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魔導学園入学

 王国の北部に位置する辺境伯領の九月は、早くも秋の足音が聞こえていた。

 初秋の朝の風が、街路の並木を優しく揺らしている。


 クラウド男爵邸を出たルカは、新調された制服の袖口をそっと握りしめ、隣を歩くルミア男爵夫人に小さな笑みを向けた。

 その横顔には、少しの緊張と、少しの誇らしさと、そして何より胸の奥の期待が滲んでいた。


「大丈夫よ、ルクレツィア。堂々としていなさい。何も怖くはありませんわ。」


 ルミア・ヴァン・クラウド男爵夫人――柔らかな金茶色の髪を編み上げた淑やかな女性が、優しく声をかける。

 その微笑みは、まるで春の日差しのように柔らかく温かかった。

 ルカは、こくりと頷いた。


 少し遅れて、ナインが無言でその後ろを歩いていた。

 護衛としての役目を負い、いつものように表情の読めない瞳で前方を見据えている。


 学園へと続く石畳の道は、やがて同じような新入生たちで賑わい始めた。

 まだあどけなさの残る小さな少年や、少し大人びた顔の少女たち。

 祝いの言葉を交わす声、馬車の車輪が軋む音、制服の布が擦れ合う微かな音。どこか浮き立つような、春祭りに似た空気が街角に満ちていた。


 すれ違う少年少女たちの瞳が、輝きを宿してナインたちの一行に向けられる。

 だが、その視線がナインの姿を捉えた瞬間、空気がわずかに変わった。


 ナインの側頭部に艶めく濃青灰の角。

 左目の無機質な義眼。

 右頬に刻まれた戦闘奴隷の烙印。

 歩みを支える右足の装具。

 そして、僅かに張り出した後頭部の奇妙な形状。


 通りすがりの親たち、子どもたち、馬車の乗客までもが、その姿に無意識のまま視線を奪われ、そして、はっとしたように目を逸らした。


 けれどナインは、何の感情も動かさない。

 ただ、淡々と、無言で歩を進める。

 

 ルカは違った。

 ナインをちらりと見上げ、そして周囲の視線を感じ取った途端、きゅっと唇を引き結んだ。

 碧い瞳が怒りに揺れ、小さな手がまっすぐにナインの手を取る。


「ナインはナインだもん……。」


 低く、小さな声だった。

 けれど、その声には凛とした強さがあった。

 ナインの手を強く握り、歩幅を合わせるように並んで歩き出すルカ。


 ルミアは、そんな二人の小さな背を見つめ、苦笑するしかなかった。


「……あらあら。」

(……本当なら、貴族令嬢としては、叱らねばならないのだけれど……)


 ルクレツィアは、愛する義娘は、勇者なのだ。

 その二文字が胸を締めつける。


 勇者――。


 それは、この国において希望であり、同時に呪われた宿命を背負う者達だった。

 記録をひもとけば、勇者と呼ばれた者はルカを入れて、歴代でわずか五人。

 そのうち三人は、魔王とその軍勢と戦い、若くして戦死。

 残る一人は、栄光の裏で渦巻く貴族たちの陰謀に巻き込まれ、暗殺された。

 しかも、女性勇者は妊娠や出産を含む一連の行為にさえ制限が課せられるのだ。


 声は優しく笑んでいても、心の奥底でどうしようもない不安が渦を巻いていた。


 ナインがルカを支えようとする想い。

 ルカがナインを守ろうとする心。


 二人の未来にどんな影が陰るのか、ルミアには、もう分かりきっていた。

 けれど今は、ただ、二人の小さな背を見守ることしかできなかった。


 朝の光に、学園の高い塔が見え始める。

 これから始まる学園生活の一歩目だった。



 *



 荘厳な石造りの講堂に、入学式を終えたばかりの新入生たちのざわめきが広がっていた。

 高い天井、色褪せたステンドグラスから射し込む柔らかな光が、未来を夢見る少年少女の顔を優しく照らしている。

 ナインは教室の後ろで、静かにその光景を見つめていた。新入生たちの表情には、不安と期待、そしてわずかな緊張が入り混じっている。

 ここから先は、誰もが己の力を示さねばならないのだ。


「では、筆記試験を始めます。」


 試験官の硬質な声が講堂に響き、学生たちは一斉に配られた羊皮紙へと向き直った。

 ルカも小さな手にペンを握りしめ、真剣な瞳で文字を書き連ねていく。

 ナインはその横顔を静かに見守り、時折、周囲を警戒するように鋭い視線を巡らせた。



 *


 

 筆記試験が終わり、昼食を終えた昼下がり。

 訓練場脇の大樹の陰で、ルカとナインは腰を下ろしていた。

 家政婦グレイスの手作りの弁当箱が二人の膝にあり、ふわりと立ちのぼる香ばしい匂いが疲れた身体をそっと癒やしてくれる。


「いただきます。」


 ルカは小さく呟き、ナインと視線を交わしてから箸を取った。

 パンと肉料理、彩りの鮮やかな野菜のソテー。その中身に、ナインの表情もわずかに和らぐ。


 だが、その穏やかなひとときはすぐに破られた。

 

