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覚悟完了

 ゼルダの研究室。棚には魔導器と薬瓶、魔法陣を描いた羊皮紙が無造作に積まれ、窓辺のハーブの香りが微かに漂っていた。

 机でゼルダが羽ペンを走らせていたが、足音にふと顔を上げた。


「……レティシア? 随分顔が赤いじゃない。どうしたの?」


 レティシアは論文草稿の束を机に置くと、息をついた。


「先生……お願いです、これ、査読を……冷静な目で見てください。現場で観察してたせいで、私、もう、主観が入ってるかもしれません……ゼロの生殖能力確認実験のデータです。」


 ゼルダの手が止まった。興味深げに草稿に目を落とす。

 そして、すぐに声を上げた。


「一回の射精量、平均十五ミリリットル……。……っ、あんたこれ、計測間違いじゃないの?」

「間違いじゃないんです……何回か確認しました……しかも、一晩の性交回数、平均七回。お相手は全員、泡吹いて失神してましたよ……」


 ゼルダは唇を引き結び、声を殺して笑った。


「……やるわね、ゼロ。想定以上の成果じゃない。で?被験者は無事なの?」

「無事といえば無事ですけど……大丈夫かと言われると…なんか色々と戻れなくなった人が居るような……」

「どういうこと?」

「例えば、あの舌。二股で、長くて……もう……本当に、えげつなかったです。」


 ゼルダの視線がぴたりと止まった。


「……二股の舌って、あれ?」

「はい、並列詠唱だけではなかったんですね、あれ。被験者から自由記載で報告書作成してもらいましたから、詳しくはそれを読んでください。」


「……へぇ、そんな奥まで届いてねぇ……ははぁ、なるほど……ほぉほぉ、別々にね。こりゃ、確かにえげつないな」

「さらに、囁き声が……セイレーンの咽頭の効果だと思うんですけど、自律感覚絶頂反応を起こすみたいです。耳元で囁かれるだけで、被験者全員、ビックンビックンしてました……脳みそ溶けたんじゃないかと思いましたよ」


 ゼルダは喉を鳴らし、椅子に背を預けた。


「ASMRねぇ……高速詠唱以外にも使えるのね……で、四か月で被験者三名、全員妊娠確定っと……自分で言うのもなんだけどね。あたしは、すごい怪物を作ってしまったのかもしれない」

「はぁ、変なキメ顔しないでくださいよ。でもまぁ確かに、現状ゼロの生殖能力は問題なさそうですね。」


 レティシアは草稿を机に置くと、肩をすくめた。

 疲れの色を隠しつつも、どこか軽い笑いを浮かべてゼルダを見やった。


「これじゃ、ルカちゃん、大変ですね。ふふふ……」


 ゼルダは椅子の背に身を預けたまま、瞳を細めた。


「冗談で済む話じゃないわ、レティシア。

 実際、先代の女勇者は……妊娠・出産を経た後、明らかに魔力量が減衰して、その上で戦死した記録が残ってる。」

「……その話、私も聞きましたけど、どうなんですか?

 記録上、女勇者なんて一人しかいませんよね?たったの一例、しかも……百六十年前。信ぴょう性、どうなんでしょう。」


 レティシアは机に肘をつき、頬杖をついてため息をついた。

 ゼルダは静かに笑みを浮かべ、だがその瞳に、魔女としての冷静な理性の光を宿した。


「……確かに記録上、女勇者はその一例しかないわ。でもね、女性魔法使いが妊娠・出産を経た後に、魔力量が減る現象があることは、ちゃんと確認されてる。

 だから、あながち否定しきれないのよ。

 女勇者の魔力と生命力は、神聖魔法と龍脈接続で無理を重ねてるんだもの。」

「……確かに、王国は女性勇者の妊娠出産は、性行為も含めて制限をかけてますね。」


 レティシアは頬を膨らませたが、ゼルダの真剣な表情に、口元の笑みを消した。


「……万一、ルカちゃんに何かあってからでは遅いのは、分かるんですけど。可哀想に思っちゃうのは、私だけですかねー。」


 ゼルダは手元の草稿をぱらりとめくり、赤ペンを走らせた。


「……それにしても、この結果見たら、別目的の研究立ち上げてもいいかもしれないわね。お金儲かりそう。」

「先生……思いつきで始めるの、やめてくださいよ。私だって赤ちゃん生まれたばっかりだったのに、連日泊まり込みで他人の性行為を観察させられて、大変だったんですからね。

