戦闘奴隷として
この土地の七月はどこか涼やかで、湿気の重さとは無縁の、清々しい風が領都の外れを吹き抜ける。
遠くに連なる青々とした森の香りを運んでくるその風は、夏というよりも、どこか初秋のような澄んだ冷たさを含んでいた。
陽光はやわらかく、屋敷の白い壁を鈍く照らし、石畳の上に淡い影を落としている。
クラウド男爵邸。
その瀟洒な屋敷の二階の窓辺で、ルカはそわそわと落ち着かぬ様子で外を見下ろしていた。
金の髪をさらさらと風に揺らし、ひどく忙しない様子で視線をあちこちに泳がせる。
白のドレスの裾が揺れ、まるで小鳥の羽ばたきのようだった。
(……まだかな、まだかな、ナイン……!)
頬にはうっすらと朱が差し、胸の奥は早鐘のよう。
あれほど夢見た「再会」の瞬間が、ついに訪れようとしていた。
*
四月を迎える前には、ルカは正式にエグバードの養女となり、クラウド男爵家の屋敷へと居を移すことが決まっていた。
それは同時に――ナインと引き離されるということでもあった。
彼女の中で、言葉にできない不安が、静かに形を成してゆく。
一緒にいた日々が、あたりまえでなくなる。
隣にいた声が、手が、ぬくもりが、遠くなる。
ナインは、つい数日前、実験奴隷としての最後の役目――生殖能力の確認実験を終えたばかりだった。
今日は正式に戦闘奴隷としてエグバードとの契約を交わすため、この屋敷に呼ばれている。
あの実験期間中、ナインは毎回、ルカとの約束を忘れずに、必ず顔を見せに来てくれた。
何気ない会話をして、笑って、ほんの短い時間を共有しただけなのに、それだけで少し救われる自分がいた。
けれど――それでも、会えない時間は静かに積もり、胸の奥で、寂しさはじわじわとかたちを変えていく。
それは、焦りに似た感情だった。
彼が、もう自分だけのものではなくなってしまうような――
誰か別の人に、連れていかれてしまうような――
ただ、それも今日で終わるのだ。
*
やがて、門をくぐり、ひとりの少年の姿が見えた。
黒い髪、痩せた体躯――間違えようもない。
ルカの碧眼が、ぱっと輝きを増した。
少年は門を通り、屋敷の前に立つと、そっと扉を叩いた。
――その瞬間、ルカの中の何かが弾けた。
「ナイン……!」
羽のように軽やかに階段を駆け降り、足音もほとんど立てず、ルカは玄関の扉を開け放った。
「ナインっ!」
少年の名を呼ぶ声は、小さな鈴の音のように澄んでいた。
ルカはそのまま勢いよくナインの胸元に飛び込み、体温を確かめるように、ぴたりと頬を寄せた。
ナインはわずかに目を見開き、そして少し困ったような、それでもどこか安堵の混じった笑みをこぼした。
「……ルカ。」
「ルクレツィア、嬉しいのはわかるのだけれど……。」
その声に、ルカははっと我に返る。
ルクレツィアはクラウド男爵家の養女となったルカの、新しい名前だった。
今のルカは――ルクレツィア・ヴァン・クラウド男爵令嬢である。
穏やかでありながら、どこか凛とした声色。
振り返れば、そこに立っていたのはルミア――クラウド男爵夫人であり、ルカの義母だった。
ルミアは柔らかな金茶色の髪をまとめ、上品なドレスに身を包んでいた。
その灰青の瞳が、微笑を湛えつつ、静かに娘を見守っている。
「少し落ち着きなさい、ルクレツィア。貴族の令嬢としての慎みを忘れてはなりませんよ。」
言葉は優しく、咎めるものではなかった。
ルカは頬を朱に染め、ナインからそっと身体を離した。
「……ごめんなさい、お義母様……わたし、嬉しくて……。」
「ええ、わかっています。」
ルミアはそっとルカの髪に手を伸ばし、撫でた。
「でも、ね……あなたの姿は、邸の者たち、そして世間の目にも映るのですよ。」
ルカはこくんと頷き、小さく深呼吸をした。
四か月前にクラウド男爵家の養女となったルカだが、六年前からエグバードに師事しており、夫人のルミアとも親交があった。
子どものいないルミアは、以前からルカを娘のように可愛がっており、二人の様子は自然だった。
ナインはそんな二人のやりとりを黙って見つめ、どこか胸の奥があたたかくなるのを感じていた。
「さあ、ゼロ。夫が書斎で待っています。」
ルミアは今度は少年に視線を向け、やわらかく微笑んだ。
「ようこそ、我が家へ。戦闘奴隷としての役目は、きっと厳しいものになるでしょうけれど……この屋敷での暮らしは、穏やかであれと願っています。」
