勇者のはじまり
打つ──打つ──打つ──打つ──
あたりはまだ薄暗く、朝靄が屋敷の土庭にしっとりと降りていた。湿った空気を切り裂いて、ルカの踏み込みが一つ、また一つと響く。泥と砂利を蹴る動きには、すでに少女の枠を越えた速さと正確さが宿っていた。
打つ──打つ──打つ──打つ──
稽古用に垂直に立てられた鉄柱に向かって、ルカは黙々と打ち込みを続けていた。
立木打ちは剣の基本がすべて詰まっている稽古だ。
間合い。太刀筋。体重移動。進退の迅速さ。
通常は木刀を使うが、勇者として身体強化を身に着け始めたルカは、鋼のこん棒を使っていた。
打つ──打つ──打つ──打つ──
何度も走り寄り、何度も鉄柱に打ち込む。鈍い音を立ててこん棒が跳ね返され、そのたびに火花が弾けた。
目の奥には、焦りと自責と、決意が混ざり合い、弾けた火花と共に瞳に揺らめいている。
──鍛錬している時は何も考えなくて済む。
──手を止めると考えてしまう。
どうしよう。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
ナインが、壊れていく。わたしの目の前で。
小さな寝台にうずくまり、わたしは膝を抱えていた。
淡い灯の揺れる天井を、瞬きもせずに見つめていた。
夜が来るのが怖かった。朝が来るのは、もっと怖かった。
ナインが、また実験に連れていかれるから。
一回目の実験では、血尿が出て苦しんだ。ひどい熱も出して意識も朦朧となった。
二回目の実験では、頭痛とめまいと嘔吐で2か月も寝たきりになった。そして左目の視力を失った。
たまらず、ゼルダにお願いした。
「ゼルダ先生、お願いします、お願い……もう、やめて……!」
わたしは泣きながら、彼女にすがった。
泣き叫ぶわたしを、ゼルダは無表情で見下ろした。
そして静かに言ったのだ。
「ゼロは自分の意思で奴隷になったのよ。それに契約には拘束力があるの。破棄には膨大な違約金が発生するわ。それに、私もそれなりにゼロには投資してるの。可哀そうだけど、もう私も後には引けないわ」
ゼルダたちは、ナインのことを「実験奴隷被験体零號」──ゼロと呼んでいた。
その呼び名を聞くたびに、胸の奥がひどく冷たくなる。
まるで、ナインという存在そのものが、名前ごとどこかへ閉じ込められてしまったみたいで。
……わたしは、それがたまらなく、嫌だった。
「ゼロなんかじゃないっ! ナインよ……っ!」
気づいた時には、叫んでいた。
言葉は堰を切ったようにあふれ出し、感情に任せて、歯止めも効かずに。
「なんであんなひどいことをして、平気なの……! この、人でなしっ!」
口にした瞬間、自分の声が自分のものじゃないように感じられた。
まるで、怒りという熱に飲まれて、理性が溶けてしまったみたいだった。
そのあとはもう罵詈雑言だった。わかっている。それでも、止められなかった。
──その中のどれかが、ゼルダの怒りに火をつけてしまったのだろう。
「ゼロは、あたしの奴隷だよっ!実験奴隷被験体零號っ!」
ゼルダの声が、鋭く空気を裂いた。
「あたしのモノさ。ナインなんて人間は、もうどこにもいないんだよっ!」
目の前の魔女は、いつもと違っていた。
無機質な薄笑いも、感情の読めない声色も、どこにもなかった。
「自分の所有物に、あたしが何をしようと──お前には関係ないし、何も言う権利もないっ!」
怒りに紅潮した頬。
眉間には深い皺。唇は歯ぎしりの音が聞こえそうなほど、きつく噛みしめられていた。
「何もできないお前は、引っ込んでなっ! 悔しけりゃ、金持って出直してこいっ!」
その姿は、まるで別人のようだった。
いつもは壊れた人形のように、どこか虚ろで、冷ややかに笑っていたゼルダが──
今は、顔を真っ赤にして、青筋を立てて、感情のすべてをぶつけていた。
怒鳴り散らす彼女の声が、雷鳴のように響いていた。
*
お金なんて払えない。
わかってる。
わたしには、なにも、ない。
三回目の実験では、右足が不自由になった。
四回目の実験では、声が出せなくなった。そして今も熱を出して臥せっている。夕べも咳が出て、苦しげに絞り出される喘鳴が、ナインがまだ生きている事を教えてくれた。
どうしよう。
どうしたらいい?