 研究始めるなら、誰か雇ってください。」


 レティシアの声が、わずかに強張った。


「あぁ、ごめんなさい。結婚三年目、育児ほったらかしにして、連日他の男の射精量を測ってる、って確かに家庭の危機だわね。」

「言い方!! 旦那には先生からも、きちんとフォローしておいてくださいよね!」


 二人の魔女の視線の先で、ゼロの名が刻まれたデータシートが、書斎の光に静かに照らされていた。



 *



 男爵邸の庭の一角、古くから修練場として使われてきた硬い土の広場には、昼前の穏やかな陽光が斜めに射し込んでいた。空気にはわずかに土と草の匂いが混じり、吹き抜ける風がナインのローブの裾をはためかせた。


 その場に相対する二つの影。


 一人は、静かな山のようだった。

 分厚い胸板、太い首。

 岩のように鍛え抜かれた腕、太いロープをより合わせ作ったような足。

 手にした愛用の大剣は、剣というより鉄塊に見える。刃に陽光が反射し、銀色の光が一瞬だけ修練場の地面を照らした。

 彼の全身から立ち昇る威圧感は静かだが、小揺るぎもしない。

 辺境伯領第一騎士団副団長、ジ=ゲン流剛剣術剣帝、不壊の剛腕エグバード。王国最強の一角だった。


 一方は、黒を基調とした軽装に身を包んでいた。冒険の際と同じ、動きやすさを重視した装いに、簡素な黒のローブを羽織っている。

 成長期に入り身長は伸び始めていたが、その痩せた体躯はエグバードの前では小枝のように見えた。

 しかし、両手甲には人面瘡が浮かび上がり、側頭部の角は淡く輝きながら光を増している。左目の紅く瞬く義眼に目まぐるしく文字列が流れ、漏れ出る魔力で周囲が揺らめいていた。

 ナインも既に全開だった。


 二人の間には、ただ沈黙があった。

 そして、巨漢の口が静かに開く。


「剣士の間合いだ……初手は譲ろう。」


 その声は低く、地の底で響くようだった。


「覚えておけ。戦闘奴隷が倒れる時、敵の刃はルクレツィアに届く。お前の力、見せてみろ。

 ――《不壊の剛腕》、砕いてみせろ。」


 あからさまな挑発だった。

 ナインの右目の瞳孔がキュッと開く。

 視覚化しそうなほどの殺意を伴って、ナインの魔力が膨れ上がり、ナインの姿が蜃気楼のように揺れた。


「……承知。」


 チッとナインの口元で、舌打ちのような音が鳴る。

 第二階梯の高速詠唱。風を操る魔法がコンマ一秒で発動した。

 ナインのローブから黒い粉が漂い、エグバードを包んだ刹那、再度口元で高速詠唱。一瞬の火花と共に、黒粉が大爆発を起こした。

 粉塵爆発。高密度の可燃性物質の一斉燃焼は、物理的な熱と爆風でエグバードを包む。


 その瞬間、ナインは風魔法を纏って後ろに飛び退く。


 続けて数秒の高速詠唱。

 第四階梯の風と水魔法の同時発動が、爆発とナインの間に雷雲を形成した。

 雲の内部で氷の粒が激しくぶつかり合い、摩擦によって静電気が発生。強制的に蓄積させられた電荷は瞬時に飽和し、絶縁の大気を破り、鉄塊――エグバードの剣に向けて幾条もの閃光となって疾った。


