第三章 ノイズの声
雨は上がった。だが街はまだ、濡れた腹を抱えている。
昼の温度が残る舗装の上を、薄い風が撫で、路肩の排水口はぬるい水を吸いきれず、時おり喉を鳴らす。表通りは派手で落ち着きがないが、一本裏へ折れると途端に時間が鈍る。色褪せた看板の赤は、濡れたアスファルトに裏返って貼り付き、歩くたび靴底に──昨日の夜と、今日の昼の境目が──薄く移る。
紙魚川は足を止め、古地図を広げた。路地の交差、側溝の走り、低い段差。鉛筆で打った小さな点が、雨粒ににじんだまま幾つも残っている。切符の場所、コンビニ、クリーニング店、アパート前の証言。無関係な断片を同じ紙に寝かせると、はじめて地形になる。
横で、安田がタブレットを軽く叩く。
「AIは、三宅の逃走経路を分単位で割り出しました。三台のカメラで動線一致。アパート帰宅時刻も映像で担保。……反証はありますか」
「あるものしか拾ってない、ってこった」
紙魚川は地図を畳んだ。
「“揃いすぎた話”は疑え。人間の歩みは、いつだって歪む。歪みはノイズになる。機械はノイズを嫌うが、真実はそこに沈む」
言い終えると、二人はまた歩いた。
1 商店街の午後──老いの視線
古い商店街の端、軒を低くした青果店の空木の木陰で、八十を越えた老人が背を丸めて座っていた。
「昨夜? 見たよ」
老人は目を細め、遠い雨脚を思い出すように指を宙に滑らせる。
「傘をさした女だ。背は中くらい。足を引きずってた……右だったか、左だったか……」
安田が眉を寄せる。
「左右が曖昧では、記録になりません」
「十分だ」
紙魚川は短くさえぎり、手帳に“片足を庇う”と書き、矢印を一つ、金物屋の角に向けた。
「方向が残ればいい。人間の記憶は、正確さより癖を残す」
2 ガード下──タクシー運転手
ガード下にタクシーの短い列ができていた。雨上がりの匂いと鉄の匂いが混ざり、遠くで電車が軋む。
「十一時半ころ、女の客?」
運転手はシートに体を沈め、バックミラー越しにこちらを見た。
「乗らなかった。近寄ってきて、傘を閉じるとこまでは来たが、やめた。足、痛そうだった。……右だな。履き口が擦れて、踵を浮かせる歩き方だった」
「声は」
「低い。言葉は丁寧だが、置き土産みたいに匂いだけ残った。新しいボトルの匂いは、夜気の中でよく立つ」
紙魚川は“右踵・香水・丁寧な言葉”と、手帳の別頁に移して囲む。
囲んだ線は、いまは意味を持たない。だが囲ってしまえば、のちの紙面で勝手に寄り合う。
3 コンビニ──紙の薄さ
角のコンビニ。昨夜の深夜帯に入っていた店員が、ロール紙のレシートを遡って見せた。
「タオル、四枚。時間は二十三時過ぎ。片足だけ泥だらけ。レジ前で傘を畳むとき、手が利き手じゃなかったみたいで、モタついてました」
「利き手じゃない?」
「右で支えて、左で畳もうとして、できずに持ち替える感じ。クセですかね」
利き手の逆で傘を畳む癖。メモを取りながら、紙魚川は脳裏の盤面に、濡れた傘の長さを置いてみる。
利き手、片足、香水、丁寧な言葉──点は増える。
4 クリーニング店──固い結び目
細い筋を入った先のクリーニング店。老女が奥から出てきて、丸眼鏡越しに二人を見た。
「夜遅く、泥のスニーカーを預けたいって女が来たよ。紐の結びが固くてね、ほどいてくれって。香りが強かった。甘いだけじゃない、辛い尾が残るやつ」
「支払い方法は」
「現金。受け取り票の字が妙に跳ねる。早い字だ。横棒の終いが雑でね」
紙魚川は女の前で、受取票の複写を覗き込む。跳ねる。終いが上ずる。
掲示板の苦情書き込み、被害者手帳の「K報告」の乱れ、受取票の終い──似てくる。
5 マンション管理人──ゴミ置き場
通りのマンションで管理人が言った。
