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第8話 嫉妬なんかじゃない、はず

 週末という名の、ほんの僅かな猶予期間は終わりを告げ、いつも通りの月曜日が、まるで当然のようにやってきた。けたたましく鳴り響くアラームを無理やり止め、鉛を引きずるような重い身体をベッドから引き起こす。その瞬間、胸の奥底で、冷たく尖ったものがちくりと刺すような、微かな、それでいて無視できない緊張感が疼いた。


(……グループランチ、か)


 昨日、スマホの画面に表示された沙織からのメッセージ。「澄香も来るでしょ? 火曜と金曜、生徒会室でお昼」――有無を言わせぬ、半ば強制的な響き。……まあ、特に断る理由も見当たらなかったから、「行く」と素っ気なく返信はしておいた。面倒だけど、仕方ない。


 メンバーは、いつもの桜と沙織、それに、やけに馴れ馴れしい朝倉くん、そして……二宮怜央。


 あの、私の日常を勝手に引っ掻き回している元凶。


 場所が人目につきにくい生徒会室だという一点だけは、評価できる。学食の騒々しさや、無遠慮な好奇の視線に晒されるよりは、千倍マシだ。


 ――とはいえ、それは明日からの話。今日の月曜日は、何の変哲もない、退屈な一日のはずだ。普段通り、いつも通り、何事もなく過ごせばいい。ただ、それだけ。簡単なことだ。


 そう、頭の中で何度も繰り返す。なのに、ここ最近、不意に、本当に不意に、あの男の顔が頭をよぎるのだ。


 先週の放課後、図書室で隣り合って過ごした、あの奇妙な時間。静かで、息が詰まりそうで、けれど……なぜか、記憶から消えてくれない。あの時の、彼の真剣な横顔や、不器用な優しさが、まるで染みのように思考にこびりついている。


(……なんで私が、あんな奴のこと)


 沸き上がる苛立ちを誤魔化すように、いつもより少しだけ早く家を出た。別に、彼に会うのが楽しみだとか、そんな馬鹿げた理由じゃない。断じて。ただ、なんとなく落ち着かないから、時間に余裕を持って行動したい、それだけだ。遅刻なんてみっともない真似はしたくないし、朝のバタバタした感じが嫌いなだけ。


 初夏の気配を含んだ風は、どこか湿っぽくて、私の苛立ちを助長するようだ。通学路の街路樹が目に痛いほどの緑を誇示しているけれど、そんなものに心を動かされる余裕は、今の私にはなかった。ただ、アスファルトを踏みしめる足音だけが、やけに大きく響く。


 学校の昇降口を抜け、上履きに履き替える。周囲の喧騒が、一気に現実味を帯びて押し寄せてくる。クラスメイトたちの、どこか浮ついた声。週末の惰性を引きずったような、緩慢な空気。普段なら気にも留めないそれらが、今日は妙に神経に障る。


 当たり障りのない挨拶を機械的に交わしながら、教室へと向かう。階段を上るごとに、心臓が、少しずつ、けれど確実に、嫌なリズムを刻み始めるのがわかった。


(……もういるのかな、あいつは)


 教室のドアを開ける。数人の生徒が、すでに席で談笑している。私の視線は、条件反射のように、自分の席の隣へと向けられた。……空席。まだ、来ていない。


(……ふん。別に、どうでもいいけど)


 安堵したような、それでいて、ほんの僅かに、本当に僅かに、肩透かしを食らったような、矛盾した感情が胸をよぎる。すぐにそれを打ち消す。いない方が静かでいい。集中できる。それだけだ。


 自分の席に乱暴に鞄を置き、椅子に深く腰掛ける。深く息を吐き出し、無理やり平静を装う。始業までまだ時間はある。何をすればいい? 参考書でも開くか? いや、今はそんな気分じゃない。


 また、無意識に隣の空席に目をやってしまう。


 ついこの間まで、彼の存在なんて、私の中では「成績の良い、鼻持ちならない優等生」「女子にキャーキャー言われてる、気に食わない男」――その程度の認識でしかなかったはずだ。それが、あの日、あの屋上で、馬鹿正直な告白を受けてから。図書室で、意外なほど真剣な横顔を見てしまってから。……妙に、生々しい「人間」として、意識の片隅に居座り続けている。


(……だからって、別に、何かが変わったわけじゃない)


 そう自分に強く言い聞かせた瞬間、「おはよう、天峰さん」と背後から声がかかった。びくりとして振り返り、反射的に愛想笑いを貼り付ける。「おはよう」。声が、少し上ずったかもしれない。


 始業のチャイムが鳴る、その数分前。教室のドアが開き、待ち構えていたかのように、二宮怜央が入ってきた。


 他の生徒よりも頭一つ高い長身。ただ歩いているだけなのに、なぜか周囲の視線を集めてしまう、そういう種類の人間。教室内から「おはよー、二宮」「怜央!」などと声がかかる。彼はそれに、いつもの涼しい顔で軽く手を挙げて応えながら、真っ直ぐにこちらへ、私の隣の席へと、歩いてくる。


 目が、合ってしまった。ほんの一瞬。彼は、ほんのわずかに口の端を上げ、まるで秘密を共有するかのように、低い声で囁いた。


「……おはよう、天峰」


「……っ、おはよう」


 たったそれだけの、いつもと同じ挨拶。なのに、心臓が、ドクン、と大きく跳ねて、喉が詰まるような感覚に襲われた。彼の声が、吐息が、すぐそばにある。その事実が、私の平静をいとも簡単に打ち砕く。


