第五章 被害者の過去
昼の光は白く、曇りの膜を通って地面に落ちていた。新宿の表通りはまぶしく、人の流れは速い。だが、一本裏へ折れれば、色は褪せ、音も薄くなる。
岡島信明の事務所へ向かう途中、紙魚川は古地図を広げ、赤鉛筆の先で、過去に岡島が関わった物件の点を辿った。点は散らばっているようで、じつは同じ半径の円を描く。円の中心には、駅から七分の古い一帯がある。地上げの噂が、いちど浮いて、また沈み、泥と一緒に積もり続けた一帯だ。
事務所の空調は強すぎた。乾いた風が書類の角をわずかに持ち上げる。
棚の二段目に、古い出納帳が三冊。コピーとスキャンの時代に、わざわざ手で線を引き、赤鉛筆で印をつけている。指でページをめくるたび、紙の繊維が指にひっかかった。
均質なプリントの束は、見せるための書類だ。手で引かれた線は、使うための記録だ。両者は同じ棚にあるが、同じ世界にはいない。
安田が、最新の「資金の流れ」をタブレットに浮かべて見せる。
「銀行の出入と、カード明細、交際費のレシート。AIがパターンを抽出しました。怪しい現金の動きは、ありません」
「現金は、“怪しい”からこそ記録しない。記録する現金は、もう怪しくねえ」
紙魚川は、手引きの出納帳に目を落とした。小口の現金ページの端が、他より黒い。人差し指と親指でつまみやすいように、無意識に何度も触れられて黒ずんだ。そこに、鉛筆で押しつけた「K」。赤で丸がついている。
K。
“報告”。
二日前。
辞書を切って打ち込まれた、あの携帯のK報告。
手帳の「跳ね」と同じ角度で、Kの縦画がわずかに上へ逃げている。癖は、紙を越える。
出納帳の次の頁の隅に、小さく綴じられたメモがあった。
──借主S、退去。原状回復費○○円。保証金は相殺、追加請求△△円。立会い時、苦情。
横に「収束」と朱で書かれている。朱肉の色は新しい。最近まで、こういうことを続けていた。
紙魚川は出納帳を戻し、棚の上段を探った。
端に、古い封筒。宛先欄には、手書きで「○○商店街協議会」「□□マンション管理組合」「△△法律相談」。送り主の欄は空白。投函はされたが、返事はなかったのかもしれない。封は開けられ、内容は抜かれている。空の封筒は、沈黙だけを残す。
事務の女性に話を聞くと、整った口調で言った。
「岡島さんは、いつも“規定ですから”とおっしゃいました。正しいことをしている自負があったと思います」
「“規定”は便利だ。笑顔の裏側にぶら下げると、よく効く」
紙魚川は、机の端でルーペをひっくり返した。
事務所を出ると、湿った風が頬を撫でた。
古地図を、次の点へ折る。
一 老人の店
商店街の角で、煎餅屋を営む老夫婦が出てきた。
「岡島さん? あの人は笑顔がきれいだよ。最初はね」
老婆は、袋詰めの口を結びながら言う。
「最後は“規定ですから”で、話が終わるの」
店の奥から、褪せた紙が出された。契約のコピーだ。末尾に、小さく“原状回復費”の項があり、いくつものバリエーションが畳まれて記されている。
文字は、印字。だが余白に鉛筆で書き込みがある。「ここ、覚悟」。老婆の息子の字だという。
「出るときさ、床の傷を全部“覚悟”の範囲だって」
老婆は、笑わなかった。
紙魚川は、その鉛筆の「止め」の角度を見て、手帳の余白に、同じ角度の線を引いた。癖は、読むためではなく、残るためにある。
二 ラーメン屋
ガード下のラーメン屋。カウンターの男は、伏し目でレンゲを落とし、短く言った。
「岡島? 来たさ。潰しに。俺の店なんざ、何度でも畳んでやるって風で」
湯気が顔を濡らす。
「でも怒る気になれなくてよ。あの人、笑ってたから。笑って“規定”で殴るやり方は、真っ当なんだとよ」
「殴られたか」
