第四章 青年の影
取調室の照明は、いつも真上から落ちる。机の上に濃い影を落とし、机に座る者の顔の半分を削る。光は真実を照らすために設置されたのだろうが、じっさいには人間を不細工に見せるばかりだ。
三宅翔は、その影の側に沈んでいた。
小柄で痩せた体。頬はこけ、シャツの襟は擦り切れている。目の下には暗い隈。二十六歳という数字を聞いても、誰もすぐには信じないだろう。長い不安の夜が顔に居座ったまま、朝になっても退いてくれない──そんな顔だ。
安田が正面に座り、淡々と訊く。
「岡島とは、金銭トラブルがあったな」
「……はい」
「保証金の返還で揉めた。返してもらえなかった」
「……そうです」
三宅は肩を落とし、声を小さくして答えた。
「全部、俺が悪いんです。契約もよく読まずに……。でも、あの人は、俺を馬鹿にしたように笑って……」
言葉の端が震える。拳は机の下で固く握られている。握り方に癖があり、親指の爪が人差し指の第一関節に食い込んで白くなる。
安田はすかさず畳みかけた。
「金で恨みを持った。だから刺したんじゃないのか」
三宅は必死に首を振った。
「ちがいます! 俺は、そんな……人を殺すなんて……!」
紙魚川は横から静かに口を挟む。
「じゃあその夜はどこにいた」
「……駅前のネットカフェに。レシートも残ってるはずです」
安田が端末を確認し、鼻を鳴らした。
「確かに利用記録はある。だが──二十三時に一度外出している。事件があったのは二十三時十分。お前が犯行に及ぶには十分すぎる時間だ」
三宅は机にすがるようにして言った。
「外に出たのは、タバコを買いに……。雨が降ってて、すぐ戻ったんです!」
声は上擦り、説得力を失っていく。
安田の視線が冷たくなる。
「証拠はない。防犯カメラも、お前の言う“すぐ戻った姿”は捉えていない」
三宅は唇を噛み、下を向いた。机の木目の一本一本を数え始める。逃げ場を失った者は、いつも同じものを何度も数える。
紙魚川はその仕草を、見逃さない。
「吸う銘柄は」
「キャスター……いや、最近は一番安いやつで……」
「変えた理由は」
「金がないからです。……それでも、やめられなくて」
嘘に余計な理由は付かない。貧しい者は、貧しい理由を、装飾なしに言う。紙魚川は、煙草の箱を指で叩いた。
取調室の空調が鳴る。人工の風は、何も洗い流さない。
――
生活の影
捜査員が三宅の部屋を調べた。
六畳一間。薄いカーテン越しに、曇天の光が流れ込む。畳の上にはインスタント食品の空き袋、乾ききらなかった洗濯物、紐の切れたギター。窓辺のアルミサッシは指の脂で曇り、冷蔵庫の上にコンビニの箸が五膳重なっている。
机の引き出しからは、封の切られていない企業パンフレットと、書きかけの履歴書が出てきた。誤字を二度三度と消した跡が、紙を毛羽立たせている。志望動機の欄には、鉛筆の芯が途中で折れて止まった字があった。
──人に信じてもらえる仕事がしたい。
“信じてもらえる”の上に、濃い消し跡。書いては消したのだろう。言葉に自信のない人間は、言葉に頼るとき、いちばん強く消しゴムを押しつける。
AIの評価レポートには「職歴の不安定さ」「支払い遅延」「小口の借金」が並ぶ。数値が揃い、色分けされたグラフが、彼を一本の線に変える。
だが、線は人を表さない。表すのは、せいぜい統計だ。
押し入れの底から、黄色く変色した封筒が出てきた。
中には、小学校時代の通知表、父親からの短い手紙、母親の見舞いの領収書。三宅の手に渡ってから長い年月を経て、角が丸くなっている。
父親の手紙には、拙い楷書で、こうあった。
──翔、誰かを責める前に、誰かを助けなさい。助けることができないときは、せめて嘘をつかないようにしなさい。
古い紙は、匂いを持つ。消えかけのインクの匂い、人の居なくなった部屋の匂い。紙魚川は、封筒を戻した。
――
ネットカフェ
駅前のネットカフェは、昼間なのに夜の匂いがした。古い布のソファが染みこんだ客の体温を、いつまでも手放さない。
店員の青年は、眠気を押し込めるようにして答えた。
「この人、来ましたよ。二十二時半ごろ。……外出? 雨だったんで、正直あんまり覚えてないっすけど。レシートは出ます」
レシートの紙の薄さ。インクの弱さ。時刻の印字は二十三時ちょうどに途切れて、五分後に再開している。
