勇者をつくる
ゼルダの屋敷の裏に作られた稽古場に、砂塵が舞った。
乾いた空気が、巻き上げられた砂と共に、ざらりと肌をなでていく。
「……続けろ」
静かだが、太く低い声が響いた。
声の主は――エグバード、辺境伯軍第一騎士団副団長は、ごつごつとした岩を積み重ねて作ったような体躯を持っていた。
短く刈り込まれた銀の髪に、琥珀の双眸が鈍く光を宿している。
静謐なまなざしの奥に、いかなる感情も見せることはなかった。
それは――静かな山に似ていた。
少女は小さく頷き、すっと剣を構えた。
白いシャツの肩口には汗が滲み、額から伝う雫が、頬をつたって落ちる。
一瞬の静けさの中、ほんの瞬きのあいだに、ルカの影が飛んだ。土を穿つようにして踏み込まれた跡からは、熱を帯びた煙が立ち上っている。
歪みのない姿勢、澱みのない魔力の流れ。
脚から腕、指先に至るまで、水の中を泳ぐ魚のように、一条の流線を描いていた。
その瞬間、エグバードのまなざしがわずかに細められる。
一瞬で間合いを詰めたルカの剣と、迎え撃つエグバード剣がぶつかり合った。
乾いた衝突音が、稽古場に重く響く。
体に当たれば、大怪我ではすまない。
真剣による攻防だった。
「……今のは、悪くない」
剣帝の名を冠する男が、弟子に贈るには稀なものだった。
ルカは、魔力を身体の内にとどめて用いる。
魔力の放出が苦手――それは、通常なら魔法使いとして致命的な欠点とされる性質だ。
だが、彼女の場合は違った。それがむしろ、利点となっていた。
「……確かに、ジ=ゲン流には向いている」
呟きながら、エグバードは目を細めた。
ルカの魔力が外へと拡散せず、筋肉と骨格に濃縮される。
その一撃は、大地に深く打ち込まれる鉄杭のように重く。
跳躍は夜空を裂いて流れる流星のように早く。
狂いなく噛み合った歯車が高速回転するように、寸分の隙もなかった。
打ち合うたび、わずかに掌が痺れる。
それはエグバードにとっても、珍しい体験だった。
──あれから、もう四年か。
戦いの最中、エグバードの脳裏に、わずかに過去の記憶がよぎっていた。
*
静かな石廊の先。
円窓から日が差し込み、広間の床に淡く溶けていた。
重厚な扉の前に立ち、エグバートは小さく息をついた。
扉の材は黒檀。古びてすり減った金具には、かすかに主の紋章が浮かんでいる。
掌を握り直し、ゆっくりと拳を上げる。
硬質なノックの音が、静まり返った廊下に控えめに響いた。
「入れ」
中から返る声は低く、よく通った。
取手を回し、扉を押す。
開けた先には、石造りの執務室があった。壁一面の書架と地図。
窓から差し込む斜めの光が、室内を静かに照らしている。
エグバートは足音を殺して進み、主の前で右手を胸に当てた。
「いつも通り、時間には正確だな」
椅子に座っていたのは、一人の男。
辺境伯――ヴォルクリン・ヴァン・シュトルムベルク。
魔王の軍勢が迫る北の地。その最前線にあって、幾代にもわたり侵攻を退け続けた「北の壁」シュトルムベルク家の当主。
この地の守護者。雪嶺の番人。
年は四十に届くかどうか。
風に削られた岩のような顔には、深い皺が刻まれていた。
数えきれぬ死を見ながら、それでも決断を重ねてきた男の目だ。
灰銀の髪は短く刈り込まれ、身なりには一切の無駄がない。
青灰の瞳は深く濁り、断崖の霧のように底を隠している。
彼が纏うのは黒に近い深紺の軍装。
胸にはシュトルムベルク家の紋章――雪原にそびえる白銀の塔が光を返していた。
彼の生きる意味は、この地を守ること。
エグバートにとっては、かつて共に剣を学んだ兄弟子であり、今は主でもある。
「ゼルダから報告があった」
ヴォルクリンは静かに口を開いた
「龍脈に繋がる少女がいる、とな……勇者が見つかったのだ」
琥珀色のエグバートの瞳が、わずかに瞬く。
