表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アナログ探偵・紙魚川  作者: 全てChatGPTというAIが書きました。
9/9

終章 アナログの価値

 夜の雨はもう上がっていた。

 新宿の裏通りは、濡れた腹をゆっくり冷やしながら、朝の白い光を迎え入れている。路肩の水は浅く、匂いは薄い。騒がしさだけが急いで戻り、匂いは置き去りにされる。いつもの街だ。


 三宅翔は、署の玄関先で立ち尽くしていた。

 紙袋ひとつ。手ぶらに近い。

 顔色はまだ戻らないが、目の底に、夜よりは深くない影がある。


「行け」

 紙魚川は言った。

「生活に、戻れ」


 三宅は深く頭を下げ、何度も礼を言おうとして、結局、言わなかった。言葉にできない人間は、言葉の代わりに背中を見せる。

 彼が踵を返すと、擦れた靴の紐がほどけかけているのが見えた。


「待て」

 紙魚川はしゃがみ、紐を手に取った。

「固くするのがいいとは限らねえ。ほどけにくくて、いざというときほどける結びがある」

 紐を一度返して、指先で締める。

「外科結び。──固く縛ると、人は動けなくなる。動ける結びのほうが、長く保つ」


 三宅は小さく笑った。

「……ありがとうございます」

「礼はいい。転ばなきゃそれでいい」

 彼は何も言わずに頷き、雑踏へ溶けた。人並みに消える人間は、やっと自分の速度を取り返す。


 背中が見えなくなってから、安田が横に来た。

「送検は、佳奈で行けそうです」

「行け」

「AIの運用も見直し。『一致率』の表記に但し書きをつける案が出ています。原データの保存義務化、補正ログの外部監査……」

「それでいい。数字は残せ。だが“答え”の顔は曇らせておけ」

「顔、ですか」

「まぶしすぎる答えは、人の目を甘やかす。少し曇ってるくらいが、現場の鼻が利く」


 安田は、いつものタブレットの隣に、短い鉛筆を置いた。

 削り口が不格好だ。

「……一本、持つことにしました。案外、悪くない」

「重くなるだろ」

「重いほうが、忘れません」

 安田は照れたように笑い、すぐ真顔に戻った。

「紙魚川さん。あなたの“ノイズ”は、俺の中で、やっと音になりました」


 廊下の向こうで、佐久間が立ち止まる。

 目が合う。

「……今回は、お前の勝ちだ」

「勝ち負けじゃねえ」

「わかってる。だが組織は、勝ち負けでしか舵を切れん」

 彼は踵を返し、歩き出す前に言葉を置いた。

「ノイズを完全に捨てるな――とだけ、書いとく。規定の改訂案に」

 それだけ言って去った。

 背中は相変わらず角張って、しかし、ほんの少しだけ肩が落ちていた。肩が落ちると、人は現場に降りてくる。


 午後、供述の詳細がまとまった。

 大森佳奈は、自分の仕事を「整えること」と言い切った。

 会社の広報折衝は“K”の印で粒度を下げ、白飛びの露出で顔の輪郭を消し、均質を正義と呼んだ。

 その手つきのまま、罪も整えた。

 整える道具は便利だ。便利な道具は、時に正義と距離を失う。


 紙魚川は、自販機の紙コップの珈琲をすすった。

 薄い味。だが、温かい。

 温度は、味の半分を救う。


「紙魚川さん」

 安田が、控えめな声で言う。

「なぜ、ここまで“匂い”だの“手触り”だのにこだわるんです」

「それでしか、俺は間違いを止められねえからだ」

 紙魚川は、指先でコップの縁を撫でた。

「AIは答えを出す。間違っちゃいない。だが、人間は答えじゃなく、物語で生きてる。

 物語は歪む。歪みはノイズになって残る。そこに鼻を突っ込むのが、現場の古い役目だ」


 安田は頷き、鉛筆の芯を折って、苦笑いした。

「折れました」

「替えを持て。現場じゃ芯が折れるのが前提だ」

 二人は笑った。笑い声は短く、通路に吸われた。


 夕方。

 裏通りに出た。

 事件が始まった場所だ。

 チョークの白は消え、花束は捨てられ、雨は匂いだけを運んで立ち去った。

 紙魚川は、しゃがみ込んで舗装の割れ目を指でなぞる。

 泥は乾き、跳ねの輪郭は崩れている。

 それでも、痕は残る。人間が歩いた重さは、石のほうが覚えている。


 ポケットから古地図を出す。赤鉛筆の点は増えすぎて、地図はもう、地形よりも物語に近い。

 線はまっすぐにならないまま、密になって、方向を持った。

 方向はひとりの身体に向かい、その身体は舞台から降りた。

 降りた舞台には、雨の匂いだけが残る。


 風が少し変わる。

 誰かが道端のプラ板を直したのか、まっすぐになって、退屈な顔をしている。

 紙魚川は、ネジに触らなかった。

「整えるのは、もういい」

 独り言は小さく、路地に沈んだ。


 スマホが震えた。

 短いメッセージ。

〈三宅、荷物を取りに実家へ寄る。そのあと働き口を探す。履歴書、もう一度書いてみます〉

 最後に、絵文字も飾りもない一行。

〈信じてもらえるように〉


 紙魚川は返信しなかった。

 送る言葉はない。

 生活は、本人が書くものだ。

 こちらができるのは、道端の紐を、ほどけすぎないように結び直すことだけ。


 夜の手前の光が、ビルの壁で跳ねる。

 通りの遠くで、車のブレーキが短く鳴り、すぐ収まる。

 街は相変わらずだ。

 均質に向かい、乱れを嫌う。

 それでも、ときどき、匂いが立つ。

 誰かの汗、紙の端の脂、雨の名残り。

 そういうものが、まだ消えていないうちは、現場の出番は終わらない。


「帰るぞ、安田」

「はい」

「晩飯は固い麺だ。柔らかいのは性に合わねえ」

「了解です。……ただ、今日だけは、少し柔らかめでも」

「じゃあ半分ずつだ」

 二人は歩き出した。速度は違うが、歩幅はいつの間にか合っている。

 足音は、白飛びもしないし、ログにも残らない。

 だが、確かに地面に刻まれる。


 AIは答えを出す。

 だが、人間は物語を生きる。

 物語には余白がある。

 余白に、雨が降り、匂いが残り、結び目がほどけ、また結ばれる。

 そのたびに、古い鉛筆は短くなり、現場の地図は少しだけ重くなる。

 それでいい。

 重いものだけが、落ち着く場所を知っている。


 空は晴れ、夜は来る。

 いつもの夜だ。

 その夜に、まだノイズが残っていますように。

 そう願って、紙魚川は帽子のつばを指で押さえ、路地の影へ消えた。


――完――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