一、石川くん、お暇ですか?
ベッドサイドに白装束に黒縁眼鏡の若い男が立ち、僕を見下ろしていた。
それは夏休みの真夜中のことだ。
小狭い自室のベッドでゴロゴロしながら、確かに僕はスマホをみていた。高校最後の夏休み。本当なら受験勉強に勤しんでいるはずなのに、勉強とは全く関係ない動画をいつまでも垂れ流している。
(まあ、息抜きしよう)
そう思って風呂上がりに見始めて、気づけば3時間近く経っていた。
(まあ、明日からやろう)
そう思って、机の上をちらりと見やると、時計がちょうど0:00を指している。すでに明日になっていた。
もう僕はうんざりして、再び画面を覗き込もうとしたその時。男は真っ白な着物姿でしれっと現れたのだ。
「石川くん、お暇ですか?」
男はまるで友人に話しかけるように言った。
「頼みを聞いてもらえますよね」
名前を呼ばれ、僕は固まったまま動けない。
「まず。それは今見るもんじゃないですよね」
僕のスマホを指さして、その見知らぬ男はお構いなしに言った。
背の高い若い男だ。僕より歳は上だと思う。
「誰?」
驚きのあまりなかなか声が出なかったが、なんとか絞り出して、ようやく男に問いかけた。
「通りすがりの幽霊です」
幽霊は、幽霊らしくもなく明るく爽やかに微笑んで答える。
「受験生なのに、随分怠けているなぁと思って、思わず声をかけました」
もちろん、この時の僕は男を幽霊じゃないと思っていた。でもそんなことは怖くて言い出せない。僕が黙っているのをいいことに、男は話を続ける。
「たまに見るならいいです。漫画やアニメの考察動画はたしかに面白い。でも、受験生がダラダラとみるものじゃないです」
この男は何がしたいのだろう。
この不審者は。
突然のことで僕は身を強張らせて眉を寄せるしかできない。警察に電話をすべきか。それとも別室にいる両親に助けを請うか。僕は想いあぐねていたが、その迷いは吹っ飛ぶことになる。
「どうして勉強しないのか、教えてくれませんか?」
穏やかな声でそう言ったあと、男がふわりと宙に浮いて、あぐらをかいたからだ。
「えっ、なんで浮いてるの?」
思わず溢れた言葉に、男はニヤリと笑う。
「幽霊だからですよ」
まさか本物とは。僕はすっかり感心してしまった。
「幽霊って本当にいたんだ」
「そうなんです。いたんです」
浮いている幽霊を目前にして、僕は驚くばかりだ。しかし、男はお構いなしに、あぐらで浮いたまま部屋を一周し、
「それで、あなたは何故勉強しないんですか?」
さっきより少し大きな声で訊ねた。
「受験生なのに」
もはや男のことは怖くなくなっていた。この男が人間だろうが幽霊だろうが、恐怖を感じられない。それどころか図々しい質問してくるもんだから腹が立ってきた。
「……やる気が出ないんだよ」
幽霊は首を傾げる。
「でも、大学行きたいんですよね」
「そうだよ。なのに、出ないんだよ」
どうしてこんなにも勉強をする気が起きないのか。思い当たるところがあったけれど、それはつまり、思い出したくもない出来事だった。
だから、赤の他人に問われてむしろイライラしてきた。
幽霊はこっちの気も知らないでふわふわと部屋を漂って、ふいに本棚を指さした。
「小説家になりたいんですか?」
唐突すぎる質問に僕はビクリと肩をこわばらせる。
「いや、違うよ」
僕は素早く体を起こし、
「ぜんぜん違うよ」
幽霊に向かって全力で否定をした。
「そんな才能ないし」
「でも。ここに、『小説家になるために必要な7つの知識と3つの心得』って本があります」
「ないよ」
「ありますって」
幽霊は目を凝らして背表紙を見つめている。
「それは大昔に買ったものだから」
「大昔っていつですか?」
「ーー四月だよ」
「今年のですか?」
「……今年のだよ」
「おやおや。四カ月前ですか」
幽霊は含み笑いで僕を見下ろす。すべて分かって微笑んでいる。
「文学部を目指しているんですか?」
本棚の本から今度は志望の学部を言い当てた。
「まあ、一応文学部志望だけど、まだ悩んでいるし、経済とか、社会とか、そっちにも興味あるし。だいたい小説家になるために文学部ってわけじゃないから」
少しだけしどろもどろになって、僕は小説家志望ではないことを弁明をした。
「小説家になりたいって夢、だめなんですか?」
「いや、それは、だめってわけじゃないけど、僕は違うってだけで」
「小説家になりたいならなりたいって。もっと堂々と宣言してもいいと思いますけどね」
幽霊は再びベッドサイドに降り立つ。
それから、僕の肩に手を乗せた。
ずっしりと重く、氷のように冷たい感触が一瞬出全身を支配した。体が動かない。
「読ませていただきませんか?」
こんな時に幽霊は幽霊らしい圧力をかけてきたらしい。耳元で「ひゅ~ドロドロドロ」という聞いたことのある音が流れてきた。怪談話のBGMのようだ。
「幽霊の特技。怖がらせ目的の金縛りです」
「卑怯だ」
こんな技が使えるなんて。僕の体の震えが止まらない。背中に戦慄が走り、脂汗が流れる。
邪悪な幽霊モードにはいった男は僕を静かに脅した。
「君の書いた物語を是非とも」
拒否は許されない。
「わかったよ」
僕が答えると、幽霊がニッコリと笑う。固まっていた体が動くようになっていた。
「じゃあ、見せてください」
微笑む幽霊に、僕はスマホを差し出してしまった。