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第9話 明日、少しだけ素直に

 生徒会室のドアを、いつもより少し強くノックする。返事はない。ゆっくりとドアを開けると、沙織が一人、窓際のテーブルでサンドイッチを広げているところだった。


「澄香、いらっしゃい。あら、そっか。桜は今日、用事があるとかだったわね」


 沙織が、いつもの穏やかな笑顔で迎えてくれる。その笑顔が、今はなぜか、少しだけ眩しく、そして少しだけ……憎らしく見えた。


「……うん。お邪魔します」


 努めて平静を装い、ドアを閉める。沙織の隣ではなく、向かいの席に腰を下ろした。無言で弁当箱を取り出し、蓋を開ける。


 窓の外は明るいのに、生徒会室内は妙に空気が重く感じられる。沙織の穏やかな雰囲気が、今の私にはかえって息苦しい。


「いただきます」


「いただきます」


 小さな声で挨拶を交わし、箸を取る。一口、二口と、味のしない食事を無理やり喉に押し込む。沙織は、普段通り、他愛のない話をしている。けれど、私の耳には、その言葉が上滑りしていくばかりだ。


(……聞かないと。でも、どうやって……)


 胸の中で、言葉がぐるぐると回る。単刀直入に聞くべきか? それとも、遠回しに探りを入れるべきか?


「……澄香? 大丈夫? 何かあったの?」


 沙織の、心配そうな声。……また、顔に出ていたか。もう、限界かもしれない。


 私は、意を決して、顔を上げた。桜がいない、この二人きりの状況は、ある意味、好都合だ。


「……ねえ、沙織」


「ん? 何?」


「……変なこと聞くようだけど……今日、廊下で噂、聞いたんだ」


 声が、震えないように、必死で堪える。


「土曜日に……沙織と、二宮怜央が……喫茶店で、その……デート、してたって……」


 言い終えた瞬間、息を詰めて沙織の反応を待つ。


 彼女は、一瞬、目をぱちくりさせ、それから、ああ、と思い出したように小さく頷いた。そして、次の瞬間、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、言った。


「ふふっ。なぁんだ、澄香。そんなこと気にしてたの? もしかして……やいてる?」


「ちがっ……! やいてなんか……! そんなわけないでしょ!」


 反射的に、最大音量で否定していた。全身の血液が顔に集まるのがわかる。やいてる? 私が? あの男に? ありえない! 断じてありえない!


 けれど、その必死の否定が、かえって図星であることを示しているようで、さらに自己嫌悪に陥る。沙織は、そんな私の狼狽ぶりを、面白そうに観察している。


「ごめんごめん、つい。……あの噂ね、まあ、半分は当たってるけど、半分は全然違うわよ」


「……半分?」


「土曜日に怜央と喫茶店に行ったのは本当。でも、デートなんかじゃないわ。彼の方から『相談がある』って呼び出されたの」


 相談? わざわざ休日に、喫茶店で?


「……何の相談?」


 私の問いに、沙織は楽しそうに目を細めた。


「澄香のことよ。『天峰ともっと自然に仲良くなりたいんだけど、どうすればいいと思う?』って、すごく真剣な顔で聞かれたわ。それで、グループランチの計画も、その時に一緒に考えたのよ。場所とか、曜日とか」


 ――え?


 予想外の答えに、頭が追いつかない。私と、仲良くなるための、相談……? あの男が? 私のために?


 心臓が、大きく波打つ。恥ずかしさと、申し訳なさと、そして……否定しようのない、温かい感情が、胸の奥から込み上げてくる。


「怜央ね、『友達からでもいい。少しずつでいいから、天峰のことをもっと知りたいし、俺のことも知ってほしいんだ』って。……あんなに必死な怜央、久しぶりに見たわ」


 沙織は、どこか懐かしむように、そして嬉しそうに話す。デートの噂なんて、くだらない誤解だった。それどころか、彼は、私のことを考えて、行動してくれていた……?


