依頼②
ロイとクラリスは慎重に部屋の中を調べ終えると、静かに戻ってきた。古びた教会の中に、二人の足音だけが乾いた音を立てて響く。
「……間違いない。タグの番号と装備、あの白骨は行方不明になった冒険者パーティだ。四体、全部確認した」
ロイの声は低く、どこか疲れがにじんでいた。クラリスはひとつ、深く息を吐いた。
「もう一体は、神父でしょうね……祭服に、シエル=レアのシンボル……あれがカラス神父と見て間違いないでしょう」
薄暗い教会の中で、誰も言葉を継げなかった。砕けた燭台と壊れた椅子だけが、夕陽の残光に沈んでいた。
「……他に何かは?」ナインが問うと、ロイは小さく首を振った。
「日記が一冊だけ、神父の遺体のそばにあった。あとはめぼしいものは見当たらなかった」
ロイは手にした古びた手帳を見下ろした。表紙は煤け、角が擦り切れている。教会の空気はさらに重く、ひどく冷たく感じられた。
しばらくロイはその場に立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。
「……一度村を出よう。このままここで夜を迎えるのは避けた方がいい。状況を整理して作戦を練り直す。いいな」
その提案に反対する者はいなかった。
夕暮れの光が細く差し込む中、四人は無言で教会を後にした。扉を閉める音が、やけに大きく耳に残った。村の外へと向かう足音だけが、寂れた道に淡く響いていた。
その背後、ひっそりと静まる教会の奥で、何かがじっとこちらを見ているような気配だけが、消えずに残っていた。
村の外れに向かって歩き始めた四人は、しばらく無言のままだった。乾いた土の道を踏む音だけが、どこかよそよそしく響く。風はなく、空気は重く、肌にまとわりつくようだった。
ナインは慎重に地形を確認しながら歩いていた。だが――
「……おかしい」
小さく呟いて足を止めた。見上げると、そこにあったのは、確かに教会の尖塔だった。村の外れに出るはずが、なぜか彼らはまた教会の前に立っていた。
「……は?」ロイが訝しげに眉をひそめる。
「こんな馬鹿な……同じ道を歩いたはずなのに、どういうことだ……」
再び道を変えて進む。別の方角へ。今度は細道を選び、意識して曲がりくねる道をたどる。だが――結果は同じだった。
足元の土埃の匂い、枯れ草の感触、そして前方に見える石造りの教会の壁。何度進んでも、気づけばその前に立たされていた。
「……ゼロ、何か異常は……」
ロイの声が微かにかすれる。
ナインは無言で探知を繰り返したが、やがて小さく首を振った。
「異常は……無いと思います。少なくとも、俺の検知範囲には……」
ルカは無言のまま教会を見つめていた。その青い瞳に、淡い不安の色が滲んでいる。
「なんで……」
彼女の唇から漏れたその声は、夜気に吸われて消えていった。
そして、ふと気がついた。空が、妙に暗い。ほんの今しがたまで昼過ぎだったはずだ。
だが、周囲はもう薄暮の色に染まり、空の端は紫色に沈み始めていた。
太陽は雲に隠れたのではなく、ただ、沈んでいくように消えていく。
「……まだ昼のはずだよな……」ロイが呟く。
返事はなかった。誰もが、その異様な光景に声を失っていた。教会の窓に映った影が、わずかに揺れたような気がした。
*
やむを得ず、一行は教会の中で一夜を明かすことを決めた。
教会の奥、埃を払ったわずかな床の上に荷を降ろし、乾いたパンと水で簡単な食事を取る。外はすっかり夜の色に沈み、窓の外には墨を流したような闇が広がっていた。時折、風の音が遠く低く響き、まるで誰かが囁いているように聞こえた。
「……確認しよう」
