金の風が吹いた丘で
陽はすでに傾き、空の端には淡い朱がにじんでいた。
夏の夕暮れ。草の香りが濃くなり、ひぐらしの声が遠くで響いている。
村の西端にあるなだらかな丘には、麦のような色をした草がそよぎ、その中を、ふたつの影が足早に歩いていた。
「ねえ、ナイン、早く。騎士さまたち、もう来ちゃうよ」
少女は振り返り、少し遅れて歩いてくる少年の袖をつまんだ。
夕陽を背にしたその拍子に、明るい金髪がきらきらと輝き、碧色の瞳が宝石のように澄みわたって見えた。
まだ幼いが、村人たちが「きっと将来は美しくなる」と微笑ましく噂しているほど、可愛らしい少女だった。
「……引っぱるなよ、ルカ。慌てなくても大丈夫だろ」
ナインと呼ばれた少年は、ぶっきらぼうに返す。
ルカとは対照的に、黒い髪と瞳。痩せて小さな体に、どこか均整のとれた雰囲気があった。
その声はまだ幼いのに、言葉の選び方には年齢にそぐわぬ静けさがある。
村の者たちは皆、彼をどこか怖がっていた。無口で無愛想、そして何より――目が、大人だった。
「だって、ナインと丘に行くの、久しぶりなんだもん」
ルカは嬉しそうに笑った。
いつもなら薬師の老婆のもとで手伝いをしているナインが、自分の誘いに応じたことが、彼女には何より嬉しかったのだろう。
丘の上から見下ろすその場所からは、村の中央がよく見渡せた。
石造りの小さな教会の広場には、すでに数人の騎士たちが馬を下り、整然と隊列を組んでいる。
「ほんとに来たんだね、騎士さまたち……! 本物だよ、ナイン!」
少女の頬が赤らむ。
騎士団は領都からやってきたという。剣を佩き、陽光を反射する鎧を身にまとったその姿は、まるで伝説の登場人物のようだった。
だが、ナインの瞳はどこか冷めていた。
「……騎士か。魔力測定の護衛役か。無駄に仰々しいな」
「そんなこと言わないの。だってほら、私たち、五歳になったから、初めて魔力測定するのよ……ナインも、ちょっとだけ楽しみでしょ?」
「魔法か……そうだね」
ナインは目を細めた。
陽が傾くにつれ、夕陽の赫がいよいよ濃くなる。騎士の甲冑に映る光が、まるで血のように煌めいていた。
その眩しさの中で、ナインはほんの一瞬、自分の記憶にある世界と、この世界の違いについて思いを馳せた。
この世界には、魔法がある。
火を起こし、風を呼び、水を操り、地を裂く――
それは体内に宿る魔力を詠唱によって呼び起こし、魔法陣を通して現れる、力の顕現。
けれど、それは祝福ではない。奇跡でもない。
魔法とは、生き延びるために必要な、最も古い武器だった。
ナインが暮らすこの地は、王国の北辺。
正確には、辺境伯家に仕える寄子の男爵が治める、寒村のひとつ。
地図の端にかろうじて記されるその場所には、年に一度、徴税官が通り過ぎるだけ。
規模は小さいが、村人たちは畑を耕し、家畜を飼い、火を灯して日々をつないでいた。
ここもまた、王国の一部であり、人類の生存圏の最前線だった。
この世界には、「魔物」がいる。
魔力を帯び、理性を失った巨大な獣、虫、時に鳥。中には魔法を使う個体もいる。
彼らは森や谷に巣を作り、人を見れば捕食対象とみなす。
村に現れれば、まず家畜が消え、次に子どもが、そして大人が襲われる。
だが、単体の魔物は、そう恐れるほどの存在ではない。
この地で最も恐れられているのは、「魔王」と呼ばれる存在だった。
それは、ただの魔物の頂ではなかった。
魔力、知性、統率力――あらゆる災厄を備えたもの。
一体でも軍団を滅ぼしうる力を持ち、無数の眷属を従え、大地を蹂躙する。
人類の歴史は、「魔王」たちとの終わりなき生存戦争の記録でもあった。
王国――
西には火蜥蜴王のコロニーが、南には魔道機械王の迷宮が広がる。
そして北には、蟻の姿をした魔王が存在する。
無数の蟻型の眷属を率い、断崖の奥に「黒巣」と呼ばれる領域を築き、人の世界をじわじわと侵していた。
辺境伯家は代々、その「黒巣」との戦争を担っている。
砦を築き、騎士を育て、魔法を研究し、魔王とその眷属と戦う――それを繰り返してきた。
魔法とは、生き延びるための最も古い武器。
魔力量はこの世界で生きるための指標であり、それを測る水晶は、今や貴重な古代遺物である。
「ナイン、こっち来て! もっとよく見えるとこ、あるの」
ルカに手を引かれ、ナインは思考を現実へと戻した。
わずかに身を引きかけたが、彼女に触れられることだけは、不思議と嫌ではなかった。
天真爛漫で、誰にでも明るく接する少女――
けれど、ナインに対してだけは、少しだけ特別な表情を見せる。
ナインには、それが心地よく、同時に少し怖くもあった。
騎士団は十名ほど。
先頭に立つのは銀髪の男で、装飾の多いマントを翻している。
その隣には初老の神父が立ち、教会の扉を指し示していた。
少し離れた場所には、腰まで届く真紅の髪をした若い女が、所在なげに佇んでいる。
ゆったりとした黒いローブ姿の彼女は、騎士にも聖職者にも見えず、どこか異質な雰囲気をまとっていた。
「ナイン、あれが神父さま? 初めて見るね。あの水晶も、もうすぐ見せてくれるかな……」
「魔力測定なんて、水晶に手をかざして、光った数字を見るだけだろ。数値を記録する係がいれば十分だ。騎士なんて、あんなに必要ない」
「でも、魔族が襲ってきたら大変だもん」
「この辺りにそんな強い魔族は現れたことがないよ。「黒巣」からは遠すぎるし、途中に領都もある。……なのに護衛を十も送るなんて。何か、理由があるはずだ」
ナインは、淡々と知り得る情報と、それに基づく推論を述べた。
「……ナインって、ほんとに大人みたいだよね」
ルカがぽつりとつぶやいた。その目には驚きも呆れもなく、ただ優しい光が宿っていた。
「私はさ、ナインがどんなふうでも、好きだよ。難しいこと考えてても、無愛想でも……なんかね、いい匂いがして、いっしょにいると安心するの」
ナインは黙っていた。言葉が見つからなかった。
夕陽の赤は、ルカに反射して金色に変わっていた。
草原に吹く風が、ルカの髪を揺らし、まるで光の糸が踊っているようだった。
「……ああ。おまえは、ほんとにおかしなやつだな」
ぽつりとこぼしたその言葉に、ルカは嬉しそうに笑った。
丘の上で、ふたりは並んで座る。夕暮れの風はまだ熱を含み、それでもどこか、涼しさを連れてきていた。
教会の前では、騎士たちが配置につき、神父が何かを説明している。
いよいよ明日から、魔力測定が始まるのだろう。
ナインはそっと隣を見る。
ルカは草の上に寝転び、手足をのびのびと広げている。
その無防備な姿に、なぜだか胸がきゅっと痛んだ。
「……ナイン。明日の魔力測定、がんばろうね」
「おまえの方こそ、結果を見て変なこと口走るなよ」
「ふふ、言わないよーだ。楽しみだねー」
その笑顔に、ナインは黙って、ただうなずいた。
金色の風が吹く、夕暮れの丘で。
ふたりは、ゆっくりと紺色になっていく空を見つめていた。