 四つの靴音が、乾いた音を立てながらこちらへと近づいてくる。

 ナインは手を止め、そっと視線だけで相手を確認しながら、そっと立ち上がり、ルカの斜め後ろに位置取った。


「これはこれは――クラウド男爵令嬢殿、勇者様にお目にかかれるとは光栄の至り。」


 芝居がかった口調でそう言い、ルカの前に立ったのは、優美な微笑を浮かべた少年だった。

 歳はルカたちと同じくらい。青銀の髪に、左右で色の異なる瞳――右眼が瑠璃色、左眼が翡翠色。金銀妖眼。

 整った顔立ちと相まって、その姿はまるで絵画の天使のようだった。

 その隣に寄り添うように立つのは、彼とよく似た顔立ちの少女。

 兄の軽薄さとは対照的に、どこか清楚で澄んだ気品を漂わせている。


「……辺境伯家の御子息、御令嬢……ですね。」


 ナインが低くルカに囁く。ナインは護衛として、ルカの同級生の情報は出来るだけ集めていた。


 ルカは立ち上がり、一行にカーテシーをした。


「お初にお目にかかります。ルクレツィア•ヴァン•クラウドでございます。」


 少年は芝居がかった身振りで胸に手を置き、優雅に頭を下げた。


「ご挨拶が遅れました。私はカーティス・ヴァン・シュトルムベルク――辺境伯家の次男です。こちらは双子の妹、ミレーユ。」


 ミレーユはそっと微笑み、ルカに綺麗なカーテシーを見せた。


「お目にかかれて光栄です、勇者様。お噂はかねがね……。」


 後ろに控えるのは、大柄でがっしりした体格の少年。従者としての矜持がその立ち姿に滲んでいた。確か男爵令息だった。

 そしてその隣に立つのは、短く刈り込んだ髪と鋭い眼差しの少女。どこか張り詰めた空気を纏い、男装の麗人とも呼ぶべき気配を持つ。ミレーユの護衛だろう、子爵家の令嬢だったはずだ。


「勇者様とその護衛殿のことは、以前よりお噂を伺っておりました。先日も邪神の一柱を調伏されたとか……いやはや。」


 どこか軽薄で女たらしめいた響きのあるカーティスの声に、ルカの頬がわずかに引き攣る。

 

「……ええと、ご挨拶はありがたく頂きますが、今は食事中ですので。」


 穏やかに、しかしはっきりとルカは応じた。

 ナインの気配が淡く変わる。そのわずかな変化を、ミレーユだけが敏感に感じ取ったのか、そっと兄の袖を引いた。


「兄様、あまりご無礼のないように……。」

「おっと、これは失礼。お気になさらず。いずれまた、ゆっくりとお時間を頂ければ幸甚です。その節には、頼もしい護衛殿も是非ご一緒に。」


 カーティスは笑みを崩さぬまま一歩下がり、その瞳の奥に興味深げな光を宿していた。

 ナインは無言でその場を見送り、ルカはそそくさと座り弁当の蓋をそっと開け直す。


「……さて、食事の続きを。」


 わずかに張り詰めた空気が、再び静寂に溶けていく。



 *


 

 昼食を挟み、武術試験の時間が訪れた。

 

 広大な訓練場に、新入生たちの緊張が張り詰める。

 模擬剣を手にした少年たち、少女たちが、次々と試験官の号令で試験を受験していく。


 そして、ルカの名が呼ばれた。


「ルクレツィア・ヴァン・クラウド!」


 その瞬間、訓練場の空気が変わった。

 小さなどよめきが、見学席に座る教師や親たちの間に波紋のように広がる。


「勇者……勇者様だって……?」

「本物の、勇者の器……?」


 ルカの金の髪が陽光に揺れ、碧の瞳が静かに正面を見据える。

 注がれる視線を感じ、ルカはわずかに唇を引き結んだ。


――この注目を、使おう。


 ルカは模擬剣を構え、試験官の方へと一歩踏み出す。


「試験官殿……お願いがあります。」


 その声は凛として澄み渡り、場の緊張をさらに強めた。

 試験官が眉をひそめ、促す。


「……なんだ?」

「この武術試験で、私が一番の成績を収めたなら、私の護衛――ナインに、魔法試験の機会をお与えくださいませんか。」


 場が水を打ったように静まり返る。何人かの生徒の顔が険しくなる。侮辱されたと感じたのだろう。

 ナインがわずかに目を見開く。

 試験官は驚いた顔を見せたが、やがて苦笑を浮かべた。


「ほう……面白い申し出だ。だが分かっているのか? この武術試験は、並の剣士では到底一番は取れんぞ。」

「もちろんです。」

 