 爆炎から雷撃まで十秒にも満たぬ攻撃の最中、均衡を破ってエグバードが剣を振り上げ飛び込んでくる。

 熱と紫煙を置き去りにして、剣に雷を纏わせながらナインに向けて唐竹割りに鉄塊を振り下ろす。

 ジ=ゲン流剛剣術奥義、雲耀の剣。

 音を置き去りにした必殺の剣は、ナインを袈裟斬りに吹き飛ばし、振り下ろした瞬間、雷鳴と共に衝突音が周囲に鳴り響いた。


 ナインの身体が、エグバードの放った一撃で吹き飛ばされる。黒衣の影が土煙を巻き上げ、修練場の地面に叩きつけられて数回バウンドする。


「――っ!」


 声にならない悲鳴が、ルカの喉奥から絞り出された。

 視界が赤く滲む。理性など、吹き飛んでいた。

 次の瞬間、ルカの身体は弾丸のように動いていた。

 鍛え抜かれた身体強化の魔力で全開の速度を引き出し、地を蹴った。その足跡はまるで爆ぜるように土を割り、風を唸らせる。


 ナインに飛び付いたルカは、そのままナインを守るように覆い被さった。


「見事だ。」


 数瞬の沈黙の後、エグバードの声が響いた。


「えっ?」


 声に釣られてエグバードに視線を移したルカは、跪いている義父を見た。

 戦士として鍛えられてきたルカは、急速に冷静さを取り戻し、状況を認識し始める。


 まず、ナイン。

 袈裟斬りにされており、衝撃で骨は何本か折れているようだが、刀傷は浅かった。骨は断たれておらず、内臓も無事だった。エグバードの雲耀の剣をまともに受けていれば、胴体は両断されているはずだった。


 次に、エグバード。

 剣を振り下ろした時に踏み抜いた地面が、不自然に陥没している。エグバードが足を引き抜くと、足を短槍が貫通している。さらに穂先は不自然に黒く濡れている。エグバードは、脂汗を流し呼吸も浅くなっている。毒だろう。


 試合の本質はこうだった。


 ナインが爆炎と雷撃でエグバードに目眩しをかけた。

 得られた数瞬の隙を突いて、エグバードの踏み込みを予測、踏み込み場所の地面に空洞を作り、そこに毒槍を仕込んだ遠隔制御されたドローンを潜ませた。

 誘導され、落とし穴を踏み抜き、足を貫かれたエグバードの斬撃は、インパクトの瞬間展開されたナインの物理防御結界と、咄嗟の体捌きにより目標を外したのだった。


 ナインは、高速詠唱と並列詠唱、思考加速と義眼によるドローン遠隔操作、自身に装備された全てを使って、辺境伯爵領最強の剣士を迎撃してみせた。


 見事な戦果だった。



 *



 ――夢現の中で、あの時の光景が甦る。


 ――私と立ち合ってくれ。

 その言葉を耳にした瞬間から、考えている。

 (……真正面からでは、勝てない)


 ――三十分、時間をいただいても?

 先ずは時間を稼ぐ。


 ジ=ゲン流剛剣術。魔法使いの天敵。


 ジ=ゲン流は、魔法使いにとって最悪の相手だ。

 練り上げられた高密度の身体強化を体全体に均等に展開することで、魔法攻撃の通りを著しく鈍らせる。

 全身を鎧のような魔力障壁が包み、熱も衝撃も受け流す。

 高位のジ=ゲン流剣士の魔法耐性を貫くには、第六、あるいは第七階梯以上の高位魔法が必要だ。しかしその詠唱には、ナインでも数十秒を要する。

 詠唱中に首を落とされるのが関の山だ。

 (だから、選択肢は限られる)


 魔法ではない攻撃力が必要だ。

 ロイとの冒険の経験は、魔法が絶対ではないことを教えてくれていた。


 手持ちの札で選べる手は二つ。

 ひとつは粉塵爆発。微細な金属粉を操り、周囲に散布、瞬間的に起爆させる。

 酸素を奪い、衝撃波で叩く。防御をもろとも焼き尽くす、暴力の炎。

 もうひとつは人工雷撃。人工的に雷雲を作り出し、そこから発生した雷は、魔法ではなく自然現象となる。

 いずれも、前世の記憶から考え出した方法だった。

 (だが、足りない)


 練り上げられた高密度身体強化の物理耐性と回復力は侮れない。まして相手は《不壊の剛腕》だ。黒焦げになっても剣を振るってくるだろう。

 (なら、俺がやるべきは真正面からの勝負じゃない。罠を張り、布石を打ち、不意を突いて、致命の一撃を確実に突き立てる)


 ――どうすれば良い? 手持ちの札には何がある?


