話は主人同士で相談してくれ」
ライーシャはわずかに意外そうな顔をしたが、すぐに頷く。
「了解した。……また改めて話が行くだろう。食事中に済まなかった」
一礼し、静かにその場を去っていった。
*
教室の窓からふと外を見下ろしていたルカの視線が、校庭のベンチに座る二人の姿を捉えた。
「……あれ?」
ナインの隣に座る、見知らぬ女の子。しかも、その距離はなんだか近い。
ルカの手元のノートの文字が、ふにゃりと歪んだ。
「……ナイン……?」
講義の内容が、急に頭に入らなくなったのは、気のせいではなかった。