「五分」
安田が指で叩く。
「十分で往復できる距離なら、犯行は可能だ」
紙魚川は、店内をもう一度見渡した。古い漫画、埃を被った雑誌。端の席に座る無口な客が、イヤホン越しに微かなリズムを揺らしている。
雨の日の外出を、わざわざ記憶に留める店は少ない。
店の前の舗道には、雨粒が作った小さな穴が並び、穴の中には薄く煙草の灰が沈んでいる。吸い殻の銘柄はばらばら。吸い殻は、持ち主を語らない。
――
署内の議論
捜査会議。壁一面のモニターが、同じ映像を違う角度から映し続ける。
佐久間が机を叩いた。
「三宅で送検する。AIは一致率九十八パーセント。動機もある。保身のために必要十分な条件がそろっている」
「必要十分、ね」
紙魚川は、ルーペを指で弾いた。
「必要と十分は、数学じゃ隣り合ってるが、人間の世界では別居だ。動機があるやつは山ほどいる。十分条件が何人にも適用されるなら、条件の意味は薄い」
「理屈だ。現場の勘は、統計の前では誤差にすぎん」
「誤差が人間だ」
紙魚川は、淡々と返す。
「お前らは“最もらしい”を揃えたがる。映像、歩容、バッグ。だが、泥の付かない靴底、血のついた切符、香水、片足。──最もらしくないほうが、事件の芯に近い」
若手の一人が口を挟む。
「でも、AIの“歩容解析”は最新式で……」
「歩き方は、靴で変わる。雨で変わる。心で変わる」
紙魚川は短く言った。
「お前、酔って帰るとき、普段どおりに歩けるか」
会議室に笑いがこぼれたが、すぐに消えた。安田が腕を組み、真面目な顔に戻る。
「紙魚川さん。あなたの挙げる“ノイズ”は、どれも裁判に耐える証拠にならない。どうやって三宅の無実を証明するつもりです」
「証明は最後でいい。まずは嘘の骨格を折る」
「誰の嘘を」
「“揃いすぎた話”を作った奴のだ」
――
三宅の過去
三宅の過去を洗うと、二年前の派遣先での事故が出てきた。倉庫でパレットを倒し、指を挟んで労災。全治二週間。
事故報告書の字は、丁寧だが震えている。上司のコメントは短く冷たい。──注意喚起を再徹底。
労災のあと、シフトは減らされ、三宅は別の現場へ送られた。そこでも長くは続かず、転々とする。
ある飲食店では、レジの釣り銭を間違え、客に怒鳴られた。
店長のメモにはこうある。──悪気はない。容量がない。
容量。
人間を機械に見立てるとき、人はよくこの言葉を使う。
岡島との関係は、さらに遡る。
最初の契約のとき、岡島は笑っていた。
──若いんだから、将来一緒に伸びていこう。保証金はね、ここに預からせてもらえば、更新時に有利に働くから。
言葉は滑らかで、インクの乗りも良かった。
だが契約書の末尾は、微細な罠のようにフォントが小さく、条件が並ぶ。
──原状回復費を超過した場合、保証金は相殺の上、追加費用を請求する。
出るとき、部屋のクロスに小さな傷があった。
傷は、契約の最後の行から、合計金額の欄へ、するすると移動した。
三宅は岡島の事務所へ、二度、三度と通った。
最終的に、受付で言い争いになり、声を荒げた。
──あんたら、最初は笑ってたくせに。
受付の女性が冷たく答えた。
──規定ですから。
“規定”は、最初の笑顔にぶら下げておくと効き目がいい。笑顔が消えたあとでも、規定は残る。
紙魚川は、こうした断片を一枚の紙に貼る。
人間の薄い紙と、規定の硬い紙は、同じファイルに綴じられてはいない。
――
取調室
再び取調。
安田が言う。
「ネットカフェからの外出──そのときの傘は」
「備え付けのビニール傘を……」
「戻した証拠は」
「……すみません、戻し忘れたかも」
安田は机を小さく叩いた。
「軽率だ」
紙魚川が挟む。
「誰かに借りたことは」
「ないです。友達、いないんで」
言って、三宅は自嘲気味に笑い、すぐに俯いた。
その自嘲は、誰かに見せるために作った笑いではなく、誰にも見せられない種類の、浅い傷に触れたときの笑いだった。
紙魚川は、靴の話に移る。
「スニーカーは何足持ってる」
「二足。片方は底が減ってて、雨の日は滑るから、あんまり」
「結び目は固いか」
「緩いです。すぐ解けるんで、二回くるっと回すけど、ほどけます」
解ける結び目。