「夜の零時前に、ゴミ置き場の前で靴を拭いてる影がありました。傘を差して。監視カメラは角度が悪くて映ってない。あのカメラ、夜になると逆光で白飛びするんですわ」
「白飛び、ね」
紙魚川は、監視信仰の盲点を心の底でゆっくり転がし、頷いた。
「白くなる映像は、便利だ。そこに何でも映せるし、何も映っていないことにもできる」
6 ガラクタの裏庭──金物屋
金物屋の脇。雨が上がると、匂いの層は薄くなるが、残り香は地面に落ちていく。段ボールの束に雨の痕が三つ。うち二つは丸く、ひとつはかすれ──踵を庇った足取りが、箱の角で踏み切れていない。
紙魚川は地面に、足跡の向きを鉛筆で描いた。
「急いでるのに、“きちんと”してる。段差の手前では速度を殺す。癖だ。性格ってやつは、緊急時に表に出る」
7 酔客の歌──裏口
昼から開いている小さな酒場。
カウンターの男は赤い顔で、声を落として言った。
「裏口で、スーツの女を見た。背筋がまっすぐだった。雨なのに姿勢を崩さない人間は、だいたい日頃から“見られる側”の人間だ」
「時間は」
「十一時半から十二時。歌ってたから曖昧だがよ。……香りが残った。店に似合わねえ、仕事帰りの匂いだ」
紙魚川は、香水に二重線を引いた。
同じ要素が別の口から出るとき、それは噂ではなく、痕になる。
8 子どもの窓──怒りの切れ端
小学生の姉弟。
「“会社が潰れる”って怒ってた。窓の下で、電話。女の声」
姉の言葉に、弟が合いの手を入れる。
「“あの男のせいだ”って」
「“あの男”は、誰だ」
「わかんない。でも、言い方が大人だった」
安田は「子どもの証言は精度が低い」と首を振る。
「精度は低くていい」
紙魚川は、子どもたちに頭を下げ、手帳に“会社/潰れる/あの男”とだけ書いた。
「切れ端は、切れ端のままがいい。継ぎ目に合うときが来る」
9 事務所──均質の不安
夕方、岡島の事務所。空調が冷えすぎて、湿気だけが床に残っている。
契約書のコピーが、壁一面に規格通りの余白で並ぶ。
紙魚川は、一枚を裏返し、一枚を斜めにし、一枚は光に透かした。
「きれいすぎる。均質は、いつも嘘の近くにある」
机の奥から出てきた古い手帳には、鉛筆で押しつけた字が、消しゴムで荒れた紙に食い込んでいた。
“K報告”。二日前の欄。辞書を切って手入力した痕跡。
紙魚川は、そこだけを指で撫で、「跳ね」を確かめた。
終いが上に逃げる。急いだ字。癖。
10 署内──大森佳奈
夜、会議室に女が現れた。
大森佳奈。黒のジャケット、控えめな光のイヤリング。
立っているだけで、部屋の空気が整う。呼吸の間合い、頷きの角度、視線の高さ。人前に出ることに慣れた身体。
佐久間が淡々と経歴を読み上げる。
「社長秘書。大学は情報系。AI関連の広報記事でコメント多数。昨日の夜は社内で作業、防犯カメラで裏付け」
安田がうなずく。
「なら、容疑から遠い」
紙魚川は、女の正面に立ち、余計な挨拶をせずに言った。
「香水は」
「使います」
躊躇は一秒もなかった。
「お仕事柄?」
「ええ。第一印象は、大事ですから」
返答の語尾は短く、無駄がない。
紙魚川は、ポケットの煙草の箱を指で叩いた。
箱の紙の擦れる音に合わせて、佳奈の視線が一度だけ、箱の角で止まり、すぐ戻った。音に反応する人間は、音のする世界で働いている。
「社内のカメラ映像、白飛びはしないか」
唐突に紙魚川が言うと、佐久間が眉をひそめた。
「何を言ってる」
佳奈は微笑を保った。
「品質は十分です。夜間も補正がかかります」
「補正は、便利だ」
紙魚川は、微笑の形が崩れないことを、むしろ注意深く観察した。崩れない表情は、崩さない訓練の賜物だ。
11 三宅再び──揺れる針
取調室。三宅の目の下の隈はさらに深く、掌は汗に濡れていた。
「俺じゃない……」
言葉は薄い。だが、飾りがない。
安田が冷静に投げる。
