表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/39

戦闘奴隷として

 この土地の七月はどこか涼やかで、湿気の重さとは無縁の、清々しい風が領都の外れを吹き抜ける。

 遠くに連なる青々とした森の香りを運んでくるその風は、夏というよりも、どこか初秋のような澄んだ冷たさを含んでいた。

 陽光はやわらかく、屋敷の白い壁を鈍く照らし、石畳の上に淡い影を落としている。


 クラウド男爵邸。

 その瀟洒な屋敷の二階の窓辺で、ルカはそわそわと落ち着かぬ様子で外を見下ろしていた。

 金の髪をさらさらと風に揺らし、ひどく忙しない様子で視線をあちこちに泳がせる。

 白のドレスの裾が揺れ、まるで小鳥の羽ばたきのようだった。


 (……まだかな、まだかな、ナイン……!)


 頬にはうっすらと朱が差し、胸の奥は早鐘のよう。

 あれほど夢見た「再会」の瞬間が、ついに訪れようとしていた。





 四月を迎える前には、ルカは正式にエグバードの養女となり、クラウド男爵家の屋敷へと居を移すことが決まっていた。

 それは同時に――ナインと引き離されるということでもあった。


 彼女の中で、言葉にできない不安が、静かに形を成してゆく。

 一緒にいた日々が、あたりまえでなくなる。

 隣にいた声が、手が、ぬくもりが、遠くなる。


 ナインは、つい数日前、実験奴隷としての最後の役目――生殖能力の確認実験を終えたばかりだった。

 今日は正式に戦闘奴隷としてエグバードとの契約を交わすため、この屋敷に呼ばれている。

 あの実験期間中、ナインは毎回、ルカとの約束を忘れずに、必ず顔を見せに来てくれた。

 何気ない会話をして、笑って、ほんの短い時間を共有しただけなのに、それだけで少し救われる自分がいた。

 けれど――それでも、会えない時間は静かに積もり、胸の奥で、寂しさはじわじわとかたちを変えていく。

 それは、焦りに似た感情だった。

 彼が、もう自分だけのものではなくなってしまうような――

 誰か別の人に、連れていかれてしまうような――

 ただ、それも今日で終わるのだ。





 やがて、門をくぐり、ひとりの少年の姿が見えた。

 黒い髪、痩せた体躯――間違えようもない。


 ルカの碧眼が、ぱっと輝きを増した。

 少年は門を通り、屋敷の前に立つと、そっと扉を叩いた。


 ――その瞬間、ルカの中の何かが弾けた。


「ナイン……!」


 羽のように軽やかに階段を駆け降り、足音もほとんど立てず、ルカは玄関の扉を開け放った。


「ナインっ!」


 少年の名を呼ぶ声は、小さな鈴の音のように澄んでいた。

 ルカはそのまま勢いよくナインの胸元に飛び込み、体温を確かめるように、ぴたりと頬を寄せた。

 ナインはわずかに目を見開き、そして少し困ったような、それでもどこか安堵の混じった笑みをこぼした。


「……ルカ。」


「ルクレツィア、嬉しいのはわかるのだけれど……。」


 その声に、ルカははっと我に返る。

 ルクレツィアはクラウド男爵家の養女となったルカの、新しい名前だった。

 今のルカは――ルクレツィア・ヴァン・クラウド男爵令嬢である。


 穏やかでありながら、どこか凛とした声色。

 振り返れば、そこに立っていたのはルミア――クラウド男爵夫人であり、ルカの義母だった。

 ルミアは柔らかな金茶色の髪をまとめ、上品なドレスに身を包んでいた。

 その灰青の瞳が、微笑を湛えつつ、静かに娘を見守っている。


「少し落ち着きなさい、ルクレツィア。貴族の令嬢としての慎みを忘れてはなりませんよ。」


 言葉は優しく、咎めるものではなかった。

 ルカは頬を朱に染め、ナインからそっと身体を離した。


「……ごめんなさい、お義母様……わたし、嬉しくて……。」

「ええ、わかっています。」


 ルミアはそっとルカの髪に手を伸ばし、撫でた。


「でも、ね……あなたの姿は、邸の者たち、そして世間の目にも映るのですよ。」


 ルカはこくんと頷き、小さく深呼吸をした。

 四か月前にクラウド男爵家の養女となったルカだが、六年前からエグバードに師事しており、夫人のルミアとも親交があった。

 子どものいないルミアは、以前からルカを娘のように可愛がっており、二人の様子は自然だった。

 ナインはそんな二人のやりとりを黙って見つめ、どこか胸の奥があたたかくなるのを感じていた。


「さあ、ゼロ。夫が書斎で待っています。」


 ルミアは今度は少年に視線を向け、やわらかく微笑んだ。


「ようこそ、我が家へ。戦闘奴隷としての役目は、きっと厳しいものになるでしょうけれど……この屋敷での暮らしは、穏やかであれと願っています。」