(……本気、なんだ。本当に……)


 その事実が、重く、けれど心地よく、私の心に響く。「友達から」という言葉の裏にあった、彼の誠実さ。それが、今、確かな形を持って迫ってくる。


 さっきまでの、どす黒い感情が嘘のように消え去り、代わりに、別の種類の動揺が私を襲う。顔が熱い。きっと、耳まで赤くなっているだろう。


「そっか……。彼、そんなこと……」


 言葉にならない。俯いて、弁当の白飯をただ見つめる。


 そんな私を見て、沙織は、さらに追い打ちをかけるように、意地悪く笑った。


「どう? これでスッキリした? でもさ、噂をあんなに気にしてたってことは……やっぱり澄香、怜央のこと、相当意識してるんじゃない?」


「別に……意識なんて、してない……」


 もう、否定する声にも力がない。沙織は、くすくすと笑いながら、私の反応を楽しんでいる。


「でもね、澄香」


 と、沙織は少しだけ真面目な声色になって続けた。


「私は、本気で二人のこと、応援してるんだよ」


「……応援?」


「うん。私にとって、怜央はもう、恋愛対象じゃないから。昔、好きだった時期もあったけど、それはもう、ちゃんと終わらせた過去の話。今は、大切な幼馴染で、弟みたいなものかな。だから、彼が本気で誰かを好きになって、一生懸命になってるのを見ると、なんだか嬉しいのよ」


 沙織は、穏やかな、けれどきっぱりとした口調で言った。その瞳には、嘘も、強がりも、微塵も感じられない。本当に、彼女は過去を乗り越え、私たちのことを応援してくれているのだ。


「……そっか」


 その事実に、胸の奥がじんわりと温かくなる。同時に、くだらない噂に一人で勝手に動揺していた自分が、途端に恥ずかしくなった。


「だから、澄香は何も気にしないで、自分の気持ちに正直になればいいのよ。焦る必要なんてないんだから。明日からのグループランチで、ゆっくり彼のことを知っていけばいい。その中で、澄香自身の気持ちも、きっと見えてくるはずよ」


 沙織の言葉が、すとんと胸に落ちる。そうだ、焦る必要はない。まだ、「友達」として始まったばかりなのだ。明日からの、五人での昼食会。そこで、彼と、もっと話して、彼のことをもっと知って……その中で、この厄介な感情の正体も、見えてくるかもしれない。


 そう考えると、ほんの少しだけ、ほんの僅かだけ、明日が来るのが……楽しみ、なのかもしれない、と思ってしまった。


(……期待、してる? 私が? あの男との関係に?)


 気づけば、昼休みは終わりを告げようとしていた。弁当は、結局半分も食べられなかった。味が、しなかったから。


「さ、片付けましょ。午後の授業、始まっちゃうわ」


「……うん」


 空になったていで弁当箱をしまいながら、沙織に、小さな声で礼を言った。


「……ありがとう、沙織。話、聞いてくれて。……その、助かった」


「どういたしまして。私も、澄香の珍しい一面が見られて、楽しかったわよ。噂のことは気にしないで。もし必要なら、私がちゃんと火消ししておくから」


 生徒会室を出て、廊下を歩く。午後の授業に向かう生徒たちの流れ。さっきまでの重苦しい気分は、かなり和らいでいた。


 階段の前で沙織と別れる。「また明日ね」という彼女の声に、「うん、また明日」と返す。その「明日」という言葉に、昨日までとは違う、微かな、けれど確かな響きが伴っているような気がした。


 自分の教室に戻ると、二宮怜央が友人たちと話しているのが目に入った。私が教室に入ったことに気づき、彼がこちらを見る。


 今度は、もう目を逸らさない。私は、彼に向かって、ほんの少しだけ、本当にわずかに、口角を上げた。彼も、一瞬驚いたような顔をして、それから、ふわりと、柔らかく微笑み返してくれた。


 ただそれだけの、ほんの一瞬の交錯。なのに、心臓が、また、うるさく、そして温かく、脈打った。


(……本当に、最悪。……でも)


 自分の席に着き、午後の授業の準備をする。チャイムが鳴り、教室が静寂に包まれる。隣の席の、彼の気配。もう、以前のように、ただ不快なだけではない。無視できない、何か特別な意味を持ち始めている。


 まだ、この感情を「恋」と認めるのは、癪だ。けれど、何かが確かに、私の中で変わり始めている。


 明日からの日々。彼との関係。それがどうなっていくのか、今はまだ、わからない。不安も、戸惑いもある。


 けれど、ほんの少しだけ、その未知の未来を、見てみたいと思ってしまっている自分がいることに、気づいてしまった。

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