ナインを助けたい。けど、できない。
わたしは、ナインの寝台の端にそっと手を伸ばす。
触れた彼の手は、熱を帯びていた。
生きてる。まだ、生きてる。
それだけで、胸が痛くて、息が詰まりそうになった。
滲んでゆくナインの姿が、涙に揺れて見えなくなる。
何もできない自分が、ただ悔しかった。
何かしていなければ、耐え切れなかった。
わたしは、せめて少しでも強くなるために──
そっと寝台を離れ、宵闇に包まれた庭へと歩き出していた。
*
打つ──打つ──打つ──打つ──
何度も走り寄り、何度も鉄柱に打ち込む。
肩の筋肉は限界まで張り詰め、肘が鈍く軋む。
手の平にできた水膨れが破れ、滲み出す血に柄が滑り出す。
今はこれしかできない。
*
──あの日、ゼルダに言い負かされて、部屋を飛び出した。
──気が付くと、ゼルダの屋敷の庭に作られた薬草園の隅で隠れて泣いていた。
「どうしたの? ルカちゃん。お庭のお花、気になった?」
水をやりに来たヘルミナは、ジョウロを置くと、静かにルカのそばまで歩いてきた。
そしてしゃがみこみ、ルカと視線を合わせた。
ルカはかぶりを振った。
その仕草には、幼さの奥にひそむ切実な思いが滲んでいた。
「――お金って、どうすれば、稼げるの?」
言った瞬間、唇が少し震えた。真剣だった。
「どうしてそんなことを聞くのかな?」
ルカは、答えなかった。ただ、拳を手が白くなるほどぎゅっと握っていた。
「……わかった。いいかい、ルカちゃん。十二歳になったら、冒険者登録ができるの。王国が認可した正式な働き手として、依頼を受けられるのよ」
「冒険者……わたしにも、なれる?」
「もちろん。ただ、甘い道じゃないわ」
ヘルミナは真顔になった。
「冒険者の仕事っていうのは、魔物を倒したり、薬草を採ったり、誰かを守ったり、時には命をかけることだってある。でもね――」
そこで、彼女は少し声を落とした。
「強い魔物を倒せば、珍しい素材を手に入れれば、一攫千金も夢じゃない。そういう報酬が高い依頼もあるから。ルカちゃんが本気でお金を稼ぎたいなら、それが一番の近道かもしれないね」
「じゃあ、わたし……冒険者になる。なって、稼ぐ。絶対に」
「でも、そのためにはね、色んなものがいるんだよ」
ヘルミナは指を立てた。
「体の力も、魔力も、それに知恵も、経験も。強くなくちゃいけない。命をかける覚悟がないなら、冒険者は務まらないの」
ルカは、ぐっと唇を噛んだ。
その目に、決して年齢相応とは思えない強い光が宿る。
「わたし、やる。死ぬ気で訓練して、強くなる。絶対、絶対にお金を稼ぐ。ナインを、助けたいの……ナインを、奴隷のままにしない。絶対、しない」
声が、震えていた。けれど、それは恐れではなく、怒りに近いものだった。
悔しさと、焦りと、ナインへの思いが、胸に張り詰めていた。
ヘルミナは、ふっと息を吐いてから、ルカの頭にそっと手を置いた。
その手は温かくて、安心するような重みがあった。
「……あんたのその気持ち、すごく立派だと思うよ。でもね、ルカちゃん。一人で背負い込みすぎないで。周りに頼ることも、勇気なんだから」
「うん……でも、これは、わたしの……わたしのせいだから」
「違うよ。あの子が選んだんだろ。ゼロは、自分の意思で、ルカちゃんの傍にいるために奴隷にまでなったんだろう?ルカちゃんがそれを「自分のせいだ」って言ったらゼロが可哀そうだよ。でも……ゼロのために何かしたいって思う、その気持ちはね、大事にしなよ」
ルカは、涙をこらえるように目を伏せた。
けれど、次の瞬間、まっすぐ前を向いて、うなずいた。
「ありがとう、ヘルミナさん。わたし、がんばる」
少し傾いてきた陽が、少女の頬をやわらかく照らしていた。
その光の中で、彼女の小さな輪郭に、強い決意が宿っていた。
ひとりの勇者の始まりだった。
*
打つ──打つ──打……
ルカの足がふらついた。
次の一歩が、出なかった。
こん棒が手から滑り落ちた。
ルカは、そのまますとんと膝をつき、意識を手放した。
手は酷く腫れ、擦り切れた傷から血が流れていた。
朝の日差しが斜めに差し込む庭で、ルカは地面に倒れていた。
小さな体は泥にまみれ、肩で息をしている。
「暇があれば打ち込みをしろとは言ったが……」
低く呟いた声の主は、庭の片隅に立っていた。
三十歳半ば、短く刈り込んだ銀髪に、鍛え抜かれた体つき。巌のような巨躯と対照的に、その琥珀色の瞳は静かな光をたたえていた。
彼はため息をひとつついて、少女のもとへ歩み寄る。
「……やりすぎだな」
男は慎重にルカの体を抱き上げた。
その体格差から、少女はまるで男の手のひらにすっぽり収まってしまうように見えた。
「まずは治療と……それから朝飯だな」
一言つぶやいて、彼は踵を返す。
見つめる向こうに、ゼルダの屋敷が見えていた。
その足取りは重かったが、しかし静かだった。