小さな魔法ランプの光の下に、カラス神父の革表紙の古びた日記帳が置かれた。ページの端は擦り切れ、ところどころ煤けている。ロイが静かにそれを開き、皆が息を潜めた。
最初の数ページは、平穏な日常の記録だった。ファニー、と記された神父の妻への愛情が何度も綴られていた。ささやかな食卓のこと、畑のこと、教会の修繕のこと。そして妻が懐妊したことが、滲むような文字で記されていた。その文面には、確かに幸福の気配があった。
「いつのまにか、村外れに旅の魔法使いが住み着いた」
そこから先、日記の言葉は硬く、怯えを帯びたものへと変わっていく。
「村の家々の影が、日ごとに長く歪んで伸びる……影の中から声がする。誰かが呼ぶ声……囁く声……」
「村人たちの夢に、光球の群れが現れる。門が……無数の門が空の上に、地の底に、開いているのを見たと……夢を見た者は、皆……消える。どこへ行ったのかわからぬ……」
「家畜が……気づけば白骨となって転がっていた。血も肉も、ただ消えたように……」
ロイの指が、震えを隠しきれずにページをめくる手を止めた。
「冒険者に調査を依頼した……だが……」その先の文字は掠れ、震えていた。
そして、皆の息が詰まった。
「ファニーが……月足らず、子を産んだ。だが……あれは……子ではない……形が……肉塊のような、半透明の……球のような……目の位置が……口の位置が……おかしい……」
日記はそこから先、乱れた筆跡で書き殴られ、ほとんど判読できなかった。掠れたインクが、乾いた血のように見えた。
ロイがそっと日記を閉じると、微かな音が教会の中に響いた。沈黙が、空気を押しつぶすように広がる。窓の外で、風がまた囁くように吹いた気がした。
「……旅の魔法使いを探すしかないかな」
ロイの沈んだ声に、誰も反対しなかった。日記に記された現象と、あの“子”の記述が、一行の胸に重くのしかかっていた。
クラリスは手を胸の前で組み、唇を薄く噛んだ。
「……この村に入ってから、シエル=レアへの祈りが届きにくいのです。何か……こちらと神との間に、厚い壁があるような……」
その声はわずかに震え、いつもの落ち着きが揺らいでいた。彼女は小さく息を吐き、言葉を続ける。
「日記の記述と合わせると、邪神や悪魔が介入している可能性があると思います」
夜の静寂が教会を包む中、ルカがふと窓際に歩み寄り、外を見た。
「……あれ……」
小さな声に、皆が窓の外を覗く。森の向こう、村の外れ。
闇の中から、淡く揺らめく光が立ち上っていた。赤とも青ともつかない、冷たく、どこか生々しい光。風がないのに、その光の中の空気だけが波打つように揺れていた。
「行こう」
ロイが短く告げ、一行は駆け出した。村の外れに近づくにつれ、光は強く、はっきりとその姿を見せ始める。木立の間から覗いた光景に、誰もが言葉を失った。
*
開けた地に、半透明で球状の肉塊のようなものが浮かんでいた。大人三、四人が手をつなげば囲めるほどの大きさだ。内部で赤黒い影がとろりと流れ、脈打つように何かがうごめいていた。
その周囲に、村人たちが跪いていた。もはや人とは呼べぬ姿。腕や脚の関節は異様に曲がり、皮膚は青白く裂け、そこから不自然な眼のようなものが覗いていた。彼らは口々に、しかし声を揃えたように肉塊を呼んでいた。
その奥、黒いローブの老人が一人立っていた。白髪を風に揺らし、骨ばった手を宙にかざし、肉塊へ向けて呪文を紡いでいる。その声は耳に届くはずなのに、遠く夢の中の響きのようだった。
空気は生臭く、鉄の匂いが混じっていた。一行はただ、その場で異様な光景に立ち尽くした。
突然、村人たちがぬらりとこちらを振り向いた。白く濁った瞳に光はなく、人形のような無表情。そして一斉に、呻き声のような叫びをあげた。
「……!」
