第六章 擦り付けられた役者
朝、空の底に色はなく、風だけが乾いていた。
署の一角、証拠品室の蛍光灯は白く、音を立てずに明滅する。
紙魚川は、透明な袋に入れられた“バッグ”を取り出した。カメラに映っていたのと同型と報告されたものだ。報告書には、AI解析による形状一致率九十八パーセント、とある。
「一致、ね」
紙魚川は、指先で縫い目を撫でた。麻のように硬い指を、一本ずつ。
縫い幅が僅かに違う。純正が六ミリだとすれば、これは七ミリ弱。端の折り返しの角度が甘く、コーナーの丸みが太い。肩紐の裏地も薄い。根元に、目に見えぬ程度の遊びが出るはずだ。
肩に掛けてみる。筋肉に記憶されている重みが、数秒遅れて伝わる。
「軽い」
誰に言うでもなく、低く。
「中身のほうで重さを作った。外見は後回し、シルエット優先だ。……役者の衣装ってのは、たいていそうだ」
安田が横で頷く。
「タオル四枚の買い物。シルエットを“太らせる”のにちょうどいい量です」
「ああ。輪郭は騙せる。細部は騙せない」
紙魚川は、肩紐の裏に指を差し入れ、爪の先で一度だけ軽く弾いた。乾いた、上ずった音。
純正なら、もっと鈍い音が出る。厚みが違う。
「模造品だな。おそらくネットか、路地の小さな店。誰かが日常で使ってた風を出すため、角をわざと擦った跡もある。だが擦り方が均一だ。人間はもっと偏って擦る。癖で」
安田がタブレットに何かを記録する。
記録の音は軽く、紙魚川の鉛筆の線は重い。重さは、昔からの相棒だけが持っている。
証拠品室の奥で、別の箱が開かれた。切符の印字、タオルの繊維、クリーニングの受取票。
受取票のカーボン紙に残った筆圧の沈みを、紙魚川は横から覗く。
筆致は、速い。終いが跳ね、上へ逃げる。
掲示板の苦情の字。被害者手帳の「K報告」。そして、ここ。
跳ねは、名刺よりも正直だ。
証拠品室を出る前に、紙魚川は“バッグ”をもう一度肩に掛けて、廊下を数歩進んだ。肩紐が静かに軋む。
「これを背に、カメラに“映る”――そのためだけに用意された重さだ」
安田が小さく息を吸う。
「つまり、映像の“三宅”は、舞台衣装の役者だった、と」
「そういうこった」
蛍光灯が一度、音もなく震えた。
一 歩容の作為
昼過ぎ、映像解析室。
壁の一面に、監視映像が並ぶ。AIは三宅の歩行姿勢を“本人と一致”と判定した。
紙魚川は、映像の速度を少し落とし、音を切り、動くだけの影にした。
踵の接地が浅い。右足の踏み込み前、膝の角度が通常より二度ほど少ない。歩幅は二センチ縮む。肩の上下動が、三宅本来の映像よりも半拍ずれる。
半拍。
テンポの違いは、素人には見えない。だが、現場の人間は“追う身”の耳を持っている。
「練習してる」
紙魚川は言った。
「“歩容解析を通る歩き方”ってのが、世の中にはある。猫背を二センチ、足を半歩抑え、腕を振りすぎない。背筋を落として目線を一定に保つ。……“通る”歩き方ってやつだ」
「そんなことまで真似できるんですか」
「できちまう。人間ってのは器用だからな。自分を整えることにかけては、な」
安田が別の映像を呼び出す。
路地入り口のカメラ。雨粒が光を壊している。
白飛びが強い。肩から下だけがハッキリ出て、顔の上半分は空に溶けた。
AIは、肩の傾き、腕の振り幅、荷の位置、足の角度から一致率をはじいた。
「顔が要らない時代だ」
紙魚川の声に、乾いたものが混ざる。
「顔は最後だ。最初に頼ると、間違う」
「この映像、フレームの繰り返しが一度あります」
若い技官が言った。「補正のログに“ノイズ除去”が二度かかってる。夜間の露出を自動で上げる段階で、明度が跳ねたんでしょう」