クリーニング店の老女が言った「固い結び目」は、ここで三宅から否定された。
否定は、事件の骨格に良い影を落とす。
“三宅ではない”が、また一つ、具体になった。
――
紙魚川の回想
夜。喫茶店。
窓ガラスの外で、夜が濡れている。
カップの縁に、指の跡が淡く残る。
紙魚川は、氷の音が砕けるのを待ってから、ゆっくり話す。
「昔、一度だけ、機械を信じた。お前と同じ年頃の男が、盗難の主犯として上がった。
監視映像、足取り、買い物履歴、位置情報、全部が彼を指してた。俺は疲れててな、机の上で“それなら合ってるだろう”と頷いた」
安田は黙って聞いている。
「送致した。数ヶ月後、別件で本当の主が捕まった。あの青年は、ただ、似ていた。似ているものを、俺は“同じ”にした。
あのときの机の角の冷たさは、今でも忘れねえ。紙には、汗の染みがあった。震えた字があった。俺にしか拾えない“弱い証拠”が、机の上で凍ってた」
紙魚川は、煙草の箱を叩く。
「だから俺はノイズを捨てない。人間の余白は、機械が嫌うほど、真実に近い」
安田は、目を伏せ、そして上げる。
「……それでも、我々は立証しないといけない」
「ああ。だから拾う。拾って、積む。積んで、崩す。──嘘のほうをな」
――
署内の夜
深夜、署の廊下はよく響く。コピー機のローラーが乾いた音を立て、自販機の硬貨投入口が金属の短い歌を歌う。
窓辺に寄ると、街の光が遠い。
紙魚川は、古地図を広げ、手帳のページをまたいで、矢印を引く。
ネットカフェ──コンビニ──現場──金物屋──クリーニング──掲示板──マンション裏のゴミ置き場。
曲がり角ごとに、匂いが変わる。
甘い匂いは、途中で辛い匂いに変わり、雨の匂いが薄くなる。
香水は、最初に強く、やがて服の繊維と喧嘩しながら沈む。沈む場所が、地図のうえで点になる。
机の端で、安田が居眠りをしかけて首を振る。
「……すみません」
「寝ていい。若いのは寝たほうが勘が冴える」
安田は苦笑いし、起きて、端末を叩いた。
「ライバル会社の社屋のカメラ、原データは取り寄せ中です。夜間補正のアルゴリズムも確認を」
「アルゴリズムは、だいたい“均す”ためにある。均せば、癖は消える。癖が消えれば、嘘は通る」
――
三宅の叫び
朝、取調室へ戻ると、三宅は声をなくしていた。
声をなくした人間は、言葉の代わりに身体で語る。肩の上がり下がり、呼吸の浅さ、指の動き。
水のコップに、彼は視線を落としたまま言う。
「俺は、ふつうに生きたいだけなんです。……それだけです」
紙魚川は、コップを少しだけ手前に寄せた。
「ふつうは難しい。だが、嘘よりは易しい」
安田が眉をひそめる。
「格言は、証拠になりません」
「なら、証拠を拾う」
――
会議
佐久間が決裁の紙を机に置く。
「送検だ」
「待て」
紙魚川の声は低いが、止まる。
「血のついた切符は“事件の三十分後”だ。三宅の外出は“十分”。この差は、偶然じゃねえ。香水、片足、固い結び目、掲示板の跳ね、K報告の辞書切り──全部が一つの“癖”で説明できる」
「誰の癖だ」
「“整える”ことに職能を持つ人間の」
紙魚川は、誰の名も呼ばない。名は最後に呼ぶのがいい。名には力があって、早く出すと、筋がねじれる。
佐久間は舌打ちし、椅子を引く音をわざと響かせて出ていった。
安田はその背中を見送ってから、ゆっくり口を開く。
「紙魚川さん。……俺は、あなたが三宅を庇う理由を、理屈では理解できない。でも、あの男の“信じてもらえる仕事がしたい”を見てから、少しだけ……」
「理屈はいらん。お前はお前のやり方で疑え。俺は俺のやり方で拾う」
――
駅前の朝
朝の駅前。昨日の雨の匂いはもう薄い。
人の流れは速く、香りは上へ、音は下へ、視線はまっすぐ前へ流れる。
紙魚川は、そこで一度だけ立ち止まった。
ベンチに座る、黒のジャケットの女が、香水をひと吹きした。
香りは、駅前の風に瞬時に砕け、誰のものでもない顔のあいだを渡った。
それはただの朝の一景だったが、紙魚川は、香りが持つ“均質化”の力を嗅いだ。
匂いは、人の輪郭を整える。整えられた輪郭は、カメラに優しい。
彼は古地図を畳み、コートの襟を指で整えた。
「整えすぎたものは、崩れ目が早い」
独り言は、人混みの背中に紛れて消えた。
――
第四章 了