第21話 隣にいる安心感
タクシーの車内は、重苦しい沈黙と、俺の苦しげな呼吸音、そして時折漏れる咳の音で満たされていた。後部座席で、俺はシートに深く身を沈め、少しでも楽な姿勢を探る。隣では、天峰が心配そうに俺の顔を覗き込み、ずっと手を握っていてくれた。その小さな手の温もりが、今は唯一の心の支えだった。
運転手は、事情を察してか、何も言わずに最短ルートでクリニックへと車を走らせてくれている。車窓から流れる景色を見る余裕は、俺にはなかった。ただ、早くこの苦しみから解放されたい、その一心だった。
ようやく、クリニックらしきの建物が見えてきた。タクシーが停まると、天峰が慌てて料金を支払い、俺の腕を支えながら車を降りる。ふらつく足取りでクリニックの入り口へと向かうと、中から彼女の父親である天峰医師が、心配そうな、しかし落ち着いた表情で出てきてくれた。
「来たか。大丈夫か、しっかりしろ」
医師は、俺の状態を一瞥すると、すぐに状況を把握したようだ。待合室を通り抜け、処置室へと案内される。ストレッチャーではなく、歩いて移動できたことに、少しだけ安堵する。
処置室のリクライニングされたベッドに横たわると、すぐに看護師が駆けつけ、手際よく処置の準備を始めた。酸素マスクが当てられ、純度の高い酸素が鼻と口から送り込まれてくる。少しだけ、息が楽になった気がした。
天峰医師が、聴診器を胸に当て、肺の音を確認する。背中側からも入念に聴診し、呼吸音の変化を慎重に評価している。指先にはパルスオキシメーターが取り付けられ、モニターに酸素飽和度が表示される。
「SpO2は91%か。そこまでの低下ではないが、かなり強い気道狭窄音がある。気管支全体が炎症を起こしているね。すぐに吸入とステロイドの点滴を始めよう」
医師の冷静な指示が飛ぶ。看護師がネブライザーを用意し、薬剤をセットする。マウスピースを咥え、指示に従ってゆっくりと深く呼吸する。霧状の薬が、気管支の奥へと届いていく。同時に、腕には点滴の針が刺され、炎症を抑えるためのステロイド薬が投与され始めた。
「これで、少しずつ楽になるはずだ。しばらく安静に」
医師はそう言うと、モニターの数値を確認し、隣で心配そうに見守っていた天峰に声をかけた。
「澄香、ここにいてあげなさい。何かあったらすぐに呼ぶように。私も、すぐ近くにいるから」
「……はい」
天峰は、小さな声で返事をし、再び俺のそばの椅子に腰を下ろした。
医師と看護師が一旦処置室を出ていくと、室内にはモニターの電子音と、ネブライザーの作動音、そして俺のまだ少し荒い呼吸音だけが響いていた。
「……少しは、楽になった?」
天峰が、心配そうに俺の顔を覗き込みながら尋ねてきた。彼女の瞳は、まだ少し赤く、不安の色が消えていない。
「……ああ。……さっきよりは、……だいぶ……。……天峰の、おかげだ」
呼吸はまだ完全ではないが、あの絶望的な窒息感は薄れていた。意識もはっきりしている。彼女がいてくれなければ、こうして落ち着いて治療を受けることもできなかっただろう。
「……良かった……。本当に、……よかった……」
彼女は、心底安堵したように、ほう、と息をついた。そして、また、俺の手を、そっと、優しく握ってくれた。その温もりが、弱った心と身体に、じんわりと沁み渡っていく。
「……本当に、……ごめん。……あんな、……ひどい状態、見せて……」
弱っている自分を見られたことへの羞恥心と、彼女に心配と迷惑をかけたことへの申し訳なさで、声が震える。
「……謝らないでって、言ったでしょ」
彼女は、少しだけむっとしたように眉を寄せた。だが、その声は優しい。
「……私も、もっと早く気づいてあげられればよかった。水曜日に咳してた時も、ただの風邪だって、勝手に思い込んで……。あなたのこと、ちゃんと見てなかった……」
彼女が、自分を責めるように言う。そんなことはない。彼女は、何も悪くない。悪いのは、自分の体調管理を怠り、無理をした俺自身だ。
「……天峰のせいじゃ、ない。……俺が、……油断してただけだ。……それに、……今日、……天峰が、……来てくれなかったら、……俺、……どうなってたか……。本当に、……感謝、してる。……命、……助けてもらった」
それは、心からの言葉だった。もし彼女が来てくれなければ、俺は一人で発作に苦しみ続け、本当に危険な状態になっていたかもしれない。彼女は、間違いなく、俺の命の恩人だ。
俺の言葉に、彼女は何も言わず、ただ、握った手に、少しだけ力を込めてくれた。その温かさが、今は何よりも心強かった。彼女の小さな手が、俺の大きな手を包み込む。その感触が、奇跡のように感じられた。
点滴が続く間、俺たちは、あまり言葉を交わさなかった。ただ、隣にいる彼女の存在を感じながら、俺はゆっくりと呼吸を整えていった。
弱っている姿を見られているのは恥ずかしい。けれど、それ以上に、彼女がそばにいてくれる安心感が、俺の心を支配していた。
この、特別な時間は、俺たちの関係を、また大きく変えるのだろうか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。彼女が握ってくれる手の温もりを感じながら。
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