「跳ねる、ね」
紙魚川は“跳ね”の言葉に反応する癖がある。
字の跳ね。踵の跳ね。露出の跳ね。――跳ねは、揺らぎだ。
揺らぎの上に、作為は生まれる。
二 衣装部屋
路地裏、古い雑居ビルの三階に、ブランドの残反で作った模造品を売る店があるという。
場所は“円”の外れ。
ビルの踊り場は湿気を吸い、木の階段の端が丸くなるほど磨耗している。
扉のベルは、針金のような音で鳴った。
店主は、目尻に笑い皺が定着した初老の男だった。
「“似せる仕事”は、悪いもんじゃないよ。人に喜ばれる」
「似せる相手を間違えると、死人が出る」
紙魚川は、棚の上段のバッグを一つ取り、肩紐の裏地に指を入れて弾いた。さっきと同じ、上ずった音。
「この型は?」
「在庫、三つ。昨日、一つ、女性が持っていった」
「どんな女だ」
「背筋の真っ直ぐなひと。言葉が乾いてる。紐の長さを“数値”で指定してきた。センチ単位で」
「香りは」
「甘い。最後に辛い尾」
男は、記憶の引き出しをゆっくり開ける。
「“ショルダーの根元をあと二ミリ詰めて”って言った。人はふつう、二ミリの言葉を使わない。職業柄だろうね」
安田が横で息をのみ、紙魚川は頷きもせず、店主の言葉を手帳に“二ミリ”と太く書いた。
二ミリは、数値の世界のものだ。現場の人間は、指で測る。
「支払いは」
「現金。袋は要らないって、肩にすぐ掛けて出ていった」
肩にすぐ。
衣装合わせは早い。舞台の時間は、客を待たない。
三 白い廊下
夕方、競合会社の白い廊下で、紙魚川と安田はしばらく待たされた。壁は艶を持ち、匂いは薄い。清掃がよく行き届いている。
会議室のドアが開き、大森佳奈が現れた。
黒のジャケット。髪は後ろで束ね、無駄のない結い目。視線はまっすぐで、通る声。
そのまま、広報としてのテンプレートで話し始めることもできたろう。
だが彼女は、最初の一言を選んだ。
「先日はどうも」
同じ角度の微笑。
揺れない。
「社内の夜間カメラ、原データを確認したい」
紙魚川は挨拶を省いた。
「補正の前」
「セキュリティの都合でお見せできません」
「補正は、誰が管理してる」
「外注です。詳しくはシステム部門に」
「窓口は秘書室だろ」
微笑が一瞬だけ硬度を増し、また戻る。
「業務上の便宜です」
安田が資料を差し出す。
「昨夜、券売機前での“香りの苦情”と“右踵”。クリーニング店の“固い結び目”。コンビニの“利き手じゃない畳み方”。いずれも、あなたの職場の帰りの動線上です」
佳奈は資料を軽く見て、整った指で揃える。
「推測だと思います。どれも不確実な証言でしょう」
「不確実は、嘘の覆いにちょうどいい」
紙魚川の声は低く、部屋の空調に混じる。
「人は、整えるために嘘をつく。あなたは整える側だ」
「侮辱ですか」
「敬語だ。俺はあなたの技術を買ってる」
紙魚川は、唇だけで笑い、すぐ消した。
「あなたは舞台監督だ。舞台の袖で、照明、衣装、音響を合わせる。観客に正しい視線を送る。──昨夜の舞台は、よく出来てた。顔がいらない劇は、とくに緻密だ」
空気に、薄い張りが出た。
佳奈は、目を細めて言う。
「私がなぜ、その劇に関わる必要があるんです」
「関わる必要が、あなたの側にあった」
「根拠は」
紙魚川は、手帳の端を親指で折った。
「“K”だ。被害者の手帳の“K報告”。USBの“折衝テンプレ”の脚注の“K”。あなたの部署が停止をかける合図だ。記録の粒度を落とし、露出を上げ、白飛びで顔を消す。……“整える”合図だ」
「Kは社内の合図です。私個人ではありません」