 ルカは剣を握り直し、ナインへと視線を送る。 

 その瞳と瞳が刹那、交わる。

「信じて。」

 その想いがルカの瞳に宿っていた。

 ルカは自らとナインの力を示し、これから発生し得る、侮りや妬みの悪意の芽を摘むつもりだった。

 力を示すことで生まれる別のリスクも理解している。だがカーティスのような者には、すでに力は知られている――そう判断した。

 あとは立ち回り方だ。あの日、クラリスがくれた忠告が脳裏をよぎる。


――味方を作る。利になる力であると示す。脅威を与えすぎないように。

 試験官は肩をすくめた。


「いいだろう。見せてもらおうじゃないか――勇者殿。」


 熱気が、訓練場を満たしていく。

 午後の陽射しの下、訓練場中央にそびえる鋼鉄ゴーレム。

 全高二メートルを超え、黒光りする装甲は一般兵の弓矢程度は防ぐとされる試験用魔導具だ。


「標的ゴーレムに対する模擬戦だ。制限時間内に与えた損傷の度合いで評価する。ダメージは数値化されて計上される。」


 ルカはゴーレムを見上げ、静かに模擬剣を手にした。怯えも迷いもない。


「ルクレツィア・ヴァン・クラウド、試験開始!」


 試験官の号令と同時に、ゴーレムの目が紅く光り、ゆっくりと動き出す。

 だが次の瞬間、ルカの姿が消えた。

 目に映らぬほどの速さだった。

 風が唸り、稲妻のように駆けるルカが剣を振り下ろす。


「はっ!」


 乾いた衝撃音。

 ゴーレムの胸部装甲に閃いた光の軌跡は、一拍遅れて裂け目に変わった。

 鋼鉄の巨体が胸元から真っ二つに割れ、崩れ落ちる。


「……っ、嘘だろ……」

「一撃……あれを、一撃で……?」

 

 静まり返る訓練場。

 試験官は一瞬言葉を失ったが、やがて静かに宣言した。


「――ルクレツィア・ヴァン・クラウド、得点は計上不能。測定限界超えだ。」


 ルカは剣を納め、深く息を吐き、試験官を真っ直ぐに見据えた。


「ありがとうございました。」


 その声に応える者はなかった。

 勇者の放った一撃の余韻が、訓練場を支配し続けていた。



 *


 

 結局、ルカの試験成績は誰もが認めるところの、圧倒的なトップであった。

 ルカの一撃は、場の空気を変え、試験官たちの頑なな態度さえも軟化させるに足るものであった。


 そして――ナインは特例として、魔法試験の機会を得たのだった。

 午後の訓練場に、微かな風が吹き抜ける。陽は傾き始め、長い影が試験場の石畳を染めていた。

 見守る新入生たちのざわめきが、次第に静まっていく。


 ナインは黙してその場に立つ。

 細身の体躯、冷えた夜気のような気配。

 誰もが半信半疑のまま、あるいは奇妙な外見に些かの悪意を持って、その背中を見つめていた。


「……始めよ。」


 試験官の声は、ひどく乾いて聞こえた。

 

 ナインの唇が、ゆっくりと、しかし淀みなく動き始める。

 幽鬼の嘆きとも、死者の呻きとも形容し得ぬ、禍々しくも美しい詠唱の声が、訓練場の空気を震わせた。それは神々の呟きのようでありながら、どこか悪魔の呪詛のように現世の理を拒絶する異質さを纏っていた。

 詠唱は重なり、絡み合い、二重の音律が幾重にも織り成される。


 第六階梯――高位の術式が、二重に、同時に紡がれていることに気づいた瞬間、試験官の瞳が大きく見開かれた。


 数十秒の詠唱が続く間、場は張り詰めたような静寂に包まれていた。

 ただ、ナインの声だけが夜闇の風のように響き渡り、見る者の胸に冷たい手を差し入れるかのようだった。

 そして、詠唱が終わった。


獄焰崩衝メガデウム


 鍵言と同時に、空間が弾けた。

 二つの第六階梯魔法――それは灼熱の閃光と、爆発の二重奏だった。

 

 閃光と膨れ上がる炎の一瞬後に、衝撃と爆音が周囲に雪崩れ込んだ。爆風が白茶けた砂塵を撹拌しながら吹き抜け、数分して残響が過ぎ去った後、試験結果が確認できた。


 標的のゴーレムは、粉々になり消し飛んでいた。そして、訓練場の半ばが吹き飛ばされ、大きなクレーターが二つ、第六階梯の威力を遺していた。


「……っ、あ……」


 誰とも知れぬ小さな呻きが、見学席のあちこちで漏れる。

 試験官は、ただ絶句していた。

 その顔には驚愕と恐怖、そして、底知れぬ畏れが入り混じっていた。


 静けさが戻った訓練場。

 微風が、舞い上がった砂をさらっていく。


「終わりました」


 ナインは、無表情に告げた。

 その抑揚の無い平坦な声が、かえって人々の胸に異常さを深く刻みこんだ。

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