その声が森に響くと、異形の村人たちは地を這い、跳ね、ナインたちへと襲いかかってきた。
ルカが剣を抜き、ロイが並ぶ。クラリスは祈りを紡ごうとするが、その声は霧の中に吸い込まれるように消えていった。
その中で、幽鬼の悲鳴のような声が響いた。
生者とも死者ともつかぬ、耳を裂くようでいて、どこか悲しげな声。
ナインの高速詠唱だ。
詠唱の言葉が重なり合い、高速で編まれていく。二重に重なる呪の音律が、空気を震わせた。
ナインの並列高速詠唱、第六階梯魔法。
「――天槌雷轟」
鍵言を唱えた瞬間、天地が逆転するかのような気配が走った。
息が詰まる。空気が突然、別のものにすり替わったかのようだ。胸を押しつぶす圧迫感。見えぬ巨手が頭上から大地ごと押し潰そうとしているようだった。次の瞬間、気圧が急激に下がり、耳が痛む。
暴風が生まれた。冷たい風と熱を帯びた風が交錯し、空気が悲鳴を上げる。
黒雲が螺旋を描き、天を貫く塔を築く。稲光が雲の縁を走り、その様は天空の龍の群れが蠢いているようだった。
閃光—閃光—轟音、閃光—轟音--閃光
雷が捩じくれた槍のように地を撃ち、闇が裂け、白光の中に世界の輪郭が刻まれる。怒れる雷が、天と地を繋ぎ、目の前の全てを討ち果たしていった。
嵐の中で敵は、粉々に焼き砕かれていく。ナインは魔法制御のため手を空に伸ばしている。
その姿は稲妻の残光の中で、天を呪う亡霊のように見えた。
*
雷鳴の残響が、空の彼方へと遠ざかっていった。静寂が戻る。風が止み、煙が薄れ、雲が裂け、夜空に星の光がかすかに瞬いた。
その下に、奴はいた。
闇の向こうから現れたのは、醜悪な半透明の肉塊。ぶよぶよとした球体が、不定形に脈打ちながら、ゆっくりと姿をさらす。無数の眼窩のような窪み、どこかで笑う口のような裂け目が、光を反射して不気味に歪んでいた。
よく見れば、その表面には焼け焦げたような痕が点在している。
だが――その直上には、まるで傘のように広がった黒い膜があった。夜の闇よりもなお深いその帳が、雷の連撃の大半を、確かに防いでいたのだ。
「……ッ!!」
敵が健在であることを悟った瞬間、ルカは躊躇なく地を蹴った。
金色の髪が光の尾を引き、蹴られた地面が爆発的に土や砂利を跳ね上げる。
身体強化を限界まで高め、その剣が雷よりも速く肉塊へと迫った。
鋭い斬撃が肉塊の表皮に達しようとした、その刹那――黒い傘が音もなく横へ滑り出た。
ルカの剣はそのまま傘に触れ、ギンッと嫌な音を立て、刃が接触部から削り取られた。
「……なに……っ!?」
すかさずルカは跳び退き、距離を取る。鉄塊すら容易く断つ勇者の剣が、まるで紙のように削ぎ落とされたのだ。
すぐさまサブウェポンのロングソードを抜き放ち、肉塊を鋭い眼光で睨みつけた。その瞳は冷たく、敵の弱点を見極めようとしていた。
その背で、ナインが詠唱を開始する。人面瘡レヒツ、リンクスも加わった四つの詠唱が、輪唱のようにひとつの呪を紡ぐ。
第三階梯魔術――それを並列に、高速で、連続で、限界まで重ねていく。
ヂヂヂ……!火花を散らすような連続した高速詠唱が、数十秒続いた。
その連続音とともに空間が歪み、肉塊を覆い尽くすように数十個の魔法陣が次々と展開する。
向こう側も見えないほど、無数の光弾――マジックミサイルの雨が、あらゆる方向から肉塊を襲った。
まるで大地を連打する豪雨のように、魔力の矢が降り注ぎ、肉塊の表面を削り取っていく。しかし、闇の傘にぶつかった光弾は、ただ呑み込まれてしまった。
ナインの眼が、闇の傘の展開範囲と隙を探し、光弾の雨を制御していた。
闇の傘がどこまで広がり、どこに破綻が生じるのか。
魔弾の嵐。その向こうで、なおも蠢く肉塊の影。