 彼が鞄を机の横に掛け、椅子に座る。その一連の滑らかな動作から、目が離せない。普段なら気にも留めないはずの、彼の存在そのものが、今は五感を通して私の中に侵食してくるようだ。


(……落ち着け、私。いつも通り。いつも通りだ)


 ホームルームが始まり、担任の退屈な話が続く。私はノートを開き、今日の時間割を無意味に眺めるふりをした。隣にいる彼の体温すら感じてしまいそうな距離。意識しないなんて、土台無理な話だ。ライバルとしての対抗心? それとも、図書室で芽生えた、あの奇妙な連帯感のようなもの? いや、もっと別の……認めたくない、何か? ぐちゃぐちゃになった感情が、頭の中で渦を巻いている。


(……恋なんかじゃない。絶対に)


 授業が始まった。数学、英語、国語。教師の声は遠くに聞こえ、黒板の文字はただの記号にしか見えない。隣の彼は、いつも通り、涼しい顔でノートを取っている。時折、癖なのか、指先でペンをくるりと回す。その動きすら、今日はやけにスローモーションで見えてしまう。


(……明日は、グループランチ……)


 その予定が、ふと頭をよぎる。桜や沙織、朝倉くん。そして、彼と、私。五人で囲む、生徒会室のテーブル。……どんな会話が交わされるんだろう。彼は、どんな顔をするんだろう。想像しただけで、また心臓が妙な音を立て始める。期待なんかしていない。ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、どんなものなのか気になる、それだけだ。


 三時間目が終わり、午前最後の授業は選択科目。私は資料を受け取るために、教室を出て廊下を歩いていた。同じ授業を取っている女子二人と、当たり障りのない会話を交わしながら。


 休み時間の廊下は、人で溢れ返っていた。移動する生徒たちの足音、高らかな笑い声、ひそひそとした囁き声。その喧騒の中、私の耳が、拾いたくない言葉を拾ってしまった。


「……北条会長と二宮くん、土曜にデートしてたって、ホントかな?」


「うん、なんか喫茶店で見たって人がいるらしくて……」


「えー! マジで!? あの二人、付き合ったらヤバくない!?」


「美男美女すぎる……絵になるよねぇ……」


 ――は? デート? 誰と誰が? 北条会長……沙織と、二宮怜央が? 土曜日に? 喫茶店で?


 瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。頭を鈍器で殴られたような衝撃。呼吸が、浅くなる。


「天峰さん? どうかしたの? 顔、真っ青だよ?」


 友人の心配そうな声で、辛うじて意識を保つ。「う、ううん、なんでもない……」と、掠れた声で答えるのが精一杯だった。嘘だ。なんでもなくない。心臓が、嫌な予感を告げるように、激しく脈打っている。


(沙織と、あいつが、デート……?)


 沙織は彼の幼馴染だと言っていた。だから、二人で会うこと自体は、おかしくないのかもしれない。でも、デート? わざわざ休日に? 喫茶店で?


 理解しようとしても、胸の奥で、どす黒い感情が渦を巻き始める。それは、不安? 焦り? それとも……嫉妬?


(……違う! 嫉妬なんて、そんな馬鹿な! 私が、なんで!)


 必死で否定しようとするけれど、一度芽生えた疑念と不快感は、簡単には消えてくれない。


(……最悪だ。本当に、最悪)


 資料室までの道のりは、まるで永遠のように長く感じられた。友人たちの声は、もう完全に耳に入らない。頭の中は、「二宮怜央と沙織がデート」という、たったそれだけの、けれど破壊力のあるフレーズで埋め尽くされていた。


 もやもやする。息苦しい。腹立たしい。なんで私が、こんなくだらない噂に心をかき乱されなければならないんだ。全部、あの男のせいだ。あいつが、私に関わってきたから。私の平穏を、勝手に壊したから。


 結局、午前最後の授業内容は、ほとんど頭に入らなかった。昼休みを告げるチャイムが鳴り響き、解放感よりも疲労感が勝る。


 弁当を持って、よろよろと席を立つ。今日は桜がいない。生徒会室には、沙織が一人でいるはずだ。


(……確かめないと。絶対に)


 この、胸を焼くような不快感の正体を。噂の真偽を。そして、この醜い感情の理由を。逃げるわけにはいかない。


 教室を出ようとした時、また二宮怜央と視線が合った。彼も、私がどこへ行くのか気にしているような、探るような目をしている。けれど、声を掛けるのを躊躇っているようだ。私の方も、今は彼とまともに話せる気がしなかった。平静を装う自信がない。


「天峰、昼は……」


「……沙織と」


 その名前を口にするだけで、喉が詰まる。デートの噂の相手。気まずい。けれど、嘘をつくのも嫌だった。


 彼は、私の内心の動揺には気づいていないのだろう。「そうか、わかった」と、少し残念そうな、それでいて納得したような表情で頷いた。彼も友人たちに呼ばれ、そちらへ向かっていく。


 私は、まるで追われるように教室を飛び出した。生徒会室へ向かう廊下は、昼休みとは思えないほど、静まり返っているように感じられた。


 歩きながら、何度も自問自答する。落ち着け、私。ただの噂だ。たとえ本当だとしても、私には関係ない。彼が誰とデートしようが、私の知ったことではない。……なのに、なんでこんなに……苦しいんだ。

評価やブクマをしていただけますと大変嬉しいです。

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