 その声は、澄んだ夏の空気のように、静かで、そして輝いていた。


「ありがとうございます。男爵夫人。」


 ナインは一礼し、扉をくぐった。


 ナインが屋敷の扉をくぐると、玄関ホールの奥から老執事とその妻の姿が現れた。


「お久しゅうございます、ゼロ殿。」


 老執事がお手本のような一礼をしてきた。

 年齢を感じさせぬ凛とした立ち姿で、長年の奉仕で磨かれた矜持が、その一挙手一投足ににじんでいる。

 深く頭を垂れた仕草には、貴族家臣としての気品があった。

 青灰色の瞳がわずかに柔らぎ、ナインを穏やかに見つめる。


「ようやくお越しくださいましたね。」


 隣に立つ家政婦も、ふくよかな体を小さく折り、優雅に頭を下げた。

 きちんと結い上げた銀髪が首筋に沿って白く映え、琥珀色の瞳には母のような温かさが宿っていた。


「改めまして自己紹介させていただきます。私は、エリオット・ランズと申します。先代様の頃から、男爵様にご奉公させていただいております。こちらは妻のグレイス。

 あなたのことは、お嬢様より聞き及んでおります。これからはどうぞ、私どもを気楽にお頼りくださいませ。」


 ナインは一歩前に出て、静かに頭を下げた。


「……こちらこそ、これからお世話になります。」


 その口調はどこか素っ気なく、ぎこちない。

 顔見知りとはいえ、こうして正面から向き合うのは、初めてだった。

 だが、その黒い瞳の奥には、緊張とも期待ともつかぬ小さな光が宿っていた。


 グレイスがふわりと微笑む。

 その柔らかな表情は、これから始まる日々を予感させるようだった。


「ゼロ殿は、我らと離れで暮らすことになります。どうか、これからよろしくお願いします。」


 エリオットの声は落ち着いていて、その響きは屋敷の静謐な空気に溶け込んだ。


「まずは旦那様のもとへご案内いたしましょう。」

「……お願いします。」


 短く応じたナインの背に、エリオットはそっと視線を落とすと、静かに踵を返した。

 そして、玄関ホールを横切り、長い廊下の奥、書斎のある方角へと歩を進めていく。

 ナインもまた、それに続いた。



 *



 書斎の扉が、重々しい音を立てて閉ざされた。

 わずかに光の差す窓辺に、クラウド男爵――エグバード・ヴァン・クラウドが立っている。

 琥珀色の瞳が、ナインを静かに見据えていた。


 ナインは無言で歩み出ると、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 それは、戦闘奴隷契約の正式書類。

 彼の手で、静かに机の上へ置かれる。


「……クラウド男爵閣下。奴隷契約書、提出いたします。」


 声は低く、硬質で、どこか軍務に就く者のような響きがあった。

 エグバードはその言葉に頷き、羊皮紙を手に取ると、その内容を淡々と確認する。

 部屋に沈黙が降りた。

 時折、外から聞こえる鳥のさえずりが、その静寂を際立たせる。


「……異存はない。」


 エグバードは羽根ペンを取り、署名欄に自らの名を記した。

 次の瞬間、契約書に刻まれたルーンが淡い青光を放ち、書斎の床に複雑な魔法陣を描き出す。

 光は波紋のように広がり、ナインの足元へ、そして身体へと絡みついていく。

 ナインの右頬の烙印が、淡く輝く。

 旧き奴隷の印が解け、代わりに鋭く歪んだ双剣の紋様が刻まれていく。

 戦闘奴隷の烙印――クラウド男爵家所有の証。


 光が収束すると、ナインはその場に膝をつき、拳を胸元で握り、軍人のように頭を垂れた。


「クラウド男爵家所有、ルクレツィア・ヴァン・クラウド男爵令嬢専属戦闘奴隷、魔導強化改造人間試作零號です。以後、貴家のため、ご令嬢のため、身命を賭して従事いたします。」


 その声は鋭く、澄んでいた。

 静かな覚悟の響きに、書斎の空気がわずかに引き締まる。


 ナインはさらに懐から一枚の書面を差し出した。


「閣下。こちらが、私の性能諸元表にございます。ご査収ください。」


 エグバードは無言でそれを受け取り、視線を落とした。

 精緻に記された数値と文字の羅列。

 魔導強化の成果、魔力量、使用可能魔法階梯、詠唱速度――

 すべてが正確に記載されていた。


「……よく来た、ゼロ。早速だが、一つ頼まれてくれ。」


 ナインは再び深々と頭を垂れる。


「私と立ち会ってくれ。」


 エグバードの声が、静かな書斎の空気を揺らした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