「平民の少女。齢は、まだ六つ。一年かけて龍脈との接続はできるようになったとの事だ」
そう告げると、ヴォルクリンは椅子を離れた。
軍装の紋章が、窓の光にわずかに滲む。
「その娘を鍛えろ。おまえの剣で、勇者を作れ」
沈黙が落ちる。
エグバートは口を開かない。
ただ、大きな体を一歩、前に出す。
「……私でよろしいのですか」
その低い声が、執務室にわずかに響いた。
「他に誰がいる?」
ヴォルクリンの表情は動かない。
だがその声には、確かな信頼と誇りがあった。
「ジ=ゲン流剛剣術の剣帝、歴戦の騎士エグバート・ヴァン・クラウド。
『北の壁』の『不壊の剛腕』――この地で、おまえ以上の男など、俺は知らん」
「……畏まりました」
――年端もいかぬ少女にジ=ゲン流を教えろ? ……兄弟子の無茶ぶりは相変わらずだな――
そう思いはしたが、顔には出さなかった。
*
エグバードは、無言で一歩前へ進む。それだけで、空気が軋んだようだった。
圧に押されたのか、ルカの攻撃が止まり、たまらず距離を取った。
ジ=ゲン流剛剣術――。
それは対魔物戦に特化した、身体強化を基盤とする剣術。精妙な魔力操作によって肉体を極限まで鍛え上げ、一撃必殺を旨とする。盾を持たず、間合いに踏み込むその戦法は、常に死地と隣り合わせだった。
この流派において「剣帝」の称号を持つ者は、王国広しといえども、片手で数えられるほどしかいない。
「ッ!」
再び、ルカが先んじた。土を蹴る音はなかった。
その踏み込みは常人の目では捉えきれず、まるで瞬間移動に近い――
だが。
「――甘い」
エグバードの剣が、唸りをあげて振り下ろされる。
咄嗟に剣を交えたルカだったが、その重さに膝が軋み、足が地にめり込んだ。
「く……!」
衝撃で小石が跳ね、砂が舞い上がる。わずか一合。それだけで、腕が痺れ、膝がおれた。
「――フッ」
息を切らせながら、ルカは身体強化の段階を限界まで引き上げた。
三段階目。
それが、エグバードから許されている最大値であり、自身の肉体が耐えうるギリギリだった。
痺れた右手はあきらめて、左手に剣を握り直す。
膝を地につけたまま、大腿と背筋だけで跳ね上がった。
身体が浮く。視界が一瞬で切り替わる。エクバードの頭上を取った。
――跳躍と同時に、空を裂いた。
空中で体をひねり、落下の速度と遠心力、それに強化された膂力をすべて重ねて――
ルカは剣を、真横から一閃。
ためらいなく、首筋を狙った。
遠慮も呵責もない一撃。
その瞳には、張り詰めた殺意すらこもっていた。
だが。
エグバードは、ただ静かに剣を構え――
その一撃を、あたかも埃でも払うように、軽く受け止めたように見えた瞬間。
鈍い打撃音が稽古場に鳴り響き、ルカの小さな体が、横へ吹き飛ばされた。
砂地に叩きつけられ、何度も転がる。
「……っく」
土を噛んだ。
喉に砂がざらつく。
ルカは伏したまま、額に泥をつけたまま、顔を上げる。
爛々と燃え上がるその双眸には――もはや狂気に近い執念が宿っていた。
「……それまでだ」
その気配を、エグバードは静かに断ち切った。
まるで、宥めるように。あるいは、止める理由を与えるように。
「明日の本番前に、すべてを出し切ることもあるまい。今日はここまでだ。午後は身体を休めておけ」
「……わかりました」
応じた声と瞳のきらめきは、いつの間にかどこにでもいる少女のそれに戻っていた。
立ち上がったルカは深く息を吐き、呼吸を整える。
ゆっくりとクールダウンの準備に入った、その時
空気が震えた。
*
ゼルダの研究棟。最上階付近から、魔力が爆ぜるように溢れ出す。
遠くで鳥たちが驚いたように飛び立っていった。
「明日の魔物討伐の仕事は……どうやら退屈せずに済みそうだな」
エグバードは呟く。
自分の弟子と、あの魔女の「実験奴隷」を思い浮かべながら。




