終章 アナログの価値
夜の雨はもう上がっていた。
新宿の裏通りは、濡れた腹をゆっくり冷やしながら、朝の白い光を迎え入れている。路肩の水は浅く、匂いは薄い。騒がしさだけが急いで戻り、匂いは置き去りにされる。いつもの街だ。
三宅翔は、署の玄関先で立ち尽くしていた。
紙袋ひとつ。手ぶらに近い。
顔色はまだ戻らないが、目の底に、夜よりは深くない影がある。
「行け」
紙魚川は言った。
「生活に、戻れ」
三宅は深く頭を下げ、何度も礼を言おうとして、結局、言わなかった。言葉にできない人間は、言葉の代わりに背中を見せる。
彼が踵を返すと、擦れた靴の紐がほどけかけているのが見えた。
「待て」
紙魚川はしゃがみ、紐を手に取った。
「固くするのがいいとは限らねえ。ほどけにくくて、いざというときほどける結びがある」
紐を一度返して、指先で締める。
「外科結び。──固く縛ると、人は動けなくなる。動ける結びのほうが、長く保つ」
三宅は小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。転ばなきゃそれでいい」
彼は何も言わずに頷き、雑踏へ溶けた。人並みに消える人間は、やっと自分の速度を取り返す。
背中が見えなくなってから、安田が横に来た。
「送検は、佳奈で行けそうです」
「行け」
「AIの運用も見直し。『一致率』の表記に但し書きをつける案が出ています。原データの保存義務化、補正ログの外部監査……」
「それでいい。数字は残せ。だが“答え”の顔は曇らせておけ」
「顔、ですか」
「まぶしすぎる答えは、人の目を甘やかす。少し曇ってるくらいが、現場の鼻が利く」
安田は、いつものタブレットの隣に、短い鉛筆を置いた。
削り口が不格好だ。
「……一本、持つことにしました。案外、悪くない」
「重くなるだろ」
「重いほうが、忘れません」
安田は照れたように笑い、すぐ真顔に戻った。
「紙魚川さん。あなたの“ノイズ”は、俺の中で、やっと音になりました」
廊下の向こうで、佐久間が立ち止まる。
目が合う。
「……今回は、お前の勝ちだ」
「勝ち負けじゃねえ」
「わかってる。だが組織は、勝ち負けでしか舵を切れん」
彼は踵を返し、歩き出す前に言葉を置いた。
「ノイズを完全に捨てるな――とだけ、書いとく。規定の改訂案に」
それだけ言って去った。
背中は相変わらず角張って、しかし、ほんの少しだけ肩が落ちていた。肩が落ちると、人は現場に降りてくる。
午後、供述の詳細がまとまった。
大森佳奈は、自分の仕事を「整えること」と言い切った。
会社の広報折衝は“K”の印で粒度を下げ、白飛びの露出で顔の輪郭を消し、均質を正義と呼んだ。
その手つきのまま、罪も整えた。
整える道具は便利だ。便利な道具は、時に正義と距離を失う。
紙魚川は、自販機の紙コップの珈琲をすすった。
薄い味。だが、温かい。
温度は、味の半分を救う。
「紙魚川さん」
安田が、控えめな声で言う。
「なぜ、ここまで“匂い”だの“手触り”だのにこだわるんです」
「それでしか、俺は間違いを止められねえからだ」
紙魚川は、指先でコップの縁を撫でた。
「AIは答えを出す。間違っちゃいない。だが、人間は答えじゃなく、物語で生きてる。
物語は歪む。歪みはノイズになって残る。そこに鼻を突っ込むのが、現場の古い役目だ」
安田は頷き、鉛筆の芯を折って、苦笑いした。
「折れました」
「替えを持て。現場じゃ芯が折れるのが前提だ」
二人は笑った。笑い声は短く、通路に吸われた。
夕方。
裏通りに出た。
事件が始まった場所だ。
チョークの白は消え、花束は捨てられ、雨は匂いだけを運んで立ち去った。
紙魚川は、しゃがみ込んで舗装の割れ目を指でなぞる。
泥は乾き、跳ねの輪郭は崩れている。
それでも、痕は残る。人間が歩いた重さは、石のほうが覚えている。
ポケットから古地図を出す。赤鉛筆の点は増えすぎて、地図はもう、地形よりも物語に近い。
線はまっすぐにならないまま、密になって、方向を持った。
方向はひとりの身体に向かい、その身体は舞台から降りた。
降りた舞台には、雨の匂いだけが残る。
風が少し変わる。
誰かが道端のプラ板を直したのか、まっすぐになって、退屈な顔をしている。
紙魚川は、ネジに触らなかった。
「整えるのは、もういい」
独り言は小さく、路地に沈んだ。
スマホが震えた。
短いメッセージ。
〈三宅、荷物を取りに実家へ寄る。そのあと働き口を探す。履歴書、もう一度書いてみます〉
最後に、絵文字も飾りもない一行。
〈信じてもらえるように〉
紙魚川は返信しなかった。
送る言葉はない。
生活は、本人が書くものだ。
こちらができるのは、道端の紐を、ほどけすぎないように結び直すことだけ。
夜の手前の光が、ビルの壁で跳ねる。
通りの遠くで、車のブレーキが短く鳴り、すぐ収まる。
街は相変わらずだ。
均質に向かい、乱れを嫌う。
それでも、ときどき、匂いが立つ。
誰かの汗、紙の端の脂、雨の名残り。
そういうものが、まだ消えていないうちは、現場の出番は終わらない。
「帰るぞ、安田」
「はい」
「晩飯は固い麺だ。柔らかいのは性に合わねえ」
「了解です。……ただ、今日だけは、少し柔らかめでも」
「じゃあ半分ずつだ」
二人は歩き出した。速度は違うが、歩幅はいつの間にか合っている。
足音は、白飛びもしないし、ログにも残らない。
だが、確かに地面に刻まれる。
AIは答えを出す。
だが、人間は物語を生きる。
物語には余白がある。
余白に、雨が降り、匂いが残り、結び目がほどけ、また結ばれる。
そのたびに、古い鉛筆は短くなり、現場の地図は少しだけ重くなる。
それでいい。
重いものだけが、落ち着く場所を知っている。
空は晴れ、夜は来る。
いつもの夜だ。
その夜に、まだノイズが残っていますように。
そう願って、紙魚川は帽子のつばを指で押さえ、路地の影へ消えた。
――完――