――傘の展開範囲は一方向。角度は二百度。複数展開はなし。第三階梯では削りきれない。
ナインは解答を得ると、ルカに視線を送った。ルカもまたナインを見つめ返す。二人は静かに、だが確かに頷いた。
そして――攻撃に移ろうとした。
だが、その刹那。
肉塊が、喉奥から響くような禍々しい雄叫びをあげた。音というより、脳髄に直接叩き込まれるような震え。空気が歪み、世界の色さえ滲んで見えた。
「く……ッ!」「頭が……ッ!」
精神を蝕む衝撃波。それは理性を抉り、正気を引き裂く音の刃だった。ルカとナインの視界がぐにゃりと歪み、頭の中に濁流のような狂気が流れ込む。
――やめろ。いやだ。何かが崩れていく。
正気と狂気の境界が溶け、刹那、ふたりは自我を見失いかけた。
笑いたくもないのに笑みがこぼれ、意味のない言葉を呟きそうになる。
まるで幼子のように、すべてを忘れたくなる衝動。
それは、狂気と痴呆への入り口だった。
ルカは反射的に龍脈への接続深度を深め、身体強化の魔力を瞬時に増加させ、精神汚染を力づくで弾き返した。頭の中の霧が、一瞬で晴れる。正気が戻る。
「……ナイン!」
ナインを見る。立ち尽くしていた。
その瞳に光はなく、呆けたように闇の中に佇んでいた。
肉塊が、闇の傘を広げる。ナインを呑み込もうとしていた。
ルカは駆けた。迷わず飛び込み、ナインの体を抱え、そのまま勢いよく後方へと飛び退った。
闇の傘が、すぐ目の前で地を覆い、ナインが立っていた場所を飲み込む。
冷たい風がルカの頬をかすめ、耳の奥で低い唸りが響いた。左肩が熱い。
ルカは地を転がりながらも、ナインを庇い、強く抱き締めた。
呆けたナインの頭上に――一条の光が降り注いだ。
闇の中でも煌めく、清浄の光だった。
ロイは、肉塊の健在を確認した瞬間から、動き始めていた。手早く聖別を施した短剣を地に突き立て、聖水をその刃に垂らし、光の輪を描く。
簡易結界――肉塊の影響を断ち切る防壁だった。
「簡易結界だけど、いけるか? クラリス……!」
ロイの低い声が響く。結界の中に、重たく淀んでいた空気が、わずかに清められていく。その中心で、クラリスが膝をついた。白く細い指を組み、血の気を失った唇で祈りを紡ぐ。
第六階梯の神聖魔法――高位の浄化と解呪の祈りだった。
「……光よ……我らを護り、正しき理を示したまえ……!」
清らかな光が結界の内に満ち、ナインとルカを一条の光が照らした。
肉塊の禍々しい呪詛の痕が、ひとすじの風に流されるかのように消えていく。
ナインの瞳に、光が戻った。
ルカもまた、心の奥に巣くっていた闇が祓われたのを感じ、深く息をついた。
だが――クラリスの体は、すでに限界だった。第六階梯を発動させた代償。消費される魔力量から、一般的には一日一回の行使が限界である。
冷たい汗が頬を伝い、胸の奥の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
魔力欠乏だ。
力が抜け、立ち上がることもできない。それでも、クラリスは震える声を上げた。
「……決めてください……!」
その声は、はっきりとルカとナインの耳に届いた。
正気に戻ったナインの瞳が、目の前のルカをとらえた。自分を庇って飛び込んできた、その小さな身体。
ルカの左肩が、傘に抉られ、布の下から赤い血が滲んでいた。
「……ルカ……」
ナインが声を漏らすと、ルカはかすかに微笑んだ。戦意の宿った瞳で、まっすぐナインを見返す。まるで、「大丈夫。だからあなたは、あなたのすべきことを」と告げるように。
ナインは、深く一度うなずいた。その瞳に、迷いはもうなかった。
*
ルカが、傷つけられた。
俺を庇って。
殺意で、どうにかなりそうだった。
やつの黒い傘は、攻撃を飲み込み、防御を無視する。