「あなたに罪を着せようとした人物がいる可能性が濃くなった。だが、あなたには動機がある。そこが針を振らせる」
「動機なんて……金は困ってたけど……」
声の先が消える。
紙魚川は、三宅の視線が机の角で止まるのを見た。机の角は、逃げ場だ。子どもも、大人も、追われると、角を探す。
「まだだ」
短く告げる。
「まだ、揃ってねえ」
12 掲示板の字──跳ね
帰り道、アパートの掲示板に“夜間の騒音”の貼り紙。下に住人の手書きの苦情が重なる。
終いが跳ねる。縦画の止めが、上に走る。
紙魚川は、受取票、被害者手帳、掲示板──三つの「跳ね」を並べて、鉛筆で同じ跳ねを描いた。
癖は、身体から出る。身体は、嘘をつけない。
13 マンホール──音
深夜。路地に人影は少ない。遠くのビルの屋上で、何かがひゅうと鳴る。
マンホールの蓋の縁に、濡れた足跡が二つ。間隔が狭い。片足を庇って、歩幅が縮んだ跡。
紙魚川は、踵の置き方を真似して歩いてみる。右を庇うと、左に重心が逃げ、傘は左に倒れる。
利き手でないほうで傘を畳もうとすれば、コンビニの前でモタつく。
「……合ってくる」
独り言に、安田が顔を上げる。
「何がです」
「余白同士がな」
14 署内──小さな報せ
戻ると、事務方の若い警官が手を挙げた。
「復旧した被害者の携帯、スケジュールの一部が手入力に切り替わってました。“K報告”。自動補完オフ。辞書、切ってます」
「時間は」
「二十三時三十五分」
切符の発券は二十三時四十一分。
紙魚川は、携帯の打鍵痕の時間と、切符の時刻を同じ頁に置く。
「辞書を切るのは、癖だ。……それを“職業的に”やる人間がいる」
安田が端末を叩く。
「大森佳奈──大学は情報系。システムまわりに明るい。社の広報でAIの補正機能について言及」
「補正。……便利な言葉だ」
紙魚川の口の端に、乾いた線が一本走った。
15 真夜中の喫茶──砕ける音
夜更けの喫茶店。戸口の鈴が控えめに鳴る。
深煎りの匂いが、湿気の匂いを追い出す。
わずかに開いた窓から、街の残響が入ってくる。笑い声、ガード下のバイク、氷がグラスの壁に触れて砕ける音。
紙魚川は、煙草の箱を卓上で転がし、吸わずに戻す。
「俺は昔、一度だけ、機械の“正しさ”に寄りかかった」
安田が顔を上げる。
「……結果、無実を捕まえさせた。数字は正しかった。だが、指が震えていた。紙の端に、汗の跡があった。──あれは、俺にしか拾えなかった」
言って、黙る。
黙ったまま、氷の音がもう一度、砕けた。
「だから、ノイズを捨てない。捨てるたび、誰かの余白が消える」
16 大森の影──微笑の硬度
翌日、再び大森。
会議室の空気は、前回より固い。彼女は同じ黒のジャケット、同じ距離の取り方、同じ微笑の角度。
「昨夜の所在は」
「社内。カメラがあります」
「香水は昨日と同じか」
「ええ」
「香りは嘘をつかない」
紙魚川が言うと、佳奈は小首を傾げ、「香りは印象を整えるものです」と返した。
整える。
整えるために、切る。白飛びさせる。均質にする。
紙魚川は、微笑の“硬さ”を測り、目を伏せた。
17 線が向かう先
手帳。
受取票の跳ね、掲示板の跳ね、K報告の跳ね。
右の踵、左の傘、利き手の逆、香水の尾、丁寧な言葉。
白飛びするカメラ。補正。均質。
線は、ようやく“密”になってきた。密は、方向を持つ。
方向は、ひとりの人間の癖へ向かう。
「安田」
「はい」
「ライバル会社の裏口のカメラ、夜間はどの程度の露光だ。原データを見たい。編集後じゃなく、素の画だ」
安田はうなずき、端末を肩に当てるように持って、走った。
紙魚川は、コートの襟を指で整えた。
「整えすぎたものは、崩れ目が早い」
独り言は、誰にも届かない小ささで、しかし確かな手触りを持って、空気に沈んだ。
第三章 了