「殴られた。紙で」
彼は、箸を置いた。
「殴られても、殴り返す紙がねえ。俺にあるのはレシートだけだ」
レシートは、弱い。だが、弱い紙に付く指の脂は、強いときがある。紙魚川は、彼のレシート束の端が黒いのを見て、うなずいた。
三 弁護士
小さな法律事務所。若い弁護士が、不機嫌そうにファイルを渡した。
「地上げ。違法すれすれ。岡島は滑らかにやる。表面はきれい。裏は、きれいすぎる」
ファイルの中に、相談者の陳述書が二通。
一通は老人のもの。もう一通は、子どもを抱えた母親のもの。どちらも、最後に「どうしようもないので諦めた」と書かれている。
弁護士は肩をすくめる。
「数字は正しい。法も、まあ正しい。正しさは、いつだって弱い側を外す」
紙魚川は、ファイルから一枚だけ抜き取り、終いの跳ねを確かめて戻した。
跳ねは、ここにもある。人は、苛立つと字が跳ねる。時間がないと跳ねる。嘘をつくときは──同じ跳ね方を続けられない。
四 元部下
岡島の元部下に会えた。喫茶店の奥で、彼は小さくなっていた。
「辞めました。あの人は、正しい。でも、正しいだけじゃ、人は生きない」
カップの縁に指を置き、彼は笑った。
「“規定”で人を追い出すのは、楽です。笑顔でやれるから。怒鳴らないから、自分が悪くない気がするんです」
「“K報告”を知ってるか」
「K?」
彼は首をひねり、少し考え、慎重に言った。
「“K案件”。競合のクレームが出たとき、手を引くための合図がありました。社内で“K”って呼んで……」
紙魚川の指が止まる。
「誰が合図を持ってた」
「秘書室です。先方との“広報折衝”って名目で……」
広報。折衝。
整える部署。整える言葉。整える微笑。
五 管理組合
マンションの集会室。管理組合の会合。
議長は年配の男。長机に紙コップの茶。
「岡島は“規定”で押すが、最後に必ず“お互いのために”と言って財布を見せる。出る財布は小さい。だが、見せる。見せるのが技術だ」
後ろの席で、若い男が立った。
「出るのは、こっちですよ。あっちは、笑ったまま」
ざわめき。
紙魚川は、壁の掲示板に近づき、昨夜見た“跳ねる字”の辺りをもう一度見た。別の日付の紙に、似た跳ねがある。
同じ住人が、何度も苦情を書いている。跳ねは疲れて、角が鈍り、やがて止めが下へ落ちている。疲れた跳ねは、怒りではなく、諦めのかたちだ。
六 対立の輪郭
署に戻ると、佐久間が待っていた。
「レポートだ。岡島は多くの恨みを買っている。だから何だ。容疑の幅が広がるだけだ。つまり、三宅のほうが合理的だ。AIはそう言っている」
「合理は、お前らにとっての“規定”だ」
紙魚川は、古地図を広げた。
「円の中心を見ろ。岡島が何度も通った一帯だ。そこは誰の“欲しい”でもある。三宅の恨みは、個人の小さな恨みだ。だが、この円の恨みは、集団の恨みだ。集団の恨みは、個人に擦り付けると、よく燃える」
安田が腕を組む。
「“擦り付ける”?」
「役者を立てる。映像に合う服と歩き方。香水。固い結び目。辞書を切る癖。──揃ってきたろ」
佐久間は机を拳で叩いた。
「名前だ。名前を出せ。誰がやった」
「名は、まだ呼ばない」
紙魚川は乾いた声で言った。
「名は最後だ。名は刃物だ。早く抜くと、血が出すぎる」
七 夜の側溝
夜、紙魚川はひとり、円の中心へ戻った。
側溝の蓋の端に、赤い繊維がひっかかっている。傘布の細い糸。
指でつまむと、濡れた匂いに、辛い尾が混じる。
香水は、まだそこにいた。
傘の骨が一度折れ、直された跡がある。骨の角度が僅かに違い、布に負担がかかって糸がささくれている。
直す人間は、整える人間だ。壊れた物を綺麗に見せるのが、日常の手つきになっている。