その声は、澄んだ夏の空気のように、静かで、そして輝いていた。
「ありがとうございます。男爵夫人。」
ナインは一礼し、扉をくぐった。
ナインが屋敷の扉をくぐると、玄関ホールの奥から老執事とその妻の姿が現れた。
「お久しゅうございます、ゼロ殿。」
老執事がお手本のような一礼をしてきた。
年齢を感じさせぬ凛とした立ち姿で、長年の奉仕で磨かれた矜持が、その一挙手一投足ににじんでいる。
深く頭を垂れた仕草には、貴族家臣としての気品があった。
青灰色の瞳がわずかに柔らぎ、ナインを穏やかに見つめる。
「ようやくお越しくださいましたね。」
隣に立つ家政婦も、ふくよかな体を小さく折り、優雅に頭を下げた。
きちんと結い上げた銀髪が首筋に沿って白く映え、琥珀色の瞳には母のような温かさが宿っていた。
「改めまして自己紹介させていただきます。私は、エリオット・ランズと申します。先代様の頃から、男爵様にご奉公させていただいております。こちらは妻のグレイス。
あなたのことは、お嬢様より聞き及んでおります。これからはどうぞ、私どもを気楽にお頼りくださいませ。」
ナインは一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「……こちらこそ、これからお世話になります。」
その口調はどこか素っ気なく、ぎこちない。
顔見知りとはいえ、こうして正面から向き合うのは、初めてだった。
だが、その黒い瞳の奥には、緊張とも期待ともつかぬ小さな光が宿っていた。
グレイスがふわりと微笑む。
その柔らかな表情は、これから始まる日々を予感させるようだった。
「ゼロ殿は、我らと離れで暮らすことになります。どうか、これからよろしくお願いします。」
エリオットの声は落ち着いていて、その響きは屋敷の静謐な空気に溶け込んだ。
「まずは旦那様のもとへご案内いたしましょう。」
「……お願いします。」
短く応じたナインの背に、エリオットはそっと視線を落とすと、静かに踵を返した。
そして、玄関ホールを横切り、長い廊下の奥、書斎のある方角へと歩を進めていく。
ナインもまた、それに続いた。
*
書斎の扉が、重々しい音を立てて閉ざされた。
わずかに光の差す窓辺に、クラウド男爵――エグバード・ヴァン・クラウドが立っている。
琥珀色の瞳が、ナインを静かに見据えていた。
ナインは無言で歩み出ると、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
それは、戦闘奴隷契約の正式書類。
彼の手で、静かに机の上へ置かれる。
「……クラウド男爵閣下。奴隷契約書、提出いたします。」
声は低く、硬質で、どこか軍務に就く者のような響きがあった。
エグバードはその言葉に頷き、羊皮紙を手に取ると、その内容を淡々と確認する。
部屋に沈黙が降りた。
時折、外から聞こえる鳥のさえずりが、その静寂を際立たせる。
「……異存はない。」
エグバードは羽根ペンを取り、署名欄に自らの名を記した。
次の瞬間、契約書に刻まれたルーンが淡い青光を放ち、書斎の床に複雑な魔法陣を描き出す。
光は波紋のように広がり、ナインの足元へ、そして身体へと絡みついていく。
ナインの右頬の烙印が、淡く輝く。
旧き奴隷の印が解け、代わりに鋭く歪んだ双剣の紋様が刻まれていく。
戦闘奴隷の烙印――クラウド男爵家所有の証。
光が収束すると、ナインはその場に膝をつき、拳を胸元で握り、軍人のように頭を垂れた。
「クラウド男爵家所有、ルクレツィア・ヴァン・クラウド男爵令嬢専属戦闘奴隷、魔導強化改造人間試作零號です。以後、貴家のため、ご令嬢のため、身命を賭して従事いたします。」
その声は鋭く、澄んでいた。
静かな覚悟の響きに、書斎の空気がわずかに引き締まる。
ナインはさらに懐から一枚の書面を差し出した。
「閣下。こちらが、私の性能諸元表にございます。ご査収ください。」
エグバードは無言でそれを受け取り、視線を落とした。
精緻に記された数値と文字の羅列。
魔導強化の成果、魔力量、使用可能魔法階梯、詠唱速度――
すべてが正確に記載されていた。
「……よく来た、ゼロ。早速だが、一つ頼まれてくれ。」
ナインは再び深々と頭を垂れる。
「私と立ち会ってくれ。」
エグバードの声が、静かな書斎の空気を揺らした。