 俺は増量された脳によって神経伝導速度を上げ、思考を加速させた。ロイの教えと冒険の経験は、数分でひとつの戦術を構築した。


 修練場で、エグバード様と対峙していた。

 色覚遮断、温痛覚遮断、味覚遮断。

 不要な情報を遮断して負荷を減らし、情報処理速度を上げ、思考を加速。

 反応速度を限界まで上げる。


「剣士の間合いだ……初手は譲ろう。」


 エグバード様の声が、モノトーンになった視界の中で響いてくる。


「覚えておけ。戦闘奴隷が倒れる時、敵の刃はルクレツィアに届く。お前の力、見せてみろ。――《不壊の剛腕》、砕いてみせろ。」


 加速した思考が、突然理解を促した。

 戦闘奴隷になるということは、そういうことか。

 俺が倒れるということは、ルカが脅かされるということか。


 ――それは、許せなかった。


 ありがとうございます、エグバード様。

 俺はルカの隣にいる限り、ルカの敵はすべて薙ぎ払ってみせます。


 「……承知。」


 ――覚悟完了――



 *



 光が、静かに揺れていた。

 まどろみの底から、意識がゆるやかに浮かび上がっていく。

 夢の名残が、音もなく溶け、消えていった。


「……ここは……」


 掠れた声が、乾いた喉の奥から洩れる。

 重たい瞼をようやく持ち上げると、見慣れぬ天井が視界に映った。

 男爵邸の客間。静謐で、どこか暖かな空気が漂っている。

 そのとき——頬に、熱い雫が落ちた。


「ナイン……っ! ナイン……!」


 泣き声だった。

 小さな体が全身を震わせ、勢いよく胸に飛び込んでくる。

 顔をナインの胸に埋め、ただひたすらに涙を零す少女。


「……ルカ……?」


 微かに動く指先が、頼りなくルカの背を探り、そっと抱き寄せた。

 金糸のソバージュの髪が頬に触れ、涙の熱が静かに肌を濡らしていく。


「……無事……で、よかった……」


 ルカの声は嗚咽に濡れ、幼く、震えていた。

 ナインはただ、そっとその頭を撫でる。

 腕に感じる体温が、これが夢ではないことを告げていた。


「ゼロ……体調はどうですか?」


 低く穏やかな声がした。

 白髪を美しく撫でつけた老執事エリオットが、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 その傍らには、柔和な微笑を湛えた老婦人——グレイスが寄り添っていた。


「わたしたちは、神聖魔法が少しばかり使えましてな。ゼロも旦那様も、今はどこにも傷はおありにならぬはずです」

「……目覚めたか、ゼロ」


 大きな影が、静かにその姿を現した。

 男爵は無言でゼロ(ナイン)を見つめ、そして深く頷いた。


「見事だった」


 その一言に、あらゆるものが込められていた。

 勇戦、誇り、称賛、そして信頼。


「貴様を、勇者の、ルクレツィアの専属戦闘奴隷として認めよう」


 ナインの胸に、静かな熱が満ちていく。


「……ありがとうございます……」


 かすれた声が、それに応えた。

 エグバードの口元が、わずかにほころぶ。

 琥珀色の瞳に、茶目っ気が宿った。


「だがな、ゼロ」

「……はい」

「娘の父親としてはまだ足りぬ……次は、この私を完封してみせよ。それまでは、男として認めてやらん」


 一瞬、室内の空気がやわらぎ、部屋の中が少し明るくなったように思えた。

 ルカの頬が赤く染まり、恥じらうように俯く。


「……お義父さまの……いじわる……」


 老執事も老家政婦もまた、静かに微笑んだ。

 高くなっていた初夏の日差しが窓から差し込み、静かに室内を照らしていた。

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