「そうだろう。だが、“個人の癖”が残ってる。二ミリ詰める。固い結び目。辞書を切る。跳ねる字。右踵。利き手じゃない畳み方。香りの尾。──どれも、あなたの身体から出た」
安田が息を呑み、佳奈の顔に、微細な揺れが走った。
それは怒りではなく、整っていた面の、ほんの一瞬の剥離だった。
「失礼します。これ以上は法務を通してください」
微笑は、元に戻った。
扉が閉まると、白い廊下の匂いが、急に薄くなった気がした。
四 舞台裏の段取り
署へ戻ると、佐久間が待っていた。
「どうだった」
「舞台は整ってる」
「詩をやめろ」
「詩じゃねえ。段取りの話だ」
紙魚川は、古地図に矢印を引く。
「映像の三宅を“作る”段取り。
一、模造バッグ。二、タオルで太らせる。三、歩容の練習。四、補正で白飛び。五、役者の退場。
役者は、券売機で切符を買い、足を庇い、香りを振り、結び目を固くし、利き手を偽る。舞台監督は、袖で露出を上げ、ログを薄める」
「役者は誰だ」
「まだ名は呼ばない。だが、女だ。背筋が真っ直ぐ。仕事帰りの匂い。ヒールの癖はない。ゴム底の平らな靴を選び、踵を庇う。……整える身体だ」
佐久間は苛立ちを隠さない。
「名を言え。証拠を出せ」
「出すよ。だが順番がある。順番を狂わすと、嘘のほうが先に出る」
紙魚川は、鉛筆の芯を折り、新しい芯を差した。小さな音が、机の上で硬い。
五 実験
夜、署の駐車場で簡易の実験をした。
模造バッグにタオルを詰め、体格の似た巡査に肩から掛けさせる。
歩容を合わせるため、巡査には猫背を二センチ、歩幅を二センチ狭め、腕の振りを抑えるよう指示。
安田がカメラを設置し、露出を上げ、白飛びを作る。
映像を見返す。
AIは一致率九十六パーセントを返した。
人間の目には、別物でも。
数値は、別物を同じにする技術に優しい。
「通るな」
安田が唇を噛む。
「通るように、作られてる。……俺たちの現場が、いつの間にか“通ること”を目指してたのかもしれません」
「だから、通さない」
紙魚川は低く言った。
「通す門を、別の場所に作る。香り。結び目。跳ね。辞書。踵。門は、まだ残ってる」
六 綻び
翌朝、クリーニング店。
受け取り票の控えに、微細なインクの滲み。紙魚川は老女に頼み、店の筆記具で同じ字を何度か書いてもらう。
老女の“跳ね”は下へ落ちる。
受け取り票の“跳ね”は上へ上がる。
跳ねの終速が違う。
安田が即席で筆圧センサーを当てる。スマートではない道具だが、十分だ。
「終わりの加速度が高い。止められないタイプの跳ねです」
「訓練された手は、最後に速度を残す。……整える人間の手だ」
マンションの掲示板の字と照合する。似ている。
掲示板の苦情を書いた住人は名乗らなかった。だが、管理人が言う。
「いつも“整った字”で書く人がいる。名前は出さない。気持ち悪いくらい整ってるって、みんな言ってる」
整った字ほど、跳ねが目立つ。
跳ねは、身体から出る。
七 白飛びの後ろ
技官が、競合会社の夜間カメラのログをさらに剥いだ。
露出補正が自動で二度かかる瞬間、フレームの間に数ピクセルの“ズレ”が出ている。
ズレは、人の呼吸と一致する。
呼吸のテンポは、歩幅と呼応する。
“役者”がカメラの前を通過するとき、歩幅は二センチ縮む。
ログのタイムスタンプは、秘書室の端末からの操作時間と重なっている。
端末の使用者欄は“秘書室”。名は出ない。だが、針は同じ方向を指す。
「安田。端末の使用権限を横串で洗え。操作の“癖”が出る。クリックの間隔、タブ切り替えの速さ、ファイル名の付け方。整える人間は、ファイル名も整える」
「了解」
安田は小走りに出ていった。