一つ間違えば取り返しがつかなかった。
ルカを失ったかもしれないという恐怖で、俺の心は凍りついた。
敵と自分への怒りで、俺の感情は焼き切れた。
精神汚染で崩され、除染された瞬間に突きつけられた事実で、俺の情動は振り切れてしまった。
殺意が膨れ上がった。すさまじい速度で膨れ上がり、破けて弾けた。
*
詠唱を始めた。
熱いのに、冷たい。
感情はとうに焼き切れているというのに、意識だけは異様なまでに冴え渡っていた。
指先の先まで支配するその殺意に、ナインの魔力制御は、恐ろしいほど研ぎ澄まされていた。
「レヒツ……砂嵐葬。」「リンクス……煉獄。」
「合わせろ。」
ナインの喉が、二重高速詠唱を開始した。
それに合わせ、右手甲の人面瘡レヒツ、左手甲の人面瘡リンクスも、それぞれ異なる詠唱を紡ぎ始める。
異口が吐き出す異なる高速詠唱は――まるで
墓を掻きむしる死者の爪音のようで。
錆びた刃が斬撃を放つときの擦過音のようで。
狂人が鉄弦を掻き鳴らすような、背筋に冷たいものが走る響きだった。
ナインの右手の人面瘡が、地から砂塵と砂礫を呼び寄せ、山のように積み上げていく。地の魔力がうねり、大地を砂礫に変えていく音が響く。
同時に左手の詠唱は、紅蓮の海を現出させた。地を焦がし、空気を灼き、その熱は夜気をたった一瞬で吹き飛ばした。
「天嵐。」
砂の竜巻が唸りを上げ、周囲の闇を引き裂く。
火の魔力が暴風と化し、熱と爆ぜる火花を撒き散らす火災旋風となった。
右手と左手の魔法を、ナインの風魔法が繋ぎ、融合させる。
ナインの側頭部の角が帯電し、髪がゆらゆらと不気味に蠢いた。複数の第五階梯魔法を、ナインは力づくで結び、暴れ狂う魔力の奔流を一点に収束させた。
砂礫を巻き込んだ火災旋風は、その内部で溶岩のように赤熱し、灼けた岩片が高速で回転する。巻き込むものを粉々に砕き、焼き尽くす、まるで掘削溶鉱炉のような溶岩旋風。
それはのたうつ巨大な蠕虫のように咆哮を上げ、肉塊に襲いかかった。
だが、肉塊が広げた闇の傘は、その炎の蠕虫の顎すら、苦もなく飲み込んだ。
魔力を供給し続ける限り、ナインの魔法は持続する。
結果――闇の傘に、炎の蠕虫が延々と呑み込まれ続ける膠着が生まれた。
一瞬の沈黙の後。再び肉塊が、狂気と痴呆を誘う絶叫を放った。
だが、ナインは能面のような無表情でそれを受けた。
微動だにしなかった。
凍り、焼かれ、振り切れた精神は、硬質な殺意の単結晶と化し、もはやどんな干渉も意味を持たなかった。
角が帯電し、髪が揺らめく。その顔は能面のようで、右目の瞳孔は開ききり何の感情も映さず、左の義眼だけが紅く輝き、文字列が高速で流れていった。
今のナインは、ただ、殺意を込めて、標的に炎を叩き込む死神そのものだった。
そして均衡が崩れ始める。闇の傘は魔法を防げても、輻射熱までは防げなかった。
傘の周囲、肉塊の表面が焦げ、炎を上げ始める。肉塊がそれを嫌がり、闇の傘をナインに向けて押し出してくる。
闇の傘と肉塊の間の距離が開いた――わずかな隙が生まれた。
「剣気放出ッ!!」
ルカが、龍脈からの魔力をロングソードに流し込み、闇の傘の死角――その展開範囲の外から、高速で突っ込んできた。ロングソードの刃は魔力により三倍以上に延伸し、大上段から振り下ろされた斬撃が空気を切り裂く。
「魔――神剣ッ!!」
ジ=ゲン流の高速斬撃。延伸した刃の切先が音速を超え、超音速の剣閃が肉塊を半ばまで断ち切った。続けざまに発生した衝撃波が肉塊の巨体を圧壊させ、闇の傘を霧散させる。
手応えを感じたルカは、即座にその場から跳び退いた。
千切れ、ひしゃげ、闇の傘を失った肉塊に――炎の蠕虫の顎が喰らいついた。