そのとき、スマホが震えた。安田からだ。
「ライバル会社の夜間カメラ、原データの一部が来ました。……白飛びが強い。自動補正のログが残ってます。実装は外注らしい」
「外注の窓口は」
「秘書室」
短い沈黙。
「秘書は」
「大森佳奈」
紙魚川は、古地図の端に、赤で小さく点を打った。
点は、まだ名ではない。だが、方向は名に触れ始めている。
八 複数の影
翌朝。
候補者はむしろ増えていた。
──被害者に退去を迫られた老夫婦(感情の恨み)。
──ガード下のラーメン屋(生活の恨み)。
──マンション管理組合(集団の恨み)。
──かつての同僚(倫理の恨み)。
そして、競合会社(市場の恨み)。
恨みには種類がある。種類が違えば、刃の向け方も違う。
刃の向きは、証拠ではなく、癖で判別できるときがある。
「安田。切符の売り場、改札カメラの“原データ”をもう一段、掘れ。“編集後”は要らん」
「はい」
「クリーニング店の受け取り票、現物と控え、筆圧のデジタイズを依頼しろ。跳ねの加速度が見たい」
「加速度、ですか」
「跳ねは速度の嘘をつけねえ。人間は速く止まれない」
「……わかりました」
安田が走る。
紙魚川は、机の端の封筒を撫でた。空の封筒。口だけが開いている。中身は抜かれ、誰にも返されない。
空の封筒は、誰かの沈黙のかたちだ。沈黙は、整える者がもっとも好む素材だ。
九 雨のない雨
午後、空はからの灰色を湛え、いつ降り出してもおかしくない顔つきをしていた。
だが、降らない。湿気だけが、人の喉ぼとけに触れてくる。
紙魚川は歩き、鼻で湿気を吸った。匂いは薄くなっても、痕は残る。痕は、膝の高さで残る。
金物屋の角、先夜の足跡は乾いて、輪郭が崩れかけている。だが片足だけ踏みが浅い痕跡は、まだ残っている。
片足。固い結び目。香水。辞書を切る癖。白飛び。
揃いすぎた“答え”とは逆の方向に、揃いすぎた“癖”が集まってくる。
携帯が震えた。
安田だ。息が上ずっている。
「切符の売り場の原データ。──券売機の前で、フードの人物が左手で傘を持ち替え、右踵を庇って立ってます。香水の分子センサーはないけど……店員の苦情記録に“匂いが強い客”とメモ」
「いい。十分だ」
「顔は映ってません。白飛びで」
「顔はいらん。顔は、あとで出る」
紙魚川は、手帳を閉じた。
名は、最後に言う。
言えば、刃になる。
刃は、骨の上で折るのがいい。柔らかい肉で振るうと、刃だけが走る。走った刃は、また誰かを切る。
十 均質の果て
夕方。
岡島の事務所に戻ると、机の引き出しの奥に、薄いUSBがひとつ、落ちていた。ラベルも何もない。
警察の解析班が開くと、中はスキャンの山だった。
契約書のコピー、退去立会いのチェックシート、クレーム対応のマニュアル案。
マニュアルの末尾には、薄い灰色で「広報部・折衝テンプレ」とある。
折衝テンプレの脚注に、小さな“K”。
──K:競合との衝突時、二段目以降の対応を停止。状況記録の粒度を落とす。
粒度を落とす。
均質にする。
白くする。
紙魚川は、USBをそっと閉じた。
「整える仕事の匂いだ」
独り言は、空調の風に溶けた。
十一 章の終わりに
夜が降りてきた。
新宿の裏通りは、昼よりも正直だ。ネオンが濡れた地面に映り、色は増え、形は崩れる。
紙魚川は、古地図を折り畳み、襟を正した。
“揃いすぎた答え”は、眩しい。
“揃いすぎた癖”は、暗がりで光る。
「安田。次は、役者を舞台から下ろす。──衣装も、照明も、音響も、全部、剥ぐ」
「了解です」
安田の返事は、これまでより低かった。
機械の画面の光が、彼の顔の片側だけを照らす。反対側の影は深い。
影の深さは、ようやく、現場の深さに近づいてきた。
――第五章 了