八 役者を舞台から下ろす
夕刻。
競合会社のロビー。
紙魚川は、受付で名乗らず、旧式の名刺入れから“空白の名刺”を出した。
「どなた宛でしょう」
「舞台の袖に」
「は?」
「秘書室だ」
受付は困った顔をしたが、やがて内線が鳴った。
会議室。
佳奈は、前と同じ位置に座り、同じ角度で微笑した。
「今度は、何を整えに来られたんです?」
「剥がしに来た」
「何を」
「衣装を」
紙魚川は、透明袋から“バッグ”を取り出し、肩紐を弾いた。上ずった音が、静かな室内で浮く。
「二ミリ詰めたな」
佳奈は答えない。
「あなたは舞台監督だ。だが昨夜は、役者も兼ねた。フードをかぶり、右踵を庇い、利き手じゃない手で傘を畳む。香りを強く残し、固い結び目を作る。──AIに“通る”歩き方を、練習した」
「証拠は」
「香りは残る。結び目は残る。跳ねは残る。辞書を切ったログは残る。白飛びをかけた時刻も、端末の呼吸も」
「呼吸?」
「あなたの呼吸だ。端末は、使う人間の呼吸を映す。タブを切り替える間合いが、あなたの歩幅と同じだ。……人間は、無意識に合わせるものだ。身体のテンポに」
佳奈は、初めて目を伏せた。
その伏せ方も、美しい。
「……あなたは、何を守りたいんです」
「迷惑をかけるな」
「え?」
「“規定”に。あんたらの規定は、誰かの生活に迷惑をかける。整えて、均して、白くする。白くなった場所に、人は住めない」
「私たちが悪だと言いたいんですか」
「悪なんざ、簡単な言葉は使わない。あんたは技術者だ。技術で、人の見せ方を整えた。……昨夜は、人の罪まで整えた」
安田がファイルを机に置く。
「端末操作ログ。クリック間隔、ファイル名、タイムスタンプ。切符の発券時刻と重なる“辞書切り”。クリーニング受取票の筆圧。掲示板の跳ね。マンション管理人の証言。タクシー運転手、コンビニ、酒場の男、子どもの窓。──断片は揃いました」
佳奈は、長い息を吐いた。
香りが、薄く広がる。
「……舞台は、必要なんです。こちらも生きていくために」
「なら、せいぜい観客の前でやれ。袖でやるな。袖でやる舞台は、事件になる」
紙魚川は、バッグを袋に戻した。
「役者を、舞台から下ろす」
外は、夕立の気配があった。
窓を打つ前の空気が、薄く冷える。
室内の静けさに、最初の一滴が、遠くで落ちた。
九 雨に入る
ビルを出ると、雨が来た。
大粒ではないが、濡れる雨だ。
人々はそれぞれの傘を広げ、色の違いが通りに咲く。香りは洗われ、足音は低くなる。
紙魚川は、傘を持たない。コートの襟を上げ、古地図を濡らさないように内側へしまった。
安田が横で傘を差し出す。
「どうして傘をささないんです」
「雨は、匂いを連れてくる。いまは、降らせとけ」
雨の匂いは、均質を壊す。
整えられたものは、水に弱い。
交差点の向こうで、白いロールスクリーンに雨が映り、車のライトが丸く溶ける。
紙魚川は、足を止めた。
舞台は、まだ終わらない。
終幕のカーテンを引く手は、いつも袖にいる。
袖から手を引き剥がすには、雨が便利だ。匂いが混ざり、境界が崩れ、声が届く。
「安田。明日、もう一度、あの白飛びのカメラ前に立たせる。役者は自分の舞台を忘れない。忘れたふりをしても、足が覚えてる」
「立たせるって、どうやって」
「香りを流す。固い結び目を一つ、路地に落としておく。──“整えたい”人間は、乱れに吸い寄せられる」
安田は、半信半疑の顔で、それでも頷いた。
雨脚が少しだけ強くなり、路面の水が、細い川になって流れ出す。
その川は、昨夜の血の色を知らない顔で、歩道の端から端へ、まっすぐ進んでいった。